第14章:魂の覚醒と夜明けの賭け
クチンのゲストハウスの一室は、重い沈黙に支配されていた。
数日前、農園の管理事務所へ正式に水路の調査を申し入れた彩花と凜、
そしてアミンは、けんもほろろに追い返されたばかりだった。
「私有地での無許可な活動は一切認めない。
今後一切、農園に近づくな。」
という最後通告と共に。
その時の、警備責任者の冷え切った目が脳裏に焼き付いて離れない。
「やはり、まともな方法ではデータは取らせてくれないわね…。」
彩花はテーブルに広げられた白紙のノートを見つめ、か細い声で呟いた。
以前、感情のままに破り捨てた論文の残骸は、彼女の心に深い傷と、
そして新たな決意を刻みつけていた。
アリ・タンの言葉が蘇る――
「農園の操業が環境や特定の種に与える破壊的な影響を
科学的に証明できれば、国際社会を動かせるかもしれない。」
しかし、その証明には、農園内部の水路から直接採取した、
揺るぎないデータが不可欠だった。
「どうすれば…。」
凜が苦悩の表情で顔を覆う。
焼き討ちにあったイバン族の村の光景、契約書も燃え、
法的な手立ても見えない現状が、重くのしかかる。
その時、ずっと窓の外を眺めていたアミンが、低い声で口を開いた。
「…道を、塞ぐ。」
「え?」
彩花と凜が同時に顔を上げる。
「農園に繋がる道を、だ。
奴らが一番困るのは、パーム油の出荷が止まること、
生産ラインが麻痺することだろう。」
「何日か…いや、数日でも動きを止められれば…」
アミンの言葉は途切れたが、その目には暗い炎が宿っていた。
かつて彼の村が農園に飲み込まれ、父親が失意のうちに亡くなった記憶。
そして、先祖代々の土地を奪われたイバン族の怒りが、
彼の中で沸騰していた。
凜の目に、一瞬鋭い光が走った。
「道路封鎖…それは、あまりにも危険すぎる。
農園側が黙っているはずがない。
警察も介入してくるかもしれない。」
「それに、焼き出された村の人たちを巻き込むことになるぞ。」
彼女の声は、過去の銃撃事件で負った傷の記憶と、
村人たちへの想いで震えていた。
「だが、他に手があるのか?」
アミンが静かに問い返す。
「このままじゃ、俺たちは何もできずに、全てを奪われたままだ。」
彩花が息をのんだ。
アミンの言う通りだった。
危険を冒さなければ、未来は拓けない。
そして、もし農園の動きを一時的にでも止められるのなら…。
「…五日間。」
彩花が呟いた。
「もし、本当に農園の動きを止められるのなら、
五日間あれば、必要なデータは集められるかもしれない。」
「水質、流量、農薬の残留濃度、そして堰(せき)の開閉による
稼働が水路の生態系に与える影響…それらを包括的に記録するには、
最低でもそれだけの日数が必要よ。」
その言葉には、科学者としての冷静な分析と、わずかな希望、
そして大きな覚悟が滲んでいた。
「五日間の道路封鎖…。」
凜が繰り返す。
「その間、彩花と私が農園に潜入してデータを取る…。」
「ああ。」
アミンが頷く。
「俺が村の連中をまとめる。
奴らも、もう黙って奪われるだけの生活にはうんざりしているはずだ。
故郷を取り戻すためなら、力を貸してくれるだろう。」
アミンの脳裏には、かつて共に植林をし、
農園の暴力に立ち向かおうとした村人たちの顔が浮かんでいた。
そこから三人の計画は急速に具体化していった。
アミンは数日かけて、避難生活を送るイバン族の村人たちを訪ね歩いた。
焼き討ちの恐怖、土地を奪われた怒りと悲しみ、
そして何よりも未来への絶望を抱える彼らに、
アミンは静かに、しかし力強く語りかけた。
「これは単なる抗議じゃない。
俺たちの土地を取り戻し、子供たちに未来を残すための戦いだ。」と。
最初は恐怖とためらいを見せていた村人たちも、
アミンの真摯な言葉と、その瞳に宿る揺るぎない決意に心を動かされ、
一人、また一人と立ち上がり始めた。
中には、かつて凜と共に農園の不当なやり方に抵抗しようとした
若者たちの姿もあった。
一方、彩花と凜は潜入計画を練った。
農園の広大な敷地の地図を広げ、警備員の巡回ルート、監視カメラの位置、
そして目的の水路へ最も安全に到達できる経路を割り出す。
彩花は必要な調査機材をリストアップし、
最小限の装備で最大限の成果を上げるためのシミュレーションを繰り返した。
