第15章:封鎖とデータの攻防

道路封鎖 - 壱日目:夜明けの決意


夜明け前の空気は、ジャングルの湿気と土の匂いを乗せて、

肌にまとわりつくように重かった。


古びたロングハウスに集ったイバン族の村人たちの間には、

ほとんど眠らずに過ごした夜の疲労と、これから始まる戦いへの覚悟、

そして抑えきれない緊張が静かに満ちていた。


昨夜執り行われた「森魂継承の儀」は、

アミンの内なる戦士の魂を完全に呼び覚まし、

その瞳にはもはや迷いの色はなく、森の精霊の揺るぎない光と、

指導者としての重みが宿っていた。


彼の全身から放たれる気迫は、不安を抱える村人たちにさえ、

不思議なほどの静かな勇気を与えているかのようだった。


「時は来た。俺たちの土地と、子供たちの未来を賭けた戦いだ」


アミンの低いが力強い声が、夜明け前の静寂を破った。


凜は固唾を飲んでアミンを見つめ、

その隣で彩花はリュックのストラップを握りしめ、

胸の高鳴りを必死に抑えていた。


長老であるアチェン村長もまた、その場に静かに佇み、

深く刻まれた皺の奥の瞳で若い世代の決断を見守り、

そしてこの抵抗に全てを懸ける覚悟を示していた。


彼の存在そのものが、

イバン族の不屈の精神を体現しているかのようだった。


夜明けの薄明かりと共に、農園へと続く主要道路に、

村人たちの手によってバリケードが築かれ始めた。


それは単なる物理的な障害物ではなかった。

太い丸太や使い古された農具、廃材に加え、

女たちが持ち寄った色鮮やかなプア・クンブの布が誇らしげに掲げられ、

森の精霊や祖先の魂を象徴する木彫りの装飾が施されていく。


彼らの抵抗が、単なる暴力的な妨害ではなく、

奪われた文化と土地を取り戻すための、

そして森と共に生きてきた民族の誇りを賭けた聖なる戦いであることを、

世界に示すために。


アミンは、その一つ一つの作業に鋭い視線を送りながらも、

興奮しそうになる若者たちに


「決して、こちらから手を出すんじゃねえぞ。

俺たちの戦いは、暴力じゃない。誇りを忘れるな!」

と繰り返し、力強く、しかし冷静に強調した。


アチェン村長もまた、時折村人に静かに声をかけ、

その言葉と存在感で、揺れ動く彼らの心を一つに束ねていた。


NGO「Save the Orangutan Forest」のアリにも、

この道路封鎖の計画は昨夜のうちに伝えられていた。


アリからの返答は、


「すぐに直接介入することは難しい。

しかし、状況は国際社会と共に注視している。」

「万が一の事態――不当な暴力や人権侵害が発生した場合には、

いつでも駆けつけられるよう万全の準備を整えている」

というものだった。


それは心強い言葉ではあったが、今この瞬間、

彼らは自らの力と知恵で、この局面を切り開かなければならない。


バリケードが徐々にその威容を現していく中、

彩花と凜は、アミンと固い握手を交わした。


「頼んだぞ」というアミンの短い言葉に、二人は力強く頷き返し、

農園の闇へと続く潜入経路へと足を踏み入れた。


彩花の背負うリュックには、最小限の調査機材と、

この5日間で全てを明らかにするという、

科学者としての使命感と悲壮な決意が詰まっている。


凜の腰には、かつて村で護身用に持っていた鉈が差してあるが、

それはあくまで最後の最後の手段だ。

彼女の真の武器は、その鋭い観察眼と、困難に立ち向かう不屈の精神だった。


(農薬の残留濃度を最優先に…初日に主要ポイントを押さえる)

