第1章 「初のタイムリープ」

# 第1章 「初のタイムリープ」


青白い光が実験室内を満たす。叶野カナタは厚手のグローブで操作パネルを軽く叩き、ディスプレイに浮かぶ数値を確認した。築波クオンタニアの夜は静まり返り、実験室の窓から見える縁空仏閣の灯りだけが、闇に浮かぶ浮島のように揺らめいていた。


「カナタ博士、QBISシステム、起動準備完了しました」


QBIS-07の機械的な声が静寂を破る。カナタは無意識に右手で白衣のポケットに触れた。そこにはナギサの右耳につけていた星型のイヤリングが入っている。体中に緊張が走る。


「エネルギー供給率は?」


「量子地熱からの供給、安定しています。効率98.7%。因果熱の発生も許容範囲内です」


QBISシステムは、量子地熱エネルギーを利用してタイムリープを可能にする。地熱エネルギーは築波山の地下から抽出され、QBISの中核を動かす鼓動のように実験室に響いていた。カナタはその科学的な冷たさを振り払うように、ナギサのイヤリングを握りしめ、感情を再び呼び起こした。


カナタは深く息を吐いた。量子地熱エネルギーの低いうなり音が、まるで地球の鼓動のように実験室全体に響いている。


「07、今日の実験目標を確認して」


「はい。目標は13秒間のタイムリープ実行と、過去改変の可能性検証です。現時点での成功確率は43.2%」


43.2%。半分にも満たない。けれど、これが科学というものだ。カナタは自分に言い聞かせるように頷いた。


「始めよう」


カナタはグローブを握りしめ、ナギサの笑顔を思い浮かべながら、メインスイッチに手を伸ばした。彼女の心臓は高鳴り、失敗の恐怖と成功への期待が交錯して、指先が微かに震えていた。


彼女は制御卓のメインスイッチに手をかけた。12年前、10歳の妹ナギサを失った日から、このときのために全てを捧げてきた。量子生体情報システム—QBIS。タイムリープを可能にする技術。ナギサを救うための希望。


カナタの指がトリガーを引いた。


「QBISシステム起動。タイムリープカウントダウン、10、9、8...」


07の声が機械的にカウントを刻む中、カナタは目を閉じた。脳裏にナギサの笑顔が浮かび、胸が締め付けられる。築波山の頂で見た星空と、右耳の星型イヤリングが輝くナギサの横顔。「また明日も来ようね」と約束した翌日、彼女は二度と戻らなかった。


「...3、2、1、タイムリープ実行」


世界が一瞬にして歪んだ。


カナタの意識は引き裂かれるような痛みとともに回転し、次の瞬間には同じ実験室に立っていた。だが、なにかが違う。時計の針は13秒前を指している。自分の姿は見えない。観測者でありながら、干渉できない存在として過去に立っている感覚。


「これが...タイムリープ」


彼女の声は虚空に吸い込まれ、誰にも届かない。視界の端が青く発光し、時間が泡のように揺らいでいる。量子の波動が皮膚の下を這い回るような感覚に、カナタは震えた。実験台の上には小さな薬瓶が置かれていた。あの日、ナギサが飲んだ薬。初期のタイムリープ実験の失敗で生じた副作用を和らげるための—


突然、ドアが開き、小さな少女が入ってくる。星型のイヤリングを右耳につけ、好奇心に満ちた瞳でラボを見回す。


「ナギサ...」


カナタの胸が痛む。妹は薬瓶に手を伸ばし、なにかを確認するように見つめている。カナタは叫びたかった。「飲まないで!」と。だが、声は出ない。体も動かない。過去を観測することはできても、干渉することはできないのだ。時間という川を見つめるだけの石ころのように。


「因果熱、限界値に接近しています」


07の警告がカナタの意識に響く。


「エネルギー負荷超過。システムが不安定です」


ナギサが薬を手に取る瞬間、実験室全体が揺れた。量子の波が不協和音を奏で、因果律が歪む。カナタの視界が急速に崩れ始める。時間の糸が解け、現実がガラスのように細かくヒビ割れていく感覚。


