第2話 惨劇の夜
日没が迫る中、私は白衣の男と街を歩いていた。
さっきの雑居ビルはすぐに離れた。
サラリーマンの落下で大騒ぎになっていたからだ。
誰にも見つからずに立ち去れたのは幸運だったと思う。
(今頃は事件になっているのかな……)
あのサラリーマンは縄で縛られていた。
自殺でないのは明らかである。
きっと後でニュースになると思う。
だけど、今はどうでもよかった。
私はその殺人犯と一緒に歩いている。
結局、私はこの男と手を組んだ。
悔いなく自殺するためということだけど、具体的に何をするかは知らない。
本人曰く、恐怖の理解を深めてくれるらしい。
正直、それがどう関係するのかあまり分かっていなかった。
これから詳しい説明があるのだろう。
我ながら心が麻痺している。
すごい状況なのに妙に冷静だった。
サラリーマンの死ぬ瞬間がまだ脳裏でリピートされるけど、あまり気にならなくなってきた。
スマホで時間を確認する。
十八時七分。
メッセージの通知は特に来ていない。
私は男に話しかける。
「私は津村かなえ。あんたの名前は?」
「三途川とお呼びください」
「なんだか不吉そうね」
「それもよく言われます」
白衣の男――三途川は愛想笑いで応えた。
たぶん偽名なのだろう。
でも、死を連想させる男にはよく似合っていた。
本人もそれを自覚しているから名乗ったのかもしれない。
三途川は私に問いかける。
「ところで津村さんはなぜ自殺を?」
「いじめよ。奴らはグループで色々やってくるの。もう嫌になったから楽になろうとした」
「ふむ、そうですか」
三途川が何かを考え込む。
きっとよからぬことだろう。
出会ったばかりだけど私は確信していた。
それでも一応は尋ねてみる。
「どうしたの」
「あなたをいじめた生徒に会ってみましょう。恐怖を知る良い機会です」
三途川は嬉しそうに宣言した。
やっぱりろくな提案じゃなかった。
私は苦い物を噛み締めた時みたいな顔で確認する。
「それ、本気で言ってるの」
「もちろんですとも。津村さんが自殺できないのは、いじめ加害者がのうのうと生きているからです。彼らへの復讐心があと一歩を躊躇させているのですよ。違いますか」
「……たぶんそうだと思う。私はあいつらが憎い」
三途川の指摘は私の考えをぴたりと射抜いていた。
どうして自分がこんなに苦しまないといけないのか。
悪いのはいじめをしたあいつらではないか。
どろどろに煮詰まった怒りが、心の奥底で燻っている。
「彼らに恐怖を与えることで、津村さんの復讐心を晴らしつつ、様々な恐怖を学ぶことができます。一石二鳥……いえ、僕が楽しむことも含めると一石三鳥になりますね」
「やっぱり楽しいんだ」
「そりゃそうですよ。他人の恐怖をほじくり返すのが生き甲斐なのです」
三途川はなぜか誇らしそうに述べる。
私はそんな彼に素直な感想をぶつけてみた。
「悪趣味だね」
「皆さんそう言いますよ。社会貢献の一環だと思うのですがね」
「どこが貢献してるの」
「犯罪者に制裁を加えています。将来の被害者が減るわけですから、世のためになっていますよ」
「確かにそうかもね」
話しているうちに、いじめグループの家に到着した。
雑居ビルから最も近い場所だったのだ。
私は表札の「矢田」の文字を一瞥して足を止める。
「ここよ」
「住所を知っているのですね」
「何回か呼び出されたことがあるから。他の奴の家も分かるよ」
「それは好都合です。では参りましょう」
三途川がインターホンを押した。
数秒後、玄関扉から矢田が顔を出す。
矢田は隣のクラスの女子だ。
明るい茶髪で化粧が濃い。
今はピンク色の部屋着姿でサンダルを履いている。
いじめグループの中では下っ端だが、何度もパシリをさせられたことがある。
立場が弱い相手にだけ強気に出る奴なのだ。
矢田は三途川を見て怪訝そうな表情になり、それから私に気付いてすぐさま睨んでくる。
「津村、そいつ誰だよ」
「初めまして。僕は三途川と申します。矢田さんですよね」