彩花は心の中で何度も手順を確認する。


事前にリストアップした調査ポイント、限られた時間、

そして常に付きまとう発見のリスク。


焦りが胸を締め付けるが、隣を歩く凜の、

森の獣のように研ぎ澄まされた気配と静かで力強い眼差しが、

彼女を支えていた。


ジャングルの夜明け前の冷気が、汗ばむ二人の頬を撫でる。


サリバトールのため、この豊かな森のため、

そしてここに生きる人々の未来のために。


二人の科学者としての使命感と、一人の人間としての義憤が、

危険な潜入への恐怖をわずかに上回っていた。


アミンの、そして村人たちの覚悟をその小さな背中に背負い、

二人は息を潜めて農園の奥へと進んでいった。



道路封鎖 - 弐日目:威嚇と不動


一夜明け、封鎖された農園への進入路には陽光が鋭く差し込み、

イバン族の伝統模様が施されたバリケードを照らし出していた。

その文化的象徴は、彼らの抵抗が単なる妨害ではなく、土地と生活、

そして魂の叫びであることを静かに主張している。


アミンは夜通し警戒を怠らず、その双眸には覚醒した戦士の炎が

揺らめき続けていたが、目の下には濃い隈が刻まれていた。


アチェン村長は、バリケードの傍らで静かに座り込み、

先祖の霊に祈りを捧げ、その揺るがぬ存在感で村人たちを鼓舞していた。


彼らの背後には、故郷を奪われた村人たちの、

疲労と不安を押し隠した、静かだが揺るがぬ決意があった。


農園内部では、彩花と凜が息を殺して行動していた。

初日に主要ポイントでの農薬サンプルの採取を終え、

この日は水路の流れや水量を重点的に調査していた。


しかし、広大な農園は迷路のようであり、

警備員の巡回ルートを避け、監視カメラの死角を縫って進む作業は、

想像以上に神経をすり減らす。


時折聞こえてくる重機の音や、遠くの話し声に、

二人の心臓は嫌な音を立て、

その度に互いの存在を確かめるように視線を交わした。


(まだ足りない…)

(もっと広範囲のデータを集めないと、農園全体の影響を証明できない…)

彩花は焦りを押し殺し、震えそうになる手でデータを記録する。


凜は周囲の木の葉のざわめきや鳥の声にも注意を払い、

五感を研ぎ澄ませて彩花の背中を守るように立っていた。

彼女の腕に残る古傷が、この地の理不尽な暴力を思い出させ、

静かな怒りを燻らせる。


その日の昼過ぎ、バリケードの外側から、昨日とは明らかに

異なる数の車両が土煙を上げてバリケードの手前に急停車した。


中から、農園の管理者らしき男たちに加え、

より多くの屈強な作業員たちが、怒鳴り声を上げながら降りてきた。


彼らは、進入路が依然として封鎖されていることに業を煮やし、

昨日以上の威圧感で迫ってくる。


その数は村人たちよりも多く、

手には太い木の棒や鉄パイプのようなものを握っている者もいる。


「どけ!貴様ら、いつまでこんな真似を続ける気だ!

これは威力業務妨害だぞ!」

「さっさとこんなガラクタを撤去しろ!我々の仕事を邪魔するな!

農園に入れないじゃないか!」


リーダー格と思しき男が、唾を飛ばすようにアミンたちを威嚇する。

その目は血走り、剥き出しの敵意が村人たちに突き刺さる。


村人たちの間に緊張が走り、何人かが後ずさりそうになるが、

アミンが一歩前に進み出た。


「ここは我々の土地だった。

お前たちこそ、これ以上我々の土地を踏みにじるな。」


アミンの声は低く、静かだが、

大地を揺るがすような気迫が込められていた。

疲労の色は見せまいと、彼は背筋を伸ばし、相手を真っ直ぐに見据える。


「何を言っている!州政府との契約は済んでいる!

