「13秒の向こう側: 量子と愛の物語」

藤笑アスカ

プロローグ 「雨の葬儀と謎の女」

プロローグ 「雨の葬儀と謎の女」

雨は確率の波となって、築波クオンタニアの空を灰色に染めていた。滴は無数の可能性を帯びて落ち、量子現世の街並みを濡らす。葬儀場の屋根を叩く音は、時間という無慈悲な観測者の足音のようだった。


叶野カナタは白い棺の前に立ち尽くし、その中に横たわる妹の顔を見つめていた。叶野ナギサ、享年十歳。彼女の表情は、まるで眠っているかのように穏やかだった。


「観測されなければ、存在は確定しない」


かつて自分が論文で書いた言葉が、今、皮肉な重みを持ってカナタの心を締め付けた。ナギサの死を観測した今、それは不可逆の現実となり、可能性の波は永遠に崩壊したのだ。


雨音が葬儀場の静寂を破り、薄暗い照明が揺らめいていた。カナタは感情を抑え込み、棺に静かに手を伸ばす。ナギサの冷たさに震える指先とともに、カナタは心の中でこう呟く。


「ごめんね、ナギサ。私のせいだ」


科学者としての冷静さと、姉としての熱い愛情が交錯する中、声は「ナギサ…」と漏れるだけで、残りは記憶の波に押し流される。


「姉ちゃん、見て!流れ星!」


七年前の夏の夜。二人は築波クオンタニアの縁空仏閣から星空を見上げていた。十歳のカナタと五歳のナギサ。夜風にそよぐ髪と、ナギサの興奮した声が空に溶け込む。


「あれは流星じゃなくて、人工衛星よ」


と、カナタが説明する。


「うーん、つまんない。姉ちゃんはなんでも科学で説明しちゃうんだから」


と、ナギサ。しかし、カナタはにっこりと微笑む。


「でも、それが面白いんじゃない?どうして空に星が見えるのか。なぜ世界はこうなっているのか。それを理解することは、宇宙の謎を解き明かすことなんだよ」


小さな手がカナタの指を握り、


「私も姉ちゃんみたいに、いつか全部わかるようになりたい」


と願う。


「あなたならきっとなれるわ。あなたは特別な子だもの」


と、カナタがナギサの頭を撫でる。星空の下、二人の影はひとつに溶け合っていた。


思い出は量子の霧のように消え、現実の重みがカナタを引き戻す。胸に広がる息苦しさの中、彼女は小さく呟く。


「観測は現実を確定する。だが、観測前の状態に戻ることはできないのか?」


葬儀の言葉も儀式も、彼女の意識に届かない。カナタの心は既に次なるステップ、QBISプロジェクトへと向かっていた。量子生体情報システム―短時間のタイムリープを可能にするはずの、彼女の最新の挑戦。


棺の中、ナギサの右耳にはカナタが贈った星型のイヤリングが静かに輝いていた。


「あなたを救ってみせる」


と、カナタは誓う。

「私の実験で起こった事故を取り消す。あなたを死なせない」


科学者としての冷静な理性と、姉としての熱い愛情の狭間で、彼女は実験室へと向かう。一方、雨は確率の波のように窓ガラスを伝い、葬儀場の壁に刻まれた般若心経の一節の下、静かに流れ落ちていく。


葬儀の後、カナタは無言で実験室へ足を運ぶ。雨音が時間の足音のように背中を押す中、彼女のQBIS実験室は地表から数百メートル上に浮かぶ縁空仏閣の一角に位置していた。


窓の外には、空中に浮かぶ縁空仏閣の姿が見え、量子地熱エネルギーの低いうなり音が空間を満たす。研究室は薄暗く、机の上には未完成のタイムリープ装置の設計図が散乱し、壁には量子計算式と般若心経の一節が並ぶ。科学と仏教の融合―それこそが築波クオンタニアの核心である。