「そうだけど何?」
「突然ですがあなたを殺しに来ました。上質な恐怖を見せてください」
三途川はそう告げて歩き出した。
睨まれてもまったく気にしていない。
突然の展開に、矢田はますます機嫌を悪くする。
「は? 頭おかしいんじゃねぇのか。おい、津村。こいつ何だ。説明しろ」
「…………」
私は黙って成り行きを見守る。
ここで何を言ったところで三途川は止まらない。
だから傍観者に徹することにした。
これから何が起こるかだいたい分かる。
逃げ出さないのは、三途川の行為が私自身の責任でもあるからだ。
せめて一部始終をこの目に焼き付ける。
そうしなければならないと思った。
三途川は玄関前に置かれた植木鉢に注目すると、ぴたりと足を止める。
植木鉢は何かの植物が枯れたままになっていた。
無造作に手を伸ばした三途川は、土を払って植木鉢を掴む。
「おっ、ちょうどいいですね。お借りします」
三途川は植木鉢を掲げると、いきなり矢田の頭に叩き付けた。
硬い音が鳴って、割れた植木鉢の破片が転がる。
矢田が膝をついて頭を押さえた。
指の隙間からぼたぼたと血が垂れている。
すごい量だ。
頭のどこかが切れたのかもしれない。
痛みに顔を歪める矢田は三途川を睨み上げた。
目にはうっすらと涙が滲んでいた。
「う、ぐぅぅ……てめえ、何しやがるっ」
「だから殺すと言ったでしょう。早く立ち上がってください」
そう言いながら、三途川は容赦なく植木鉢で殴打する。
植木鉢が割れようが土がこぼれようがお構いなしだ。
乱暴な動きで何度も何度も振り下ろす。
日没でも分かるほどの血が飛び散っていた。
悲鳴を上げる矢田はうずくまって耐える。
それしかできないのだ。
普段は偉そうにしていても、圧倒的な暴力には敵わない。
私はそれをインターホンの前から眺める。
三途川の暴力を止めもせず、かと言って加担もせずに見守っていた。
植木鉢で殴り付ける鈍い音が響く。
二秒に一回くらいのペースだ。
血のせいで水っぽい音も混ざっていた。
(……やっぱり本気なんだ。三途川は殺すつもりだ)
玄関前が血と土で汚れていく。
執拗な殴打が矢田に次々と浴びせられていた。
もう何度目か分からない。
三途川の顔はここからでは見えなかった。
笑っているのだろう、たぶん。
突如として血だらけの矢田が叫んだ。
それから三途川を蹴って家の中に逃げ込む。
すぐに施錠する音がして、足音が遠ざかっていく。
半壊した植木鉢を小脇に抱える三途川は、涼しい笑みで私を手招きする。
「追いますよ。まだ元気そうです」
三途川は庭に回り込むと、植木鉢で窓を割って侵入した。
もちろん土足だった。
私もガラスで怪我をしないように入る。
派手に砕け散った窓を見て、ふと不安が過ぎった。
「こんなに騒いだら警察が来るんじゃ……」
「大丈夫ですよ。その辺りは心得ていますから。通報までに時間があるので、その間に済ませます」
三途川は慣れた様子でリビングを進む。
彼は植木鉢を捨てて、代わりにデザート用の小さなフォークを握った。
テーブルに置かれた食べかけのケーキから取ったのだ。
三途川はケーキの苺を頬張りながら室内を見回す。
「ご家族は留守なんですかね」
「一人っ子でシングルマザーらしいよ。この時間帯なら働いてるんじゃないかな」
「それは好都合です。第三者を巻き込むのは良くありませんからね」
彼なりにモラルはあるらしい。
ただし、一般人のそれと違って曖昧で気まぐれだった。
あまり意味がないのだろう。
人を殺す男がモラルを大切にするとは思えない。
三途川は固定電話を引っ張って線を抜くと、台所へと向かった。
そこには包丁を持つ矢田が隠れていた。
血まみれの頭をタオルで押さえている。
彼女は震える切っ先を見せつけながら叫ぶ。
「来ないで! 刺されたくないでしょッ!」
「落ち着いてください、矢田さん。そんなものを振り回したら危ないですよ」
フォークを持つ三途川が穏やかに言う。
その視線は怯える矢田のことを凝視していた。