お前らに権利などない!」

農園の男は契約書らしきものをひらつかせた。

「ダヤク(田舎者)どもが、調子に乗るな!」


罵詈雑言が雨のように降り注ぐ。

農園の男たちは、バリケードを指差し、村人たちを嘲笑い、脅し、

あらゆる言葉で彼らの尊厳を踏みにじろうとした。


村の若者たちが怒りに顔を赤らめ、拳を握りしめるが、

アミンは鋭い視線でそれを制し、

自らも挑発に乗らないよう唇を固く結んだ。


「我々は暴力は振るわない。

だが、この土地から一歩も引く気はない」


凜もアミンの隣に立ち、農園の男たちを睨み据えた。

「あなたたちのしていることは、この森と、

ここに生きる全ての命を殺す行為だ!

その罪を自覚するべきだ!」


農園の男たちは鼻で笑い、さらに汚い言葉を浴びせかける。

にらみ合いは数時間に及んだ。


赤道直下の太陽が容赦なく照りつけ、互いの体力と精神力を奪っていく。


だが、村人たちはアチェン村長の静かな佇まいと、

アミンの揺るがぬ覚悟、そして凜の毅然とした言葉に支えられ、

一歩も引かなかった。


やがて、業を煮やした農園の男たちは、

このままでは埒が明かないと判断したのか、

「覚えていろ!明日ただで済むと思うな!」

と捨て台詞を残し、トラックに乗り込み引き上げていった。


おそらく、さらに上の者に指示を仰ぎ、

より強硬な手段を準備するのだろう。


バリケードには、一時的な静寂が戻った。

しかし、誰もがこれが嵐の前の静けさであることを痛いほど理解していた。

農園側がこのまま引き下がるはずがない。


村人たちの顔には深い疲労の色が濃く浮かんでいたが、

その瞳の奥の闘志は、昨日よりもむしろ強く

燃え上がっているように見えた。


農園の奥深く。

彩花と凜は、遠くから断続的に聞こえてくる怒号に息を詰めていた。

(始まった…アミンたちが、私たちのために…)

彩花の胸は、恐怖と焦燥で張り裂けそうだった。


一刻も早く、確実な証拠を掴み、この戦いを終わらせなければ。

しかし、焦りは禁物だ。

冷静さを失えば、全てが水泡に帰す。


二人は互いの目を見つめ、無言で頷き合うと、

再び慎重に、だが確実な足取りで、データの収集を再開した。

日の暮れるのが、これほど恐ろしく、

そして待ち遠しく感じられたことはなかった。


道路封鎖 - 参日目:亀裂とSOS


三日目の朝。

空気は昨日にも増して鉛のように重く、バリケードを挟んで

対峙する村人たちと、その向こう側で機会を窺う農園側の間には、

一触即発の緊張が張り詰めていた。


アミンはほとんど眠れぬ夜を過ごし、

その眼光は疲労で充血しながらも野生の獣のように鋭く、

しかしその奥には深い疲労の色も滲んでいた。


アチェン村長は、ただ静かに、

しかし断固とした表情でバリケードの中央に座し、

その姿が無言の抵抗を示し、村人たちの精神的な支柱となっていた。


農園内部では、彩花と凜の焦りが頂点に達しようとしていた。

限られた時間の中で、彼女たちは危険を冒しながらも水路の奥へと進み、

サンプルの採取と環境データの記録を執念で続けていた。


しかし、農園の警備は日を追うごとに徐々に厳しくなっている

ように感じられ、何度も危うい状況に陥りそうになる。


警備員の巡回頻度が増し、以前は見かけなかった監視カメラが

設置されている場所もあった。


(このままでは、五日間もたないかもしれない…!)

(証拠は集まりつつあるけれど、まだ不十分…!)

