初恋ミラージュ
泡島乃愛
第1話 春風
潮風が止むと花の匂いがした。
祖母の弓道場には桜の大樹があった。海の近くにあるため風が吹くとしょっぱい匂いが鼻を抜ける。風に飛ばされた桜の花びらがぱらぱらと振り、屋外の弓道場の片隅に流れ着いている。花びらの雨を、一本の矢がまっすぐに通過する。パアン!と弦音が鳴り、的の横の土を射抜いた。止めていた呼吸を再開させる。息を吸うと桜の澄んだ匂いがほのかに香った。
小学校低学年の頃の記憶だ。よく放課後に祖母のもとに行っては弓を弾いていた。師範の祖母が弓を引く姿は凛としていて格好良かった。祖母に憧れて「わたしもやりたい!」と懇願して弓道を始めたのだ。
その春の日も一人で弓を弾いていた。祖母は大人のクラスを指導していたから、小さな道場にはわたし一人だけしかいなかった。そのはずだったのに、一射を終えると拍手が聞こえてきた。ぱちぱちぱちと小さな音で、たどたどしい子どもの拍手。
音の発信源を探すと、道場を囲う竹塀の外に一人の女の子がいた。わたしよりも小柄な子。桜吹雪の中で、柵越しにこちらをまっすぐに見つめている。白色の髪の毛がふわふわと揺れて、絵本の中からそのまま出てきたみたいな女の子。そのとき読んでいた児童書には「天使は心のきれいな人にだけ見える存在」だと書いてあった。まさにその子のことかと思って、わたしは片目を擦った。
「きれい!すごい!あなたがやったの?」
高い声でその子は言った。ああ日本語が喋れるんだと思った。そして見た目の印象よりも声が大きい。
「……弓のこと?」
「もう一回見せて!」
「でも……」
わたしはその時、自分の弓に納得していなかった。周りにいる弓弾きは中高生や大人ばかりだった。皆わたしのことを子ども扱いしていた。的に当たらなくても当たり前で、当たったら大袈裟に褒めてくる。褒められるたびに、初めは嬉しかったはずなのに自分だけ悪い意味で特別扱いされていることを感じた。
「わたしのおばあちゃんはもっともっと上手いんだよ。プロなんだ」
「でも今見たい! あなたのが見たいの!」
天使は瞳を輝かせた。どうしよう……と思っていたところで、道場の後ろの扉が静かに開いた。
「あなたたちは後ろから見ると碁盤の目みたいね。白と黒の小さな頭」
稽古を終えた祖母が立っていた。
「こんにちは!」と天使が挨拶すると祖母は「あなたは?」と尋ねた。天使は「きれいな音がしたからこっちに来たの」と言う。
おばあちゃんは心が綺麗だから天使が見えるんだ、と瞬時に思った。わたしは祖母に事情を説明して弓を弾いてもらおうとしたけれど、祖母は「あなたが弾きなさい」と言った。口調は命令形だけど、声は背中を押すように優しかった。
そして今度は緊張しながら弓を構えて弦を弾くと、かろうじて的の端っこを掠めることができた。緊張すると駄目なんだよ、だからおばあちゃんの弓を見てもらった方が良かったのに。弓を持っていた手を下ろしてからもその子の方を向けずにいると、また拍手が聞こえた。
「いいよ、当たらなかったから」
弓を置いてから呟くと、いつのまにか道場の床に座っていた天使が隣に立っていた。拍手の手を強めて、痛そうなくらい一生懸命に拍手している。
「もういいってば!」
私はその子の両手首を掴んで拍手をやめさせた。天使はキョトンとした顔をしていた。
「どうして?」
「当たらなかったし、全然きれいなんかじゃないから」
言いながら悔しくなった。
「きれいだったよ。だから拍手した」
天使は手の次はわたしの両頬を手で挟んだ。こわばっていた頬がふわりと包まれる。そしてほっぺをむぎゅっと潰した。
「!?」
「あはは、変な顔!」
「何するの!?」
「怒った!」
「怒ってないけど……」
「けど?」
「……」
「なになに?」
その子は笑うと唇が上がって口がハート型になるような愛らしい笑い方をした。頬の丸さや、笑うたびに髪の毛が揺れる仕草に胸がざわめくのを感じた。
「道場で遊ぶのはやめなさい」と後ろで見守っていた祖母がぴしゃりと言い、天使は「えへへ」と2歩後ろに下がった。それから壁の掛け時計を見るなり「帰らなきゃ」と軒下に置いていた靴に足を通した。
「一人で帰れるの?」と尋ねる祖母に「うん」と返していた。わたしはその子が桜の花の下を駆けて行く姿を見送った。花びらを舞わせながら、春風のように一瞬で過ぎ去っていってしまった。
会ったのは一度きりで、あれ以来天使は現れなくなった。
天使は心のきれいな人にしか見えない。心が汚れてしまったら二度と見えなくなるということだ。わたしの心が汚れてしまったから見えなくなったのかもしれない。
私の初恋はきっとあの天使だった。
中学生になって初めて付き合った彼氏に「初恋はいつ?」と聞かれて、恋らしい恋はいつだっただろうと思い返したら、あの桜吹雪が胸の底に残っていたのだ。告白されてなんとなく付き合ったのとは違う、夢かもしれないような一瞬の恋だった。
わたしの心が綺麗なままで、あの子に恋していなかったなら。今でも天使が見えたのだろうか。
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