5.春ではなく夜



 馬車で揺られること、数分。とある家の前に到着した。小さいながら、平民が住まうものよりしっかりとした造りの建物だ。生活感がなく、誰かがいる気配もない。



 フェルディナンさんは鍵を取り出し、扉に付いた大きな錠前を外した。続けて、ドアノブの上下二か所に空いた穴へ別の鍵を差し込み、開錠する。玄関の扉を開き、僕達を中へ促した。



 建物に足を踏み入れれば、つと、馴染みのある匂いが鼻を付く。毎日触れ合っている物達も、現れた。




「ここは……アトリエ、ですか?」

「あぁ。私専用のな」



 フェルディナンさんは、ランプに火を灯しながら頷く。



 僕は相槌を打ちつつ、入口の前で立ち尽くした。リザさんと共に、アトリエ内を眺める。




「ここにあるものは、好きに使ってくれて構わない。大抵の画材は揃っているから、足らなくて困る、ということはない筈だ。

 描き終えたら、この服を着て美術アカデミーのサロンまで作品を運んでくれ。ここからだと、歩いて十分ほどのところにある。念の為、帽子も被っておいた方がいい。それから、襟巻も」



 フェルディナンさんのものらしき上品なシャツとパンツ、キャスケット、そして大判の襟巻が、作業用テーブルの端へ置かれた。



「大丈夫だとは思うが、万一誰かが訪ねて来たとしても、絶対に扉を開けないでくれ。もし入り込まれた場合は、向こうに勝手口があるから、そちらから逃げるように。分かったな?」

「あ、は、はい」

「よし。では、リザ嬢。行きましょう。パウル子爵邸まで送ります」


「いえ、結構です。わたくしもこちらへ残りますわ」




 え? 思わず僕は、目を見開く。

 フェルディナンさんも、驚いたように眉を持ち上げた。




「わたくしは、今回の絵のモデルを務めております。やるからには最後までお手伝いさせて頂きますわ」

「でも、リザさん」

「それに、我が家へ戻った場合、何かしらの危険が及ぶ可能性があるのでしょう? ならばこちらに隠れていた方が、まだ身の安全を確保出来るかと」

「……分かりました。では、パウル子爵には、私からどうにか現状を伝えておきます。ですが、リザ嬢。この場所も、いつ相手に気付かれるか分かりません。そこはどうか忘れないで下さい」

「はい……わたくしの我儘を聞いて下さり、ありがとうございます」



 フェルディナンさんは、足早に去っていく。玄関の扉が閉まり、つと、静寂が訪れた。




「……では、急いで描きましょうか」



 僕は制服の上着を脱ぎ、シャツの袖を捲る。それからイーゼルにカンヴァスを乗せて、画材の積まれた可動式ラックを引き寄せた。

 見た限り、僕が普段使っているものと同じ道具は、一つもない。そもそも、グレードが違う。



 絵の具は、僕が使ってみたいと思っていた発色のいい速乾性の奴だし、鉛筆は、誕生日プレゼントにねだる予定の書き味抜群なお高い奴だし、筆なんか、一本一本にフェルディナンさんの名前が刻印されている。

 他にも、オーダーメイドと思われる高品質なあれこれが、そこら中に並んでいた。流石は貴族。創作環境の整え方が桁違いだ。




「イレールさん。どうされるおつもりですか?」

「そうですね。兎に角、女神を描くことだけに集中しようと思います。その他の部分は、極限まで削りましょう」



 リザさんに座って貰う椅子を、部屋の真ん中へ持っていく。



 ……いや。



「いっそ、テーマを変えましょう」

「え?」

「春ではなく、夜の女神にします」



 僕は、部屋に差し込む月光の下へ、椅子を置いた。




「月明かりが、夜の女神を照らします。女神が光によって強調されると共に、それ以外は、全て暗闇に沈むんです。いっそ、女神自身の陰影も強く付けて、半分闇と同化しているような印象にしましょう。そうすれば、全体的にかなり省略出来ると思います」