彩花の胸に、最悪の予感がよぎる。


記録するデータの数値は、彼女の予測を裏付けるように、

農園による環境汚染の深刻さを示していたが、

それを裏付けるための広範囲なサンプルがまだ不足していた。


その予感は、正午過ぎに現実のものとなった。

昨日よりも明らかに数を増した農園の作業員たちが、

今回は小型のブルドーザーまで持ち出してバリケードに迫ってきたのだ。


金属の軋む音、エンジンの唸り、男たちの怒号、

そして何かが破壊される鈍い衝撃音が、

ジャングルの静寂を無慈悲に切り裂いた。


「来るぞ!絶対に引くな!子供たちに未来を渡すんだ!」

アミンの檄が飛ぶ。


村人たちは肩を組み、人間の盾となってバリケードを守ろうとする。

だが、ブルドーザーの圧倒的な鉄の力の前に、

プア・クンブの布や木彫りの装飾は無残にも引き裂かれ、

バリケードの一部が轟音と共に崩れ落ちた。


「うわあああっ!」

村人の悲鳴が上がる。


突破口から雪崩れ込んできた作業員たちともみ合いになり、

数人の村人が突き飛ばされ、地面に打ち付けられた。


鉄パイプや木の棒が振るわれ、抵抗する村人の腕や足に

鈍い打撃音が響き、怪我を負う者も出始める。


非暴力を貫こうとする村人たちだったが、一方的な暴力の前に、

その決意は揺らぎ始めていた。


その混乱の中、ブルドーザーが作り出した亀裂から、

数人の屈強な作業員がバリケードの突破に成功し、

農園の奥へと続く道へ走り出した。

その方向は、彩花と凜が潜んでいる水路の上流へと繋がっている。


バリケードの指揮を執っていたアミンもその危険を即座に察知、

「まずい!彩花たちが危ない。」

「ここは任せた!数人、俺に続け!」

と叫ぶと、数人の身軽な若者に指示を出し、

自らも崩れたバリケードを飛び越え、彩花たちの元へと疾走した。


その頃、彩花と凜は、水路の隠れたポイントで、

流量計の設置と水質分析装置の調整を終えようとしていた。


遠くから聞こえてくる、昨日までとは比較にならないほどの

激しい騒音と地響きに、二人は顔を見合わせる。


「何かがおかしい…!この音…!」


彩花が装置から顔を上げた瞬間、

背後の鬱蒼とした茂みが大きく揺れ、

汗だくで目を血走らせた屈強な作業員の男たちが、

息を切らしながら姿を現した。


その手には、泥のついたシャベルや鉈が握られている。


「見つけたぞ!こそこそと嗅ぎ回りやがって!」

「大学の研究だと?ふざけるな!」


男たちの目は憎悪に燃え、汚い言葉と共に彩花と凜に迫る。

凜は咄嗟に彩花を庇い、腰の鉈に手をかけた。


しかし、相手は三人、しかも凶器を持っている。

多勢に無勢だった。絶体絶命かと思われたその時、


「そこまでだ!」


アミンの野獣を思わせる咆哮が響き渡った。


水路脇の草陰から文字通り獣のように飛び出したアミンは、

先頭の男の鳩尾へ強烈な体当たりを叩き込んだ。

男は呻き声を上げて地面に倒れた。


アミンに続いて若者たちが飛び出し、

残りの作業員たちに襲いかかる。


アミンは、鍛え抜かれた戦士のように、

冷静かつ的確に相手の動きを封じていく。


急所を狙った攻撃で戦闘能力を奪うが、

命を脅かすような深手は負わせない。


アミンも若者たちも、敵を殲滅することよりも、

彩花と凜の安全を確保することを第一に考えていた。


「二人とも無事か!?」

アミンの額には汗が光り、息も荒い。

その目には、仲間を傷つけられた怒りと、

二人を守り切った安堵が混じっていた。


「アミン…ありがとう…」

か細く、震える声で彩花は礼を述べた。

まだ恐怖が抜けきらないのだろう、その顔は青ざめている。


一歩間違えば、全てが終わっていた。

アミンたちの介入がなければ、集めた貴重なデータも、

そしてもしかしたらそれ以上のものも、

無残に奪われていたかもしれない。


バリケードへと戻ると、状況はさらに悪化していた。

負傷した村人たちが地面に座り込み、苦痛の声を上げている。

女性たちが彼らの手当てをしているが、薬も包帯も十分ではない。


アチェン村長も、その惨状に肩を落とし、唇を噛み締めていた。

このままでは、村人たちの心も、そして物理的なバリケードも、

完全に破壊されてしまうだろう。


「もう…限界かもしれない…。」

凜が唇を噛みしめる。

彼女の目には、無力感と怒りが浮かんでいた。


その時、彩花の脳裏に、美咲と海月の顔が鮮明に浮かんだ。

アクア部で苦楽を共にした仲間たち。

彼らなら、この状況を理解し、力を貸してくれるかもしれない。


「そうだ…美咲たちなら…!

