第四章 第四話
その週末、奏太は久しぶりに実家へ帰ることにした。父母や姉の千鶴に顔を見せるのと同時に、漁師町の海の香りを吸い込みたいという思いがあった。最近、水上のことで頭がいっぱいになり、心が少し疲れているのかもしれない。海を見れば、気持ちが落ち着く。そんな確信があった。
青葉市から電車を乗り継いで、ようやく懐かしい漁村の風景が見えてきた。降り立ったバス停から実家へ向かう道沿いには、漁具の倉庫や潮風に色褪せた家々が連なっている。子どもの頃から見慣れた景色だ。
「奏太、帰ったのか!」
玄関を開けた瞬間、父の大きな声が響く。父は漁師一筋の頑固者だが、奏太が音大へ進むことを強く反対はしなかったものの、やはり将来はどうするのか気になるらしく、ときどき「漁に出る日が来るかもしれん」と冗談めかして言うことがある。
居間では祖父が相変わらず昔の漁の武勇伝を熱弁しており、母は台所で夕飯の支度を進めている。姉の千鶴は大学で経営学を学んだ後、最近は地元の水産加工場と提携して新商品を考案したりと忙しそうだ。
「奏太、おかえり。大学はどう?」
母が炊事の手を止め、優しい笑顔で声をかける。奏太は簡単に大学生活の様子や、ジャズ研究会での活動、アンサンブル実習のことなどを話した。ただし、水上とのやり取りやその悩みについては具体的に語ることをためらい、軽く「パートナーの先輩がすごいピアニストで……」と触れる程度にとどめた。
夕食後、姉の千鶴が「ちょっと話せる?」と声をかけてきた。子どもの頃から何かと面倒を見てくれた姉であり、今もよき相談相手だ。二人で縁側に座ると、夜の海風が心地よく頬を撫でる。
「最近、何か悩んでるんじゃないの?」
いきなり核心を突かれ、奏太はドキリとする。千鶴は昔から、弟の様子を見て何を考えているかを言い当てるのが上手い。
「えっと……音大でのこと、ちょっとね。アンサンブルのパートナーに、いろいろ問題があって」
少し濁した言い方をしても、姉は優しく「詳しく言えるなら聞くわよ」と促す。奏太は意を決して、水上のことをそこそこ詳しく打ち明けた。腱鞘炎のこと、ブルーノートでの出来事、そして「学内コンサートへのお誘い」など。
「そっか……。手首を痛めて、しかも心にまで傷を負ってるのね」
千鶴は真剣に頷く。経営の道を志した姉は、理路整然と物事を整理するのが得意だ。
「でも、奏太がその先輩を支えてあげたいと思っているなら、きっと何かできるんじゃない? 全部を解決してあげるのは無理でも、一緒に歩くことはできるでしょ?」
「一緒に、歩く……」
その言葉に、奏太は何か大切なヒントを得たように感じた。水上にとって、自分はどんな存在になれるのか。完璧を求めすぎて疲弊している彼を、そっと支えて共に成長するパートナーになれれば……。
しばらく話した後、姉は「もう遅いし、明日朝ごはんの支度もあるから寝るわ」と笑って去っていった。奏太は少し湿った潮風を感じながら、ゆっくりと夜の海の空気を味わう。彼方から波の音がかすかに聞こえ、それが自然と心の重さを解きほぐしていく。
実家に戻った翌日、倉庫の整理を手伝うことになった。祖父が大事に保管している古いレコードや写真などが所狭しと積まれており、当時の思い出に浸りながら片付けをするのはなんとも言えない風情がある。
「おっ……? これ、なんだろう」
埃を被った段ボールの中から、古びた音楽祭のパンフレットが出てきた。地元で毎年行われる小さな音楽祭で、外部から招くゲスト演奏者もいるにはいたが、特に有名人が来るわけではないと記憶している。
奏太は何気なくページをめくる。すると、ある一節に目が留まった。
「特別ゲスト:天才少年ピアニスト 水上響」
写真付きで紹介されているのは、まだ幼さの残る顔立ちの少年だった。驚くべきことに、その少年こそ、今のパートナーである水上響の幼少期の姿。
――どうしてこんなところに水上先輩が……?
急激に記憶が蘇ろうとする。たしか、祖父に連れられて行った音楽祭で、小学生くらいの頃に「ものすごく上手な子どもがいる」と噂されていたのを朧気に覚えている。もしかすると、それが水上響だったのだ。
あまりにも昔のことで、映像としては頭に残っていなかったが、記憶の片隅に「感動した」という思い出だけがうっすら残っている。あの時、もしかしたら自分は水上の演奏に心を震わされたのかもしれない……。
パンフレットを丁寧にしまい込み、奏太はその場でしばらく動けなかった。偶然なのか必然なのか、運命のようなつながりを感じてしまう。この事実を知ったら、水上はどう反応するだろうか?
(俺がサックスを始めたのも、高校に入ってから本格的にだったけど、最初に音楽そのものに興味を持ったのは、この音楽祭がきっかけだったかもしれない……)
そんな思いが頭を巡り、胸が熱くなる。もし、水上の演奏が奏太の音楽への入り口となっていたのだとしたら――。一度途切れた二人の縁が、いまこうして同じ大学で、しかもアンサンブルのパートナーとして再び交わっている。それは単なる偶然だろうか?
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