「いや、まだだ!ナギサ!」


絶望的な叫びとともに、カナタは手を伸ばした。指先がナギサに触れようとした瞬間、世界が白く染まり—


激しい衝撃とともに、カナタは現在の実験室に投げ出された。床に膝をつき、乱れた呼吸を整えようとする。警告音が鳴り響き、赤い警告灯が無情に点滅していた。皮膚の下で何かが蠢き、分子が再構成されるような違和感が全身を走る。


「実験失敗。因果律の歪みを検出。システムは緊急停止しました」


07が報告する。


「カナタ博士、あなたの生体信号に異常が見られます。医療プロトコルを—」


「中止」


カナタは息を切らせながら命じた。彼女は震える手で右腕を見た。青白い光の筋が皮膚の下を走っている。まるで星々の軌道が腕の中に閉じ込められたかのように、幾何学的な模様が浮かび上がる。**量子斑痕**。タイムリープの代償だ。


「実験データを保存して」


カナタは立ち上がろうとして、再び膝をつく。量子斑痕から波状の痛みが全身に広がり、現実そのものが揺らぐような知覚の歪みが押し寄せる。


「次回の実験のために全てのパラメータを再計算する必要がある」


実験の失敗後、カナタは床に膝をつき、ナギサの笑顔を思い浮かべながら、


「もう一度、必ず会える」


と心に誓った。量子斑痕の痛みが彼女の決意を燃え上がらせていた。


「カナタ博士、あなたの体調が—」


「構わない」


カナタは固く言い切った。


「次回は必ず成功させる。ナギサを救うまで、何度でもやり直す」


彼女の目に決意の光が宿る。量子斑痕の痛みさえも、彼女の意志を曲げることはできなかった。カナタは立ち上がり、制御卓に向かった。時計の針は、冷酷に時を刻み続けている。


「07、次の実験の準備を始めよう。因果律の歪みを最小限に抑える方法を計算して」


「了解しました」


07が応答する。


「しかし、注意すべきリスクが—」


「リスクは計算済みだ」


カナタは腕の量子斑痕を見つめながら言った。


「この痛みよりも、ナギサを失った痛みの方が耐えられない」


窓の外の夜空には星が瞬いていた。かつてナギサと見上げた同じ星空。カナタはポケットのイヤリングを握りしめた。たとえ時間と因果の法則に逆らおうとも、彼女は妹を取り戻す。量子の海を泳ぎ、13秒の壁を越えて—あの瞬間に戻るまで。


カナタの指先が震えた。失敗を示す赤い数値が冷たく瞬き、QBIS実験室の空気を引き裂いていた。量子地熱エネルギーの低いうなり音だけが、彼女の息苦しい静寂を埋めていく。量子斑痕が瞬き、皮膚の下で時間そのものが揺らぐ感覚が全身を覆う。


「13秒でさえ、救えなかった」


言葉を吐き出したカナタは、実験台に両手を突いて項垂れた。意識操作の照明が彼女の感情に反応し、青白く揺らめいている。第七次実験。七度目の失敗。量子状態の不安定さは、彼女の心を映すかのように乱れ続けていた。


カナタはタイムリープの失敗に打ちひしがれながらも、ナギサを救うための執着を捨てることができなかった。彼女の心は解放を求める声と、執着の鎖に縛られていた。


「失敗したようね、カナタ」


突然の声に、彼女は振り返った。薄闇の中、一人の女性が立っていた。白衣でもなく、実験服でもない、黒の素材感が異質な服。女性の左目に宿る虹彩時計が、七色の光を放ち、不気味に時を刻んでいる。まるで別の次元から覗き込む窓のように、その瞳は現実の層を透視しているようだった。


「あなたは...緋室キリコ」


カナタは警戒心を隠せず、一歩後退した。キリコはQBISプロジェクトの監視者でもなく、関係者でもない。それなのに、実験室のセキュリティをすり抜け、彼女の前に現れた。