この状況を、世界に伝えられるかもしれない!」


彩花は震える手でスマートフォンを取り出し、

ジャングルの木々の間からかろうじて繋がる微弱な電波を探した。


「凜、アミン、聞いて。

美咲たちに…この状況をSNSで世界に発信してもらう。」

「国際的な世論を動かせれば…

農園側も、政府も、無視できなくなるかもしれない!」


それは、暗闇の中で見つけた、細く、しかし確かな一条の光だった。

他に道は見えない。


彩花は祈るような気持ちで、美咲にメッセージを打ち始めた。

ボルネオの森で起きている理不尽な暴力、イバン族の苦しみ、

そしてサリバトールと森の未来を託す、魂の叫びを。

その指は、未来への最後の希望を託すかのように、力強くキーを叩いていた。



道路封鎖 - 肆日目:蜂起と魂の舞


昨夜、彩花が、美咲と海月に送ったSOSのメッセージは、

夜明けを待たずに大きなうねりを生み始めていた。


彩花の悲痛なまでの訴えと、ボルネオの森で起きている

理不尽な現実を伝える言葉は、美咲と海月たちの心を強く打ち、

彼らは即座に行動を起こした。


彼らが作成した、ボルネオの現状を訴える衝撃的な内容のSNS投稿は、

友人たちの手によって瞬く間にインターネットの海を駆け巡った。


ハッシュタグ「#SaveBorneoForest」「#JusticeForIban」は

トレンドを駆け上がり、国境を越えて様々な言語に翻訳され、

環境活動家やジャーナリスト、

そして名もなき多くの人々の心を揺さぶったのだ。

それは、一人の少女の小さな叫びが、世界を動かし始めた瞬間だった。


四日目の陽が昇る頃には、

その効果はバリケードの現場にも目に見えて現れ始めていた。


封鎖された農園への進入路には、

昨日までの疲弊しきったイバン族の村人たちに加え、

どこからともなく集まった新たな支援者たちの姿があった。


近隣の村々から、あるいは都市部から、

この小さな抵抗運動に共感した人々が、

食料や水を手に次々と駆けつけていたのだ。


その数は膨れ上がり、

バリケード周辺は昨日までの悲壮感とは打って変わって、

まるで祭りの前夜のような不思議な熱気に包まれ始めていた。


それは、まさに

「七十もの怒りが結集した」とでも言うべき光景だった。

人々の顔には、農園への静かな憤りと、

イバン族への力強い連帯感が溢れていた。


この予期せぬ支援の波に、アミンは目頭を熱くした。

三日間の孤立無援の戦いで擦り切れていた彼の心に、

新たな闘志が湧き上がるのを感じていた。


彼の瞳には、儀式で覚醒した森の魂の輝きに加え、

多くの仲間を得たことへの確かな手応えが宿る。


アチェン村長もまた、集まった人々の力強い眼差しに、

そして彼らがもたらした希望の光に、

かすかな安堵の表情を浮かべていた。


「今こそ、我々の魂を示す時だ。世界が我々を見ている!」

アミンの声が、集まった人々に響き渡る。

その声には、昨日までの疲労を吹き飛ばすような力が漲っていた。


その言葉を合図に、

バリケード前でイバン族の伝統的な舞踊「ンガジャット」が始まった。


戦士の雄々しさを表現する勇壮な踊り、森の鳥の飛翔を模した優雅な舞。

色鮮やかなプア・クンブの美しい織物が風に揺れ、