口に付いたクリームを舐めた彼はぼそりと呟く。
「良い具合に恐怖が巡ってきましたね。あと一押しといったところでしょうか」
「何言ってんだよてめぇ!」
「大事な話です。ねぇ、津村さん」
三途川が振り向いてきた。
こっちに話を振らないでほしい。
案の定、矢田が私を見てきた。
そして早口でまくし立ててくる。
「津村! 早くこいつを止めろよ! あたしが何をしたっていうんだ。ま、まさかいじめの仕返しか!? 全部てめぇがせいだろうがっ! ちょっとふざけたくらいで、こんなことしていいと思ってんのか! 犯罪だろうが!」
これが矢田の本音だった。
何の罪悪感も抱えていない。
私が自殺を選ぶほど苦しかったのに、それを少しも理解していなかった。
別に期待していなかった。
こいつらはクズなのだ。だけど、面と向かって言われるとショックだった。
私は込み上げる感情を押し殺す。
そしてはっきりと自分の意思で声を発した。
「三途川」
「はい、何ですか」
「とびきり残酷に殺して」
「かしこまりました」
三途川は悪魔のような笑みを見せる。
いや、本当の悪魔は矢田達だ。
彼女達こそ人間の心を知らない外道である。
その悪魔の恐怖を喰らうのが三途川という殺人者だった。
矢田が目を見開いて後ずさる。
電子レンジにぶつかるも気にしていなかった。
包丁を突き出して彼女は喚く。
「ちょっ、嘘でしょ。やめてよ……」
「これは因果応報ですよ、矢田さん。残り少ない命で悔い改めてください」
「ひぃっ」
近付く三途川に対し、細い悲鳴を上げた矢田が体当たりをした。
よろめいた三途川の腹に包丁が刺さっていた。
切っ先から数センチほどが体内に埋まっている。
驚いた矢田は包丁から手を放した。
「あ、違っ」
「おやおや、何を慌てているのです。あなたが刺したのですよ。もう忘れましたか。まあどうでもいいですが」
三途川は冷めた笑いを洩らした。
それからおもむろに包丁を引き抜く。
傷口にじわじわと血が広がるも、特に痛がる様子はなかった。
三途川は包丁とフォークを掲げて語る。
「恐怖とはあらゆる要素を内包します。些細な出来事で増減するのですよ。たとえば、こんな感じで……」
前触れもなく三途川が腕を動かした。
小さなフォークが矢田の頬に突き立っている。
そこまで鋭くないだろうから、力一杯に刺したのだろう。
矢田が慌てて飛び退いた。
「痛っ!?」
「これが生命活動に影響を及ぼすことはありません。しかし恐怖心は刺激されます。状況さえ整えてしまえば、あとは勝手にエスカレートする一方です」
三途川は得意げに述べる。
どうやら私に向けられた説明みたいだが、耳を傾ける余裕はなかった。
矢田は頬に刺さるフォークに触れる。
自力で抜こうとするも躊躇し、やがて諦めた。
下手にいじれば傷が残るかもしれない。
そんなことを考えたのだと思う。
涙目の矢田は三途川を押し退けると、廊下へと走り去った。
階段を上がる音がするので、二階へ向かったらしい。
(どうして玄関から逃げなかったんだろう)
私は疑問に思う。
急いで外に出て助けを呼べば、この危機から脱することができたというのに。
そんな考えを呼んだのか、三途川が丁寧に説明をする。
「恐怖は判断力を狂わせます。さらに浅い呼吸で息が切れやすくなり、運動能力の低下をもたらす。矢田さんは自らの首を絞めていることに気付いていないでしょう」
「あんたがそんな風に追い込んでるんでしょ」
「その通りです。津村さんはやはりエスパーですね」
三途川が真面目な顔で言う。
私は苦笑しかけて、彼の腹の傷に改めて注目した。
大量の血が出てシャツと白衣を汚している。
包丁を抜いたせいで血が止まらなくなっているのだ。
「ちょっと待って。その怪我、平気なの?」
「痛がらないことで相手に恐怖を与えることができます。反撃が通じないと分かれば絶望的ですよね」
微妙に答えになっていないことを言いながら、三途川は器用に包丁を回してみせる。
まるで気にしていないので意外と軽傷なのかもしれない。
