第二章 第三話

「ねえ、水上先輩って知ってる? 二年生のピアニスト」


 木曜日の昼休み、奏太は学食で隣に座った同級生に尋ねた。


「ああ、あの天才ピアニストでしょ? でも今はあまりコンクールとか出てるって聞かないよね」


「なんでかその理由を知らない?」


 同級生は首を傾げた。


「さあ……あまり詳しくないけど、佐伯瑞樹先輩なら知ってるかも。あの人、水上先輩の高校からの友達らしいよ」


「佐伯瑞樹先輩?」


「トランペット専攻の二年生。いつも笑顔で人懐っこい人。水上先輩とはよく一緒にいるよ」


 奏太は頷いた。佐伯瑞樹――その名前を覚えておこう。


 学食の窓から差し込む光が、テーブルの上のトレイを照らしていた。奏太はレンコンのきんぴらを箸でつつきながら、考え込んでいた。水上のことをもっと知りたい。それは単なる好奇心だけではなく、彼の放つ、光と影が気になって仕方ないのだ。


 午後の授業が終わり、奏太は水上との練習に向かった。昨日見た動画のことが頭から離れなかった。あの頃の輝きはどこへ行ってしまったのだろう。


 練習室に到着すると、水上の姿はなく、代わりに見慣れない学生がいた。茶色の柔らかな髪と、優しげな笑顔が印象的な青年だ。


「あ、葉山くんだよね? 僕、佐伯瑞樹。水上が少し遅れるって連絡があったから、伝えに来たんだ」


 奏太は驚いた。昼間話に出ていた佐伯だ。


「あ、わざわざありがとうございます。そういえば、佐伯先輩、水上先輩とは高校からの友達だって聞いたんですけど……」


 佐伯は明るく笑った。


「うん、そうだよ。響とは四年くらいの付き合いかな。高校の吹奏楽部で知り合って」


「吹奏楽部? 水上先輩が?」


 奏太の驚きに、佐伯は少し困ったように笑った。


「ああ、正確には響は吹奏楽部員じゃなかったんだ。でも、伴奏でよく手伝ってくれてて。それで仲良くなったんだよ」


 佐伯の笑顔は太陽のように明るく、誰とでも打ち解けられそうな雰囲気があった。水上とは対照的な性格に見えるが、それでも親しい友人だというのは意外だった。


 奏太は思い切って聞いてみた。


「佐伯先輩、水上先輩のこと、良く知ってるんですよね? 水上先輩、昔はすごいピアニストだったみたいだけど……」


 佐伯の表情が少し曇った。


「君、響のことを調べたの?」


「ちょっとネットで検索しただけなんですが……」


 佐伯はしばらく考えてから、優しい口調で言った。


「響のことは、本人から聞くのが一番だと思うよ。僕から言えることは、響は今、自分なりに頑張ってるってこと。昔のことは……あまり触れない方がいいかもしれない」


 その言葉に、奏太は何か重大なことがあったのだと確信した。佐伯の目には心配と、そして水上への深い友情が読み取れた。だが、それ以上は尋ねられなかった。


「わかりました。ありがとうございます」


 ちょうどその時、ドアが開き、水上が入ってきた。


「遅れてすまない」


 彼は佐伯と奏太を見て、少し表情を硬くした。


「瑞樹、わざわざ来てくれたのか」


「ちょうど近くにいたからね。じゃあ、二人とも頑張って」


 佐伯は明るく言うと、部屋を出て行った。水上は荷物を置き、ピアノの前に座った。


「準備はいいか」


「はい」


 奏太はサックスを取り出し、水上の様子を観察していた。彼の左手首に、薄い包帯が巻かれているのに気づいた。


「手、どうしたんですか?」


 水上は左手を隠すように、ピアノの下に引っ込めた。


「少し捻っただけだ。問題ない」


 彼の声には、これ以上触れないでほしいという強い意志が感じられた。奏太は黙ってうなずき、練習を始めることにした。


 今日の水上のピアノは、いつもより硬かった。表現が乏しく、単に音を鳴らしているだけのような印象だった。おそらく手首のせいだろうか。奏太は心配しながらも、自分のサックスでカバーしようと努めた。


 『白鳥』の中間部分、サックスのソロが終わり、ピアノとの掛け合いになる場面で、奏太は豊かな表現を心がけた。柔らかくも力強い音色で、水上のピアノを引き出そうとする。


 しかし、水上のピアノは淡々と音を刻むだけで、感情の起伏が全く感じられなかった。まるで楽譜を正確にたどるだけのロボットのようだった。


 練習の途中、水上が突然演奏を止めた。


「すまない、少し休憩していいか」


 彼は左手首を押さえていた。


「もちろんです! 大丈夫、ですか?」


 奏太が近づくと、水上は身を引いた。


「大丈夫だ。少し休めばよくなる」


 彼はそう言いながらも、明らかに痛みを堪えているようだった。奏太は水を勧めようとしたが、水上はそれも遠慮した。


 窓の外では、春の雨が静かに降り始めていた。雨粒が窓ガラスを伝い落ちる様子を、二人は無言で眺めていた。


 不意に、奏太は思い切ったことを言った。


「先輩。俺、この前インターネットで先輩のこと調べたんです」


 水上の表情が凍りついた。


「何だって?」


「すみません、すごく失礼だって分かっています。でも、あの日の演奏がずっと気になって……先輩がすごいピアニストだったことを知りました」


 水上は冷たい目で奏太を見た。


「それがどうした」


「今と、あの頃の演奏が、全然違うから……何かあったのかなって」


 言葉を選びながら、奏太は続けた。


「先輩の演奏、すごく素晴らしかった。最初に聞いたショパンのピアノ協奏曲。あんな風に弾ける人が、なぜ今は……」


 水上は苛立ちを隠すことなく立ち上がり、荷物をまとめ始めた。


「今日はここまでだ。手首の調子が悪い」


 水上を怒らせてしまったことに気づくと、奏太は慌てて言った。


「ごめんなさい! 余計なことしました!」


 水上は振り返り、奏太をじっと見た。その目には怒りよりも、深い悲しみのようなものが宿っていた。


「葉山、君は自分の道を進めばいい。俺のことは気にしないでくれ」


 そう言って、水上は練習室を出て行った。奏太は呆然と立ち尽くした。窓の外の雨は次第に強くなり、世界をぼやけた輪郭にしていた。


 奏太の心には、ますます水上への疑問と関心が強まっていた。水上響――あの天才ピアニストに何があったのか? どうして今の機械的な音楽に変わってしまったのか? そして、あの輝かしい演奏を取り戻すことはできるのだろうか? 奏太はそれを知りたいという思いを、もう抑えることができなかった。

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