ゴングの低く厳かな響きと、

力強い太鼓のサペの音色がジャングルの空気を震わせる。


それは単なる踊りではない。

土地への祈り、先祖への敬意、

そして奪われたものを取り戻すための魂の叫びだった。


続いて、古から伝わるイバン族の歌が朗々と歌い上げられる。

森の精霊の囁き、川のせせらぎ、

そしてイバン族の苦難と希望の歴史そのものが、

歌声となって世界へ向けて放たれていく。


それは、かつて「森魂継承の儀」でアミンが感じた、

森の叡智と一つになる感覚を、

そこにいる全ての者たちと共有するかのようだった。


集まった人々は息をのみ、その光景を見守った。

多くのスマートフォンが掲げられ、その神秘的で力強い

パフォーマンスはリアルタイムで世界中に拡散されていく。


「先住の土地を守る戦い」として、

彼らの抵抗は、かつてないほどの注目を集め始めていた。


その光景は、農園側にとって、

武力よりもはるかに厄介な圧力となりつつあった。


農園内部。

彩花と凜は、外部の状況の変化を微かに感じ取りながらも、

データの収集を続けていた。


国際的な注目が集まれば、

農園側も迂闊な手出しはしにくくなるかもしれない。


しかし、それは同時に、自分たちの潜入が発覚した場合の

リスクも増大させることを意味していた。

残された時間はあと一日。


(あと一日…必ず、この手で、農園の罪を暴く証拠を掴む!)

彩花は汗を拭い、分析機器の数値を睨みつける。

その目には、科学者としての冷静さと、

仲間たちの戦いに応えようとする熱い想いが同居していた。


凜もまた、最後の力を振り絞るように、彩花を援護し、

周囲への警戒を怠らなかった。


日に日に増していく疲労とプレッシャー。

しかし、バリケードで戦う仲間たち、

そして遠い日本から声を上げる友人たちの存在が、

二人を突き動かしていた。


夕刻。バリケード周辺には、依然として多くの人々が残り、

歌や踊りは続いていた。


農園側は、この予想外の事態と国際的な視線に、

今のところ沈黙を守っている。


しかし、それは嵐の前の静けさにも似て、誰もが明日、

最終日に何が起こるのか、固唾を飲んで見守っていた。


ボルネオの小さなジャングルの一角が、

今や世界の注目する闘いの舞台となっていたのだ。



道路封鎖 - 伍日目:凶弾、記録された悲劇、そしてアリの介入


運命の五日目。

夜明けの空は、まるでこれから起こる悲劇を予感させるかのように、

不気味なほど静まり返っていた。


四日間の抵抗と国際的な注目は、しかし、農園側と、

そして彼らの背後にいる者たちを黙らせるには至らなかった。


支援者たちの数はさらに増え、バリケード周辺には昨日以上の熱気と、

同時にこれまでにない緊張感が漂っていた。


農園内部。

彩花は、予定していた最終エリアのデータ収集に集中していたが、

凜と共にバリケードの方角から聞こえてくる、

昨日までとは明らかに異なる、不穏な騒ぎ声に気づいた。


それは次第に大きくなり、地響きのような重機の音、

そして複数の怒号が混じり、無視できないほどの緊迫感を帯びていた。


(何か、とんでもないことが起きている…!)

二人は顔を見合わせ、


彩花は凜に

「私は先にアミンたちの様子を見てくる!