たぶんきっとそうだ。
血がたくさん出ているだけで、見た目ほど傷は深くないのだろう。
そうじゃないと、これだけ平気そうな理由が分からない。
三途川は包丁を片手に歩き出した。
向かう先はもちろん二階だ。
このまま矢田を追い詰めるつもりなのだろう。
彼は階段を上がりながら、嬉しそうに話題を提供してくる。
「ホラー映画のヒロインって、なぜか逃げ場のない場所に隠れようとしますよね。あと大事な場面で転ぶじゃないですか。演出の都合なのでしょうが、恐怖心による影響ってあると思うのですよ」
「ホラー映画なんて観ないんだけど」
「それはもったいない。素晴らしいジャンルですよ。時代ごとに異なる趣がまた格別でして……」
三途川はホラー映画について饒舌に語り始める。
もっとも、知識のない私は何を言っているのかよく分からないし、この状況で聞き入ることができるほど図太くはなかった。
ウケが悪いと気付いていないのか、三途川は具体的な作品名を挙げて喋り続ける。
そんなことをするうちに私達は二階に到着した。
三途川を先頭に各部屋の探索をする。
探索と言っても、そこまで大きい家ではなかった。
無人の部屋を連続で巡り、残るは鍵のかけられた一室のみとなった。
入ったことがあるので知っている。
そこは矢田の部屋だ。
私は買い出し係として呼び出された時の記憶を探る。
整理整頓の諦めた室内は私物でごちゃごちゃと散らかっていた。
足の踏み場もない有様で、古い雑誌を尻に敷いて座ったのを憶えている。
あの時は自腹で買い出しをさせられて金欠になったのだった。
私が嫌な過去を振り返っている間に、三途川は扉をノックした。
反応が無いので大声を呼びかける。
「矢田さーん、開けてください」
「ふざけんな! 出てけッ!」
扉越しに矢田の怒鳴り声がした。
三途川は困ったように眉を下げる。
「そう言われましてもねぇ。あなたをしっかり殺すまでは立ち去りませんよ」
三途川が扉を蹴った。
丁寧な口ぶりとは裏腹に暴力的な動きだった。
木製の扉がひしゃげてドアノブが外れる。
蝶番が壊れたのか、扉が明らかに傾いている。
二度目の蹴りで勢いよく扉が開かれた。
矢田は暗い部屋の奥で縮こまっていた。
窓に背中を付けて震えている。
フォークは頬に刺さったままだった。
三途川は部屋に入って笑った。
電気のスイッチを入れて興味深そうに見回す。
「どうも。良いお部屋ですね。血で彩りを加えたらもっと綺麗になりますよ」
「嫌ぁ、来ないでっ」
「騒がないでくださいよ。警察が来てしまいます」
三途川が喋る間に、矢田が窓の鍵を開けた。
その先にはベランダがある。
しかし、踏み出すことはなかった。
矢田は三途川とベランダを交互に見て迷っている。
部屋の真ん中で立ち止まった三途川は、優しく語りかけるように指摘する。
「逃げたければそこから飛び降りなさい。大丈夫ですよ、ここは二階です。ちゃんと着地すれば死にませんから」
「う、うぅ……」
「ほう、できないのですか。津村さんはもっと高いビルから飛び降りる寸前でしたよ。あなた達が追い詰めたのですよね」
「知るかよ! そいつが勝手にやったんだ。あたし達は少し遊んだだけで――」
矢田が言い返したその瞬間、三途川が包丁を投げ付けた。
それは矢田の前腕を切り裂いて壁にぶつかる。
出血する腕を押さえる矢田が泣き喚いた。
だらりと手が下がっているので、腱が切断されたのかもしれない。
矢田は号泣していた。
それでもベランダへは逃げようとしない。
彼女が高所恐怖症なのを思い出す。
重度だとは聞いていたが、この状況でも逃げられないほどらしい。
三途川は平然とした様子で矢田に告げる。
「これもただの遊びです。気にしないでください」
痛がる矢田をよそに、三途川は押入れを漁り始めた。
一体何をしているのだろうか。
部屋の入口に立つ私は、成り行きを見届けることしかできない。
そのうち三途川が一本のテニスラケットを取り出した。
