第四章 第五話
のんびり実家で過ごした週末は驚くべき発見があり刺激的だった。奏太は「一刻も早くこの話を水上に伝えたい」と思いつつ、彼の様子を見てから話すべきか悩む。もし手首の痛みで苦しんでいるなら、そんな話をしている場合ではないかもしれない。
だが、奏太は意を決して、水上の寮へ足を運んだ。連絡なしに押しかけるのは失礼かもしれないが、一刻も早く会いたいと思ったのだ。寮の門の前で待っていると、ほどなくして水上が出てきた。
水上は最初「何をしているんだ?」と怪訝そうだったが、奏太の真剣な表情を見て、口を閉じる。
「先輩、ちょっとだけお話いいですか? コンサートのことと……それから、実は大事な話があるんです」
水上は分かったと静かに頷き、寮から少し離れた場所まで一緒に歩く。朝の清々しい空気の中、二人の靴音だけが響く。やがて校内へ続く道に出たところで、水上が立ち止まる。
「で、なんだ?」
その声は冷たくはないが、いつものように警戒している雰囲気でもある。奏太は深呼吸して切り出した。
「村瀬教授のコンサートのお話、ちゃんと考えてみませんか? 僕はやってみたいです。先輩と一緒なら、きっと何か新しい表現ができるって信じてます」
水上の表情が少し陰る。腱鞘炎のこともあって心配なのだろう。だが、奏太は続ける。
「手首のこともあるでしょうし、無理はしたくないのは分かります。でも、先輩が本当に音楽を楽しめていないなら、何かきっかけが必要なんじゃないかと思うんです。あのブルーノートでの演奏を思い出してください。先輩、あのとき生き生きしてました」
水上は微かに視線を揺らしながらも、すぐには答えない。
「……分からない。俺はまだ怖いんだ。以前のように痛みがひどくなったらどうしよう、とか、コンクールのときのように追い詰められたら――」
「先輩は、もうあの頃の先輩じゃないですよ」
奏太はきっぱりと言い切る。水上が驚いたように見返すが、奏太は覚悟を決めてさらに言葉を紡ぐ。
「実は、俺と先輩との間には、もっと昔から繋がりがあったかもしれないんです。……これ、見てください」
鞄から取り出したのは、実家の倉庫で見つけた音楽祭のパンフレット。そこに載っている少年時代の水上の写真を指差すと、水上は目を見開く。
「これ……もしかして、十年くらい前の地方公演で……?」
「はい、俺の地元の音楽祭。先輩は当時“天才少年ピアニスト”として招かれていて、俺は家族に連れられて客席にいました。たぶん、俺が初めて生で聴いた本格的なピアノ演奏が先輩だったんです」
水上は口元をわずかに震わせ、パンフレットに書かれた自分の名前を凝視する。過去の記憶を呼び覚まそうとしているようにも見える。
「そう、だったんだ……。あの場所に君が……」
「ええ。あいまいな記憶しかないんですけど、すごく感動したことだけは覚えてる。もしかしたら、それが俺が音楽に興味を持った最初のきっかけだったかもしれない」
奏太は水上の瞳を真っ直ぐに見つめた。まるで「あなたの音楽に救われたんですよ」と言わんばかりに。
水上はしばらく黙り込む。掌の中のパンフレットが、過去と現在をつなぐ架け橋のように感じられる。やがて、声を絞り出すように言った。
「……そんな偶然が、あるんだな」
声は震えているが、怒りではなく何か深い感慨に襲われているようだ。過去の自分が、今の奏太に影響を与えた――つまり、水上自身も何かを得ているかもしれない。
「先輩、俺は思うんです。コンサートに挑戦してみたら、今度は一緒に音楽で“誰かを感動させる”側になれるかもしれないって。……もちろん、手首は無理してほしくない。様子を見ながら練習すればいいと思います」
水上はパンフレットをそっと返しながら、ぎこちなく首を縦に振った。
「……分かった。やってみよう。約束はできないけど、少なくとも考えてみる」
奏太の胸に喜びが広がる。やはり水上は、もう一度立ち上がろうとしているのだ。
「ありがとうございます! 先輩なら、きっと大丈夫ですよ」
朝の光が二人の頭上に差し込み、木々の葉がさわさわと揺れる。微かな風が頬を撫で、汗ばんだ肌をクールダウンさせてくれる。人通りが増えてくる前の静かな時間帯、二人の立ち話が、これから始まる大きな転機を象徴しているように思えた。
そろそろ授業が始まる時刻だ。歩き出した二人の影は、ゆっくりと校舎へ伸びていく。奏太は横目で水上を見つめながら、この一歩が確かな前進になると信じていた。
(俺自身も、水上先輩を通して変わっていくんだろうな……)
互いの音が重なり合い、混ざり合い、新しい調べを生み出す日がきっと来る。その予感が、奏太の胸を満たしていた。
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