あなたは最後のサンプル採取を終えたら、すぐに合流して!」

と告げ、危険を承知でバリケードへと引き返し始めた。


凜も頷き、急いで作業を終えるべく動き出す。

彩花は茂みに身を隠しながら、スマートフォンの録画モードを起動し、

状況を記録しようと試みた。


バリケード周辺に近づくにつれ、事態の深刻さが肌で感じられた。

地響きと共に怒号が響き渡り、彩花が茂みから目にした光景は、

まさに地獄絵図だった。


農園側が差し向けたのであろう、

作業服姿の男たちを乗せたトラック三台が、バリケードに突進し、

木材が砕け散っていた。


村人たちの悲鳴と男たちの怒声がジャングルに響き渡る。

さらに、いつの間にか四台に増えた警察車両がその周囲を固め、

その一部からは白煙が上がっていた。


それは催涙ガスであり、農園の土埃と混じり合い、

目に染みる刺激臭が風に乗って漂ってくる。


咳き込む支援者たちの苦しそうな声が、

風のざわめきと共に彩花の耳に届いた。


アミンは鬼神のごとき形相で村人たちを庇い、

この暴力的な突入を必死に押し返そうとしている。


その混乱の様子を、彩花は震える手で、

息を殺しながらスマートフォンに収めていた。


その時だった。


「やめろ!話し合いを!」

アチェン村長が、老いた身を挺して、

激しく衝突する警官隊や作業員たちと村人の間に割って入ろうとした。


その声は、催涙ガスの煙と怒号にかき消されそうになりながらも、

悲痛な叫びとなって響き渡った。


次の瞬間、乾いた銃声が轟く。


ファインダー越しに、彩花はその瞬間を捉えてしまった。


スローモーションのように、アチェン村長が胸を押さえ、

ゆっくりと崩れ落ちる姿。

赤い鮮血が、大地を汚していく様。


「村長っ!!」

アミンの絶叫がこだました。


「そん…な……」

彩花の指からスマートフォンが滑り落ちそうになる。

息ができない。

目の前で起きたことが信じられず、ただ、呆然と立ち尽くす。


森と川を慈しむように語っていた村長の声が、

鼓膜を震わせ、胸を締めつける。


彼女もまた、引き寄せられるように駆け寄り、震える手で彼の肩に触れた。

温もりは急速に失われ、代わりに生々しい血の感触と、

今まで嗅いだことのない恐怖が彩花を襲う。


村長の目がわずかに動き、彩花を見つめる。

息は浅く、掠れた声はまるで遠い記憶の底から響くようだ。

「……サイカ…」

言葉にならない音が、乾いた血の匂いと共に彩花の鼓膜を打つ。

カメラを持つ手が、重力に引かれるように力なく落ちる。


その時、アミンが、血に濡れた手で彩花の肩を強く掴んだ。

その力強い感触が、かろうじて彼女を現実に繋ぎ止める。


「彩花、カメラを手にしろ。村長の魂を、世界に響かせてくれ。」

アミンの声は震えていたが、その奥には鋼のような決意が宿っていた。


彩花は涙を堪え、一度は下ろしたカメラを再び震える手で構え直した。

ショックと使命感が彼女の中で激しくせめぎ合う。

レンズの奥で、変わり果てたアチェン村長の姿が、

彼女の記憶の中の笑顔と重なり、激しい痛みを伴って脳裏に焼き付いた。


この真実を隠すことは、彼の死を、そして彼の生きた証を裏切ることだ。

彩花は深呼吸を繰り返し、自分を奮い立たせるように録画ボタンを押した。


「ボルネオの森は心臓、川は血管……詰まっ……」

村長の言葉は途切れ、彼の大きな手が、

まるで何かを掴もうとするように虚空を彷徨い、力なく落ちる。


彼の最後の言葉が、静かな風の音と重なり、彩花の耳朶に深く刻まれる。

その瞬間、彼女の中で何かが決壊した――

農園の罪、奪われた川の命、そして村長の死が、彼女に答えを激しく求め始めた。


アミンが立ち上がり、彩花の肩をそっと掴む。