埃だらけのそれは網の部分が緩んで使えそうにない。
三途川は無造作にラケットを振り上げた。
「かっこいいデザインですね。テニス部に入っていたんですか?」
矢田に問いかける三途川だったが、答えを聞く前にラケットを叩き付ける。
そこからは滅多打ちだった。
植木鉢の時と一緒だ。
本当にまったく遠慮のない暴力が矢田を傷付けていく。
倒れた矢田は手を伸ばして懇願する。
「も、もう……ゆる、して……」
「誤解です。許すも何も、僕は怒っていませんよ。ただあなたを殺すだけです」
三途川は一定のテンポで矢田を殴り続ける。
途中からラケットが変形していた。
フレームが陥没して元の形を失いつつある。
もうテニスができない状態だ。
高そうなのにもったいない。
私はどうでもいいことを考えていた。
ラケットが根元から折れたところで三途川は手を止める。
グリップだけを握って彼は足元を指し示した。
「津村さん、ご覧ください。これが恐怖です。どうでしょう、魅力的だと思いませんか?」
満身創痍の矢田が転がっていた。
もう誰なのか分からないほど顔が腫れている。
あちこちが青紫色の痣となって血だらけだ。
裂けた唇から僅かに息が漏れ出しているので、辛うじて生きてはいるらしい。
私はそんな矢田を無言で見つめる。
憎らしかった相手がこんな状態になっている。
その事実を嬉しく思うことはなく、かと言って悲しみや同情も感じなかった。
これだけの暴力行為を働いた三途川に恐怖も抱かない。
だから私は正直な感想を口にした。
「……よく分かんない」
「そうですか。じゃあ矢田さんは不要ですね。さようなら」
三途川はグリップを突き下ろした。
割れた切っ先が矢田の首筋に捻じ込まれる。
矢田は吐血した後、白目を剥いて動かなくなった。
死んだのだ。
私をいじめていた加害者は、理不尽な暴力に晒されて命を落とした。
張本人である三途川が私の肩に手を置く。
「落ち込まないでください。色んな恐怖に触れれば、きっと何か掴めるはずですからね。気を取り直してどんどんいきましょう」
「別に落ち込んでないし」
「それはよかったです」
遠くからサイレンが聞こえてきた。
私は現実へと引き戻される。
ここにいると間違いなく捕まってしまう。
「警察が来てるみたい」
「思ったより早いですね。裏口から出ましょう」
私は三途川に促されて矢田の家を出た。
そのまま目撃者を避けるように路地を進んで距離を取る。
三十分ほど移動して公園に辿り着いた。
日没後なので誰もいない。
草が生え放題なので、普段からひと気のない場所なのだろう。
古いベンチに座っていると、近くの自販機で三途川が何かを買った。
戻ってきた彼は缶コーラを手渡してくる。
「どうぞ。憎きいじめっ子が死んだ記念です」
「……炭酸は苦手なんだけど」
「それは失礼しました。では代わりにこちらをあげましょう」
三途川が差し出してきたのはコーンポタージュだった。
なぜそんなチョイスなのか。
まさかコーラの代わりに出てくるとは思わなかった。
今は水がほしかったんだけど。
仕方ないのでコーンポタージュを受け取る。
三途川は晴れ晴れとした表情でコーラを持ち上げた。
「では乾杯といきましょう」
「別に祝い事じゃないでしょ」
「とんでもない。津村さんが恐怖の一端を知った記念です。それだけの価値がありますよ」
三途川は独自の理論で力説しながら乾杯を強要してくる。
面倒になったので、私は渋々ながら応じることにした。
コーンポタージュを一口飲む。
どろりとした喉越しはまずくないが、殺人を目の当たりにした後に飲みたいものではなかった。
これならコーラの方がマシだったかもしれない。
そう思いながらも、私はコーンポタージュを飲み干した。
その後、私と三途川は解散した。
家までついてくるかもしれないと思ったが、彼はあっさりと引き下がった。
ただし、去り際にいじめグループの素性を尋ねられたので、スマホに保存した写真を使って説明した。
住所までは伝えていないものの、顔と名前とクラスまで判明したのだ。