夜間、ゲストハウスのランプの灯りの下で、二人は何度も
図面を突き合わせ、小さな声で議論を交わした。
凜の腕には、あの夜の銃創の痕がまだ生々しく残っていたが、
その目に怯えの色はなかった。
作戦実行前夜。
クチン郊外の、今は使われていない古いロングハウスに、
アミンと凜、彩花、そして数十人のイバンの村人たちが集まっていた。
男も女も、老人さえもいた。
彼らの顔には緊張と不安、しかしそれ以上に強い決意が浮かんでいた。
中央には、持ち寄ったわずかな食料と水が積まれている。
そして、この決戦を前に、
アミンの内なる戦士の魂を完全に呼び覚まし、
祖霊の揺るぎない加護を得るため、古来より伝わる
「森魂継承の儀 - ルアイ・プサカ」が、
この古いロングハウスの一角に急遽設けられた聖なる場において、
厳かに執り行われることとなった。
満月の光がロングハウスの隙間から差し込み、場を銀色に染め上げる。
ジャングルの心臓部にも似た静寂の中、儀式が始まった。
星々の囁きを写したかのような壁、床には清められた砂。
中央に据えられた簡素ながらも神聖な祭壇の前で、
アミンは黒と赤のプア・クンブを纏い、顔に戦士の紋様を刻んでいた。
樹脂の香りが立ち込め、七つの聖なる炎が揺らめく。
シャーマン「レマンバン」が古えの呪文を紡ぎ、
複数のゴングが打ち鳴らされると、その波動が大気を震わせ、
大地の鼓動とシンクロした。
聖酒トゥアック・プサカがアミンの喉を通ると、
内なる力が閃光のように覚醒する。
「目覚めよ、血に眠る魂! 聞け、内なる獣の声を!
森の叡智と一つになれ!」
レマンバンの言葉がアミンの魂を揺さぶり、
過去の戦士の幻影、精霊の問いかけ、
内なる恐怖との激しい応酬が彼の精神世界で繰り広げられた。
クライマックス、レマンバンが伝説の戦士ンガラウの名を叫び、
その武勇を詠い上げる。
呼応するように祭壇の炎が天を衝き、場を真昼のように照らし出す。
アミン、開眼!
その瞳には森の精霊が宿り、雷鳴のごとき雄叫びがロングハウスを震わせた。
戦士の魂、完全覚醒。
ゴングの音が頂点に達し、祝福の中、
アミンは古の槍を掴み取り天に突き上げた。新たなる守護者の誕生だった。
儀式が終わり、聖なる興奮と静かな決意がロングハウスを満たす中、
アミンの瞳には、覚醒した森の魂の揺るぎない光が宿っていた。
彼は集まった一同を見渡し、静かに言った。
「明日、夜明けと共に、農園へ続く主要道路を封鎖する。
目標は五日間。これは危険な賭けだ。
だが、俺たちはもう引き下がれない。」
彼の声には、儀式を経て確固たるものとなった威厳と、
仲間を導く指導者の重み、そして決意が込められていた。
「俺と凜、そして数人の若者が封鎖の指揮を執る。
彩花と凜は、その間に農園に潜入し、証拠となるデータを集めてもらう。」
彩花が息をのむ。
凜が彩花の肩を強く握った。
「大丈夫。私たちが時間を稼ぐ。」
凜の声は、集まった村人たちにも届くように、はっきりと響いた。
村長だった老人が、震える声で祈りの言葉を唱え始めた。
他の者たちもそれに倣う。
古来より伝わるイバン族の祈りが、古いロングハウスに厳かに響き渡った。
それは、森の精霊への加護を求める祈りであり、祖先への誓いであり、
そして未来への強い願いだった。
彩花は、祈りを捧げる人々の姿を見つめながら、
胸の奥が熱くなるのを感じていた。
かつて論文とデータの世界に閉じこもっていた自分が、
今、これほど多くの人々の運命と、森の未来を賭けた作戦の中心にいる。
恐怖がなかったと言えば嘘になる。
だが、それ以上に、彼らと共に戦えることへの誇りと、
必ず成功させるという使命感が、彼女の心を奮い立たせていた。
アミンの瞳に宿る、あの儀式で覚醒した森の魂の輝きを思い出すと、
不思議と勇気が湧いてくるのだった。
夜が更け、ロングハウスにはなおも祈りの声が満ちていた。
彩花と凜、そしてアミンは、言葉少なに行動開始の時を待っていた。
三人の間には、もはや迷いはなかった。
それぞれの胸に宿るのは、未来を切り開くための確かな計画と、
それを実行に移す揺るぎない決意。
夜明けは、もうすぐそこまで迫っていた。
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