「存在は空なり。空は存在なり」


カナタは呟きながら、QBISシステムの理論的基盤である量子と仏教の融合を思い描く。ナギサを救うという執着が、もしかすると解放への道を閉ざしているのではないかという疑念が一瞬よぎる。しかし、彼女は計算式を確認しつつ、再び声に出す。


QBISシステムは、量子の重ね合わせ状態と仏教の「空」の概念を組み合わせたものだ。観測によって波動関数が崩壊するように、因果関係もまた観測により固定される。ならば、観測前の状態に戻ることは―


「過去に干渉するというのは、危険な試みですね」


突然の声に振り向くと、実験室の入り口に一人の女が立っていた。彼女は二十代後半らしい外見で、黒いスーツに身を包み、左目には虹色に輝く幾何学的な模様が浮かんでいる。


「あなたは…」


と警戒しながらカナタが問いかける。


「ここは関係者以外立ち入り禁止です」


「私は緋室キリコ」


と、淡々と名乗る彼女は、カナタのQBISプロジェクトに興味を抱いていると告げる。


「タイムリープによる過去改変。まるで神の領域ですね」


その言葉には皮肉が混じる。カナタは眉をひそめ、


「どうやってセキュリティを通過したの?」


と問い返す。キリコは微笑むが、その笑みには暖かみはなく、


「重要なのはそれではありません。あなたが妹を救おうとしていることこそが問題なのです」


と続ける。


「あなたは私のことをどれだけ知っているの?」


カナタが問いかけると、キリコは一歩前に進み、左目の虹彩時計が不気味に輝く。


「あなたが思っている以上に。最初のタイムリープ実験が失敗し、妹さんを失った。その事故を取り消すために新たな実験を準備しています。しかし、因果律を操作することの代償をご存知ですか?」


キリコの左目の輝きに、カナタは自分の未来の姿を垣間見るかのような既視感を覚える。


「代償など問題ではない」


と、冷たく答えるカナタに対し、


「その執着こそが問題なのかもしれませんね。でも、私もかつては同じ道を歩み、同じ痛みを抱えていました。あなたの瞳の光は、かつての私そのものです」


と語るキリコ。カナタは混乱し、


「何が言いたいの?」


と問い詰めるが、キリコはさらに続ける。


「あなたは私に似ています。同じ痛み、同じ執着、そして同じ量子の海を彷徨っている。観測されなければ、すべての可能性は同時に存在する。ナギサを救う世界も、救えない世界も、選択の果てにある未来も―」


「説明してください」


と一歩前へ出るカナタに、キリコは近づき、その左目の虹彩時計が一瞬、カナタの瞳に映る。その瞬間、カナタは鏡を見るかのような既視感に襲われる。自身が知らぬ苦しみと諦念が、そこに映っていた。


「いずれわかります」


と静かに告げるキリコは、


「因果の歪みが大きくなればなるほど、因果熱も強くなり、量子斑痕があなたを蝕み始める。私のようになるまで」


と続ける。


「因果熱?量子斑痕?」


未知の用語に科学者としての好奇心が刺激され、カナタは問い返す。


「執着は苦しみを生む」


と、キリコは後退しながらも語る。


「それが仏陀の教えです。しかし、あなたはその教えを受け入れられない。だからこそ、私はここにいるのです。あなたがこの先に見る未来のために」


外では雷が鳴り、一瞬部屋が白く照らされる。光が消えると同時に、キリコの姿は跡形もなく消えていた。


カナタは動揺しながらも、実験台に目を戻す。心に芽生えた疑念を振り払い、ただ一つの目的―ナギサを救うこと―だけを胸に、彼女は再び設計図に手を伸ばす。窓に打ち付ける雨音は、まるで時間の足音のように静かに響いていた。


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Tags:

#タイムリープ , #量子力学 , #姉妹愛 , #仏教 , #SF小説 , #感動 , #科学と愛 , #因果熱 , #量子斑痕

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