「そんな目で見ないで。私も科学者よ、あなたと同じ」


キリコは淡々と言い、実験装置に指先を滑らせた。左目の虹彩時計が一瞬加速し、部屋の電子機器が同期するように明滅した。


「ただし、失敗から学ぶ分だけ、あなたより少しだけ先を行ってるわ」


「何が言いたいの?」


カナタは強張った声で問うた。疲労と絶望が彼女の思考を曇らせている。


キリコは実験装置のスクリーンを眺め、かすかに唇を歪めた。


「因果熱について知ってる?」


「因果...熱?」


「タイムリープが引き起こす副作用よ」


キリコは一歩近づき、声を落とした。彼女の左目の虹彩時計が鮮やかに輝き、まるで時間そのものを測定しているかのように七色の光が旋回する。


「時間を遡るたび、現実の骨格が少しずつ溶けていく。量子物理学では観測によって現実が定義されるというでしょう?因果熱は時間だけでなく、あなたの意識も蝕み始めている。過去と現在の記憶が混ざり合い、やがてあなたは自分が誰なのかさえ見失うわ」


キリコはカナタに近づき、


「因果熱はあなたの意識を蝕むだけでなく、築波クオンタニア全体に影響を及ぼすわ。もう後戻りできない道よ」


と告げた。彼女の声には、過去の失敗を知る者の重みが宿っていた。


QBIS-07のモニターが突然点滅し、「エネルギー負荷超過」の警告音が鳴り響いた。カナタは驚いてシステムをチェックしたが、異常は見当たらない。視線を戻すと、キリコの左目の虹彩時計が刻む音が、警告音と同期していることに気づいた。


「あなたが13秒を超えるタイムリープを試みるたび、因果律の隙間から熱が漏れる。それが因果熱。蓄積すれば、時間の連続性が溶け、現実は予測不能に崩れ始める」


キリコは冷静に説明した。


「もう七回も試した。あなたの体は、既に因果熱に侵されている。このまま続ければ、ナギサを救うどころか、あなた自身が時間の海に溶けていくわ」


カナタは無意識に右腕を掴んだ。確かに、実験のたびに腕に鈍い痛みを感じていた。キリコの言葉は、彼女の心に不安の種を蒔いた。しかし、ナギサの笑顔が心の奥から浮かび上がり、その不安を押し流す。


「それでも、私は進む」


カナタは固く言い切った。


「ナギサを救うために、何度でも試す」


キリコは溜息をつき、カナタの目をじっと見た。


「執着が強すぎると、自分だけでなく、救いたい人も傷つけることになる。因果熱は時間だけでなく、あなたの意識も溶かし始めている。過去を変えれば、あなたの存在そのものが変質する。もう手遅れになる前に、本当に大切なものを見失わないで」


「あなたは何者なの?」


カナタは問いかけた。


「なぜ私のことをそこまで知っている?」


キリコの唇に浮かんだ微笑みは、謎を深めるだけだった。彼女は左目の虹彩時計に触れ、


「私たちは似ている。だからこそ、警告しておきたかった」


と言った。その目の奥に、カナタは何かを見た。痛みか、後悔か、それとも—


その時、実験室の空気が揺れ、QBIS-07が突然起動した。モニターには「量子共鳴検知」の文字が躍り、スペクトル波形が乱れた。キリコは慌てた様子もなく、


「因果熱の波が来たわ」


と呟いた。


カナタは動揺しながらも、システムの安定化に手を伸ばした。頭の中では、キリコの警告と、ナギサを救いたいという思いが激しくぶつかり合う。


「選択は自由よ、カナタ」


キリコは実験室を出ようとして、振り返った。左目の虹彩時計が最後に鮮烈に輝き、まるで未来からの警告のように空間を歪めた。


「でも、覚えておいて。時間を変えるとき、変わるのは時間だけじゃない。あなた自身も、変わってしまう。そして、その変化は時に、救いたかった人をさらに遠ざけることもある」


カナタはキリコの後ろ姿を見つめながら考えた。タイムリープの危険性は理解できる。しかし、ナギサの死を受け入れることはできない。彼女は実験データを見つめ、


「たとえ因果熱で体が焼き尽くされても、あと一度だけ...」


と心に誓った。


夕暮れの光が実験室の窓から差し込み、カナタの決意の瞳を照らしていた。


静寂が実験室を支配していた。QBIS実験室の照明は、カナタの心拍に反応するかのように微かに明滅し、失敗した実験の余韻を青白い光で照らしていた。タイムリープ装置は今や冷たく佇み、量子地熱エネルギータンクだけが低く唸り続けていた。


