第7章

1.何故僕は



 ブレた視界が、ゆっくりと、定まっていった。



「……ん……ん?」



 何故か、辺りが明るい。



 そして何故か、頭の下が、なんとも柔く温かい。




「あ、目を覚まされましたか?」



 そんな声に引かれ、視線を持ち上げた。



 途端、僕は固まる。




「おはようございます、イレールさん」



 リザさんが、優しく微笑んでいた。



 予想外の近距離で、僕を見下ろしている。



「お疲れ様でございました。体の方は、大丈夫ですか?」

「え、あ、は、はい……」



 しどろもどろに返事をしたところで、ようやく気付く。




 あれ? 僕、リザさんの膝に、頭を乗せて寝ていないか……?



 そう察した瞬間、勢い良く起き上がった。リザさんを驚かせてしまったが、すいません。ちょっと今は、フォローを入れる余裕がありません。



 というか。



「あ、あれ? 僕、なんで寝て……というか、え、あ、朝? ……えっ、朝っ!?」



 窓を見れば、先程まで差し込んでいた筈の月明かりが、太陽光に代わっていた。小鳥の鳴き声も聞こえ、麗らかな朝と言わんばかりの光景だ。




「え、え? あ、え、絵はっ? 僕、確か、描き始めて……っ!」



 急いでイーゼルが置かれていた場所を見やる。

 けれど、ない。

 イーゼルも、カンヴァスも、画材もない。一体どういうことだ。




「イレールさん、イレールさん」



 慌てる僕の肩を、リザさんが叩く。



「申し訳ございません。絵の具が乾きやすいようにと思い、風通しの良い場所へ移したのです」



 あちらに、と指差された方を振り返る。




 瞬間。

 僕は、またしても固まった。




 カンヴァスの画面の中に、夜の女神が佇んでいた。

 暗闇に同化する彼女を、月明かりが淡く照らしている。

 布を一枚纏っただけの白い肌は、ほんのりとピンク掛かっており、その上を、煌めく金色の髪が滑り落ちていく。

 柔和な顔立ちながら、気高さに満ち溢れた表情で、こちらを真っすぐ見つめている。




「これ……」

「凄かったですわ。鬼気迫る勢いで筆を振るったかと思えば、唐突に倒れてしまうのですもの。驚いて駆け寄れば、聞こえてくるのは、スヨスヨという健やかな寝息。拍子抜けとは、正にこのことですわ」



 リザさんは、夜の女神と同じ色の瞳を、カンヴァスへ向けた。



「ですが、これほどの作品を、たった一晩で描き上げたのです。きっと、持てる限りの集中力と気力を振り絞ったのでしょうね。ネジが切れた人形のようになるのも、致し方ありませんわ」



 これを、僕が……? 信じられなくて、思わずカンヴァスへ顔を寄せる。

 見れば見るほど、疑念は深まるばかり。それでも、この筆致ひっちは間違いなく僕のものだ。カンヴァスの脇には、イレールと直筆のサインも入っている。




「さぁ、イレールさん。そろそろ出掛ける準備を始めましょう。コンクールの締切は本日までですよ。さぁさぁ、お着替え下さい」



 リザさんに促され、僕は、フェルディナンさんが用意してくれた服に手を伸ばす。部屋の隅へ移動して、制服のシャツのボタンを外していった。




 替えのパンツを履きながら、思う。



 確かに、僕は裸婦画を描く際、記憶が吹っ飛ぶほど集中する場合があった。だが、こんな盛大に飛んだのは初めてだ。それも、最後に倒れるだなんて。どれだけリザさんの裸に意識を奪われていたんだと、呆れてしまう。




 あぁ、しかし。



 何故僕は、その肝心の裸を覚えていないのだろう。



 辛うじて記憶に残っているのは、闇夜に浮かぶ白い肌と、柔らかそうな深い谷間、そして視界がブレるほどの衝撃のみ。




 勿体ないことをしたなぁ。己の不甲斐なさに、溜息が込み上げる。それをリザさんに気付かれぬよう、そっと押し殺した。



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