 どうぞ、とリザさんを椅子に招き、腰掛けて貰う。一旦離れ、顔の角度や手の位置などを指示していく。



 闇夜の中、白く浮き上がるリザさんは、美しかった。

 月の光を反射して、金髪がキラキラと輝く。

 太陽よりも柔らかな明かりが、彼女の美貌を優しく縁取った。

 これならいける。視界のブレを僅かに感じつつ、自分の思惑がおおむね当たったと、内心拳を握り締める。



 ただ、一つだけ誤算があった。




「服かぁぁぁー……」



 周りが暗いお蔭で、確かに物は描かなくても問題ない。

 しかし、その分リザさんが纏う制服に複雑な陰影が浮かび、皺や生地の描写が余計難しくなってしまった。



 ただでさえ苦手だというのに。思わず唸り声が口から零れる。




「あの、どうかしましたか、イレールさん? なにかトラブルでも?」

「あ、いや、その」



 リザさんに、服についての問題点を、説明していった。



「成程。そういえば父が以前、イレールさんに関してそのような話をしておりましたわ」

「まぁ、それでも、他の部分は省けていますからね。やっぱり、この方向で行こうと思います。もしもの時は、服に少しでも掛かっている影は全て塗り潰すとか、いっそ女神の胸より上だけにフォーカスを当てるとか、やりようはありますから」



 上手くいくかは、分からないけれど、という本音を飲み込む。




 兎に角、やろう。こうして悩んでいる時間も勿体ない。そう自分に言い聞かせ、鉛筆を握り直した。

 下書きは、最低限のラインだけ取ればいい。後は絵の具を直接乗せていけば、どうにかなると思う。



 いや、どうにかするんだ。

 そう気合いを入れ直し、僕は鉛筆片手に、リザさんを振り返った。




 すると。



 唐突に、パサリ、と衣擦きぬずれの音が、小さく響く。




「……わたくし、考えたのですが」



 リザさんが、いつの間にか椅子から立ち上がっていた。




「難しいならば、いっそ描かなければよろしいのではないでしょうか」



 僕に背を向けたまま、おもむろに、制服のジャケットを脱ぐ。




「省けるものは、極限まで省く。時間がない今、そうしなければならないと、わたくしも理解しております」



 続けて、リボン、ブラウス、スカート、と足元へ滑り落とした。




「ですので」



 大判の襟巻を体へ巻き付けると、ブラジャーとショーツも、隙間から放る。




「夜の女神は、このような姿で描くというのは、いかがでしょうか」



 そう言って、リザさんは振り返った。




 大判の襟巻を一枚、纏っただけの姿で。




 気恥しげに頬を染め、それでも彼女は、まっすぐ僕を見つめていた。

 



 月明かりに照らされて、暗闇の中から、白い肌が浮かび上がってくる。

 強く付いた陰影のせいか、本当に夜と同化しているような、夜からそっと姿を現したかのような、不思議で、幻想的な光景だった。



 下半身は、月の光が届かずほぼ見えない。上半身も、襟巻で隠れている。

 だが、艶やかな曲線を描く体のラインは、はっきりと分かった。

 僕が今まで見てきたどの裸婦画よりも、完璧なプロポーション。

 あまりの完成度に、ここにいるのは本物の夜の女神なのではないかと、錯覚してしまいそうだ。



 特に、襟巻に押し上げられて、深く柔らかな谷間を築く胸の神々しさと言ったらもう。



 最早この世のものとは思えない。

 神が生み出した奇跡。天界から落ちてきた宝玉。

 いくつもの称賛が閃くも、相応しい言葉は見つからない。

 全てが陳腐に思えるほどの存在感を、解き放っていた。




 神懸かっているとは、正にこういうことを言うのだろう。




 そう思った直後。僕の脳みそへ、凄まじい衝撃が襲い掛かる。黒、白、金、赤と、リザさんを構成する色が、次から次へ雪崩れ込んできた。

 あまりの情報量と濃さに、ガツンと殴られたかのような痛みが、頭を走り抜けていく。



 瞬間。



 僕の視界は、大きく、ブレる。



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