「彩花、村長の声を届けてくれ。頼む」

その目には喪失の痛みと村の意志が燃える。


彩花は映像をSNSにアップロードする。

「村長の声を、世界に…」と呟き、投稿ボタンを押す。

血と土、村長の最後の言葉が、ネットの海に波紋となって広がる。


騒然とする現場、動き出す警察官。

「撮影中止!公務執行妨害だ!」


彩花はレンズを向けたまま、毅然と反論する。

「事実を記録しているだけです。何が妨害ですか?」


その瞬間、若い警察官が有無を言わさず彩花の手首を掴み、

スマホを奪おうとする。


抵抗も虚しく、スマホは泥濘に落ち、画面が蜘蛛の巣状にひび割れた。

「痛い!やめて!」

彩花は叫ぶも、


遅れてきた凜の

「なぜこんな暴力を!」という怒号も届かず、

彩花は拘束される。


「上からの指示だ!カメラとスマホは没収、破壊しろ!」

彩花のスマホに気づいた警官が吐き捨てるように言った。


「証拠を残させてたまるか!」

ためらいなく振り上げられた足が、彩花のスマホを捉える。

鈍い破壊音。


それは、アチェン村長の最期の言葉だけでなく、

この不正義そのものを記録したデバイスを、無残な姿へと変える音だった。

飛び散る画面の破片。


皮肉なことに、その破壊の瞬間すら、

直前まで続いていたライブ配信を通して世界中に拡散されてしまったのだ。


農園と、その背後に潜む黒幕。

そして、それを黙認してきた政府と警察。


彼らが血眼になって隠蔽しようとした醜い繋がりは、

まさに彼らの手によって、白日の下に晒された。


まさにその時。

数台の四輪駆動車が猛スピードで現場に到着した。


ドアが開き、降り立ったのは

NGO「Save the Orangutan Forest」のアリ・タンと、彼女のチームだった。

国際的な報道機関の腕章を巻いたカメラマンの姿も見える。


「何をしている!発砲許可はあったのか!ここは国際的な監視下にあるぞ!」

アリの鋭く、威厳に満ちた声が響き渡る。


彼女は躊躇なく警官隊の指揮官の前に進み出て、

冷静かつ毅然とした態度で状況の即時鎮静化を要求した。


その背後では、NGOのメンバーがアチェン村長の元へ駆け寄り

救護を試みるが、既に手遅れだった。

カメラマンたちは、この一部始終を記録している。


国際的なNGOの介入と、メディアの存在は、現場の空気を一変させた。


警察隊も、それ以上の強硬な手段に出ることを躊躇せざるを得なかった。

アリは、冷静な交渉と断固たる態度で、警察の撤退と、

これ以上の衝突を回避するための協議の場を設けることを約束させた。


最後のサンプル採取を終えた凜が現場に駆けつけた時、

そこには、血に濡れた大地と、悲しみに打ちひしがれる村人たち、

そして、アリに肩を抱かれながらも、

破壊されたスマートフォンを呆然と見つめる彩花の姿があった。


アミンは、亡き村長の傍らで、天を仰ぎ、血染めの誓いを立てていた。

その瞳には、悲しみと怒り、そして森の魂を受け継いだ戦士としての、

新たな決意が燃え盛っていた。


アリが駆けつけ、事態はひとまず収拾された。

しかし、失われた命は戻らない。


この悲劇は、彼らの戦いが新たな局面に入ったことを、

そして、彩花と凜が命がけで集めたデータ、

そして彩花が記録し、世界に拡散された村長の最期の映像が、

これからどれほど重い意味を持つことになるのかを、

残酷なまでに示していた。


夕陽がジャングルを赤く染める中、

ボルネオの森には、深い悲しみと、

それでも消えることのない抵抗の炎が静かに燃え続けていた。

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