「もう少し…あと13秒だけ」


カナタは操作卓に突っ伏したまま、強張った指で数値を睨んでいた。実験は再び失敗した。たった13秒の過去へのタイムリープ。数式上は可能なはずだった。それなのに、因果律の壁は崩れなかった。


突然、左腕に電流が走った。


「っ…!」


まず熱が来た。皮膚の下から沸き上がるような、骨を溶かすような熱。カナタは息を詰まらせ、白衣の袖をまくり上げた。そこに浮かび上がったのは、銀色の斑紋だった。


まるで水銀が皮膚の下を流れるような模様が、左手首から肘へと蛇行しながら広がっていく。斑痕はゆっくりと脈打ち、青白い光を放った。外側の現実が内側へと折り畳まれていくような、異質な幾何学が皮膚の上に刻まれていく。


「量子…斑痕」


口にした瞬間、痛みが爆発した。


カナタの視界が白く染まる。実験室の照明が彼女の悲鳴に反応し、明滅を早めた。痛みは単なる神経伝達ではなかった。それは時間そのものが肉体を引き裂く感覚だった。斑痕は青白く輝き、皮膚の下で時間そのものが歪み、分子構造が再構成されるような違和感が全身を襲う。


「観測されない粒子は全ての状態を同時に持つ」


彼女は自分が学生に教えた量子力学の基本原理を、痛みに耐えながら呟いた。この斑痕は、タイムリープという観測者不在の時間断片が彼女の肉体に刻んだ傷痕だ。無限の可能性が一点に圧縮された痕跡。存在しない時間が、存在する肉体に刻まれた矛盾。


痛みが波のように押し寄せた時、ナギサの笑顔が一瞬脳裏に浮かんだ。星空の下で輝く彼女の瞳と、「明日も来ようね」という約束の言葉。その翌日、彼女は二度と戻らなかった。


痛みは徐々に引いていった。カナタは床に膝をつき、汗に濡れた顔を上げた。左腕の斑痕は今や静かに脈打ち、青白い光を放っていた。まるで遠い星の鼓動のように。時計の針は容赦なく進み、彼女を現実に引き戻す。


「たった13秒」


カナタは痛みを押し殺しながら立ち上がった。タイムリープで過去を変えるには、たった13秒でいい。ナギサが実験室に入る前の13秒。彼女を止められる13秒。それだけで全てが変わる。彼女の指先が震え、斑痕が現実を歪める。青白い光が瞬くたび、実験室の輪郭が揺らぎ、量子の波が干渉しあうように現実が重なり合う幻覚が視界を埋める。


「QBIS-07、システム再起動」


カナタの声に応じ、AIアシスタントが青い光を放った。


「叶野博士、あなたの生体情報に異常が検出されています。実験の継続は推奨されません」


静かな機械音がラボに響く。カナタは左腕の斑痕を見つめ、指でなぞった。痛みはまだそこにあった。だが今やそれは燃料となっていた。斑痕の光が揺らめくたび、彼女の中に閉じ込められた時間の断片が鼓動を打ち、未来と過去の境界が薄れていく感覚。


「続けるよ、07。これは代償じゃない」


彼女は震える指で量子演算装置のスイッチを入れ直した。低い唸り声がラボ全体に響き渡る。


「これは、約束だから」


カナタはナギサの笑顔を思い浮かべた。左腕の斑痕が青白く輝き、彼女の決意を照らし出していた。これは傷跡ではない。これは時間を超える橋だ。ナギサへと続く道しるべだ。たとえ因果熱で自分の存在が溶けようとも、たとえ現実の骨格が歪もうとも—


「もう一度、必ず会える」


量子装置が再び唸りを上げ始めた。カナタの左腕の斑痕が、未来と過去を繋ぐ道標のように、静かに輝きを増していった。彼女の瞳に決意の光が宿る。その目には、因果律の壁を超えて、ナギサがいる時間へと辿り着く未来だけが映っていた。




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