三途川からすれば十分な情報だろう。
私はいじめグループが過去に何をしてきたのかも伝えた。
あまり思い出したくなかったが、三途川が教えてほしいと要求してきたのである。
だからありのままの出来事を正直に説明した。
喋っているうちに苛立ちが募ったのは言うまでもない。
不思議と自殺衝動は湧いてこなかった。
今までは思い出すたびに死にたくなったというのに。
きっと矢田の最期を目撃したせいだと思う。私
の思考が根幹から揺らいで、塗り替わっていくのを感じた。
別れる時に三途川は「明日もよろしくお願いします」と言った。
残りのいじめ加害者も殺す気なのだ。
知っていた。
そうなることは予想できていた。
だから私は表情を変えずに「待ち合わせはどこにする」と訊いた。
すると三途川は「お気になさらず」と首を振って立ち去った。
彼は一度も振り返ることなく消えた。
(どういうことなんだろう)
私はひとりぼっちの帰り道で考える。
三途川に私の住所は教えていない。
連絡先も知らないので、自由に会うことは難しい。
ひょっとして、残りの殺人は私が不在のまま実行するのか。
しかしそれでは恐怖の理解を深めるという趣旨から外れてしまう。
今後について気になったが、私からできることはない。
色々と考えながらも私は大人しく帰宅した。
リビングで醤油味のカップ麺を食べる。
母は単身赴任で、父は海外出張なのでいつもの光景だ。
ほとんど一人暮らしみたいな生活を送っている。
夫婦仲が悪いせいで、私だけが残される形となっているのだ。
別にそれで構わないと思っている。
これが普通だから寂しいと感じることもない。
家族が集まっても喧嘩が起きるのだ。
ほどよい距離感を保つ方が平和である。
私は無言で麺を啜りつつリモコンを触る。
テレビのニュース番組では、さっきの出来事が報道されていた。
矢田が殺されたことが顔写真付きで説明されている。
犯人はまだ見つかっていないらしい。
(やっぱり夢じゃなかったんだ)
私はスープを飲みながら思う。
あまりにも非日常的だったので、すべて私の妄想ではないかと疑っていた。
それも仕方ないだろう。他人から聞いた話だったら信じられないはずだ。
恐怖マニアの男が私の自殺を妨害しながら、赤の他人を投げ落とした。
その男がいじめっ子を惨殺した。
包丁で刺されても痛がらず、数十倍の暴力で反撃した。
さらには残るいじめっ子の抹殺も企んでいる。
ほら、ひどい妄想に思えてくる。
でも真実なのだ。
ニュースキャスターは深刻な表情で状況を伝えていた。
(ここからどうなるんだろうな)
カップ麺を完食した私は、テレビのチャンネルを変えて考える。
不安や恐怖は感じなかった。
私はどこか他人事で現実を受け止めている。
きっとどうでもいいのだ。
仮に共犯者として捕まったとしても落ち着いているのではないか。
三途川という存在を知ったことで、なんだか現実感が薄まってしまったのかもしれない。
それが良いか悪いかは判断し難かった。
食後に私はシャワーを浴びた。
別に汚れていないけど血の臭いが漂ってくるような気がした。
頭の中で矢田の悲鳴が反響している。
苦しかったに違いない。
徐々に追い詰められるのは怖かっただろう。
誰にも助けてもらえない絶望は凄まじかったはずだ。
「ざまあみろ」
無意識に言葉が出た。
そうだ、それが私の本音だった。
罪悪感も何もない。
むしろ気持ちは軽くなっていた。
結局、仕返しをする勇気がなかっただけなのだ。
自殺という手段に逃げていたのである。
私は卑怯者なのだった。
できることなら報復したかった。
三途川には感謝している。
私自身の手を汚さずに報復できたのだから。
汚い本性を認めると、なんだか気が楽になってきた。
吹っ切れたのかもしれない。
珍しいことに、その日はすぐに眠ることができた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます