第一章 第三話

 初回の練習日は火曜日。指定された午後三時が近づく頃、奏太は早めに第三練習室へと向かった。ドアを開けると、すでに水上が来ており、ピアノの前で楽譜を眺めている。教授から事前に届いた課題曲は「フォーレの『シシリエンヌ』」だと聞いていたが、どんな曲かはまだ音源をざっと聞いただけで、譜読みはしていない。


「こんにちは、水上先輩。もういらっしゃったんですね」


 挨拶すると、水上は視線だけをこちらに向ける。やはり挨拶はそっけないが、そのまま楽譜を渡してきた。


「これが今日合わせるフォーレの楽譜だ。まずは通して弾いてみる。君は初見でもいけるのか?」


「大丈夫だと思います。読譜は慣れてますから」


 奏太はサックスケースを開け、リードの状態を確認しながら受け取った楽譜に目を通す。三拍子の優雅な旋律が印象的で、しっとりとした雰囲気を湛えている。ジャズに比べれば自由度は低いが、クラシックの美しさも嫌いではない。


 まずは個々に練習をしようという提案があり、水上は電子メトロノームを出してテンポを設定。奏太はサックスの音を出してみる。静かな部屋に、柔らかいリードの振動が響いていく。


 楽譜を目で追いながら、一度も吹いたことのない曲に息を通すのはいつも緊張感がある。だが、奏太は元々耳で捉えるのが得意なので、リズムさえ把握すればざっくりと形ができる。フォーレのシシリエンヌは穏やかなテンポの中で微妙な強弱や抑揚を要求される曲だが、奏太なりに感覚を優先しながら吹いていく。


 初見演奏が終わると、ひとまず自分なりに手応えを感じた。細かなリズムのズレや音程の甘さはあるかもしれないが、曲の雰囲気を掴む程度には十分だろう。そっと水上を見ると、彼は腕を組みながら黙って聴いていた様子だ。


「どうでしょう……?」


 奏太が尋ねると、水上は明らかに分析的な目をして返事をする。


「十六小節目の装飾音が曖昧だった。それ以降のフレージングも統一性がない。だが、悪くない要素もある。表現力はあるし、息の使い方も柔らかい」


 素直に評価してくれたのか、厳しく指摘してくれたのか分からないが、一応誉め言葉が混ざっているのが嬉しい。奏太は「ありがとうございます」と頭を下げ、すぐに言葉を返す。


「それじゃ、水上先輩も聴かせてもらっていいですか」


 水上は黙ってピアノの椅子に腰かけ、譜面をちらっと眺めるだけで指を動かし始めた。まるで長年弾き込んだ曲のように、一音一音が淀みなく並べられていく。テンポは正確で、和音のバランスも素晴らしい。いかにもクラシックの王道を踏襲する演奏といった印象だ。


 しかし、奏太はふと違和感を覚えた。あの日練習室で聴いたショパンのバラードとは、明らかに何かが違う。先日の演奏は胸を抉られるような痛切さがあったが、今の水上にはそれがない。技術的には完璧だが、どこか淡泊に感じてしまうのだ。


「……すごいですね。まさに完璧って感じです」


 正直な意見を述べると、水上は「ああ、楽譜どおりに弾いているだけだ」と言う。奏太は少しだけ眉をひそめて、言葉を探す。


「でも、もうちょっと自由に表現してもいいんじゃないですか? 例えば、ここのフレーズを少しテンポを変えてみるとか……」


 水上はピタリと演奏を止め、メトロノームを切ってから奏太を見やる。その瞳には微かな苛立ちが宿っていた。


「クラシックにおいては、作曲家の意図を大切にするのが前提だ。曲によっては自由度の高い解釈をする場合もあるが、このシシリエンヌでは過剰にテンポを変えるのは似合わない。勝手なジャズ的感覚を持ち込まないでほしい」


 明確な拒否反応。やはり相容れないのか、と奏太は内心で苦笑する。自分はジャズ畑で育ったからか、楽譜の縛りよりも即興的な表現を重んじる傾向がある。水上はクラシックの王道をひたすら突き詰めるタイプなのかもしれない。


「分かりました。じゃあ、とにかくまずは合わせてみましょうか」


 奏太がそう提案すると、水上は黙ってメトロノームを四分音符=六十に合わせる。二人で同時にスタートするが、すぐにズレを感じる。奏太は微妙にテンポを揺らしたがり、水上はそれを嫌う。逆に水上が楽譜どおりのテンポをキープすればするほど、奏太は物足りなさを覚えて音の繋ぎ方を変えようとしてしまう。


 一通り演奏し終えた時、部屋には気まずい沈黙が落ちた。先に口を開いたのは水上だった。


「君は本当に、自分の感覚を優先するんだな。やたらとテンポを緩めたり速めたり……。それでは合わせられない」


 水上の声には冷たい響きが混ざる。奏太は反論したい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。


「すみません。でも、曲の流れに身を任せたいというか……表現したい気持ちが抑えきれなくて」


「表現したい気持ち? ……音楽は気持ちだけじゃ成り立たない。技術と正確さがなければ、ただの独りよがりになる」


 一理あるな、と思いつつも、何だか釈然としない。あの日のバラードには、技術と正確さ以上の何かがあったはずだ。それなのに、いま自分の目の前にいる水上は、まるで機械のように楽譜の通りに忠実に演奏しているように見える。


「先輩の演奏、確かに正確で凄いと思うんです。でも……」


 口をついて出そうになる言葉を飲み込む。『でも、それじゃ心に刺さらない』と言いかけたが、さすがに失礼すぎるだろう。


「何か言いたいことがあるなら言えばいい」


 水上がこちらをまっすぐに見つめる。その瞳には、自分の音楽を否定されることへの警戒心が垣間見えるような気がした。奏太は意を決して、なるべく穏やかに言葉を選ぶ。


「本当にすごいと思います。ただ……少しだけ冷たく感じるというか、あの日聴いたバラードの演奏には、もっと熱がこもっていたように思えて。それがどこから来るのか知りたいだけなんです」


 水上は微かに眉をひそめ、そのまま視線を外す。クラシックの楽譜を閉じて、そそくさと片付けを始める。


「……余計な詮索はしないでくれ。今日のところはここまでだ。次回、また合わせる」


 そう言い捨てると、彼はピアノ椅子から立ち上がった。奏太は思わず引き留めたくなる。


「す、すみません。生意気言いました。でも、あのバラードの演奏が、俺には忘れられないほど衝撃的だったんです」


 そんな言葉に、水上は一瞬だけ動きを止めた。そして、まるで独り言のように静かに口を開く。


「ショパンは自由度の高い作曲家だから、あの時は少し感情を出しすぎたのかもしれない。……君には関係のないことだ」


 しかしそこには、わずかな陰りがあった。怒りというより、何か痛みを抱えているような――そんな表情を読んだ奏太は、一瞬胸が締めつけられる。


「……先輩」


 その言葉をかけるより先に、水上は鞄を肩にかけて練習室を出ていった。勢いよく閉じられたドアが小さく振動する。


 取り残された奏太は、サックスをケースにしまいながら大きく息を吐く。


「なんなんだろう、あの人……」


 対話が成り立たないように見えて、何か核心の一端だけが見えた気もする。クラシックの美しさを完璧に体現しようとする水上と、自由な即興を持ち味とする自分。水と油のように混じり合わないかもしれないが、もし上手く融合できたら、信じられないような音が生まれるんじゃないか。そう感じるのも事実だった。


 夕暮れ時、外へ出ると、キャンパスの桜はほとんど散り始め、地面にピンクの花びらが敷き詰められている。空はオレンジから紫へ、そして深みを増していく群青へと移り変わっていた。奏太は見慣れたはずの春の夕焼けを、新鮮な感覚で見つめる。


 ──あのバラードの演奏にこめられた痛みは、いったい何だったのだろう。強烈に胸を掴まれたあの感覚を、自分のサックスで支えられたり、共鳴させたりすることはできるのだろうか。


 自問自答しながら、奏太は校舎を後にする。強い海風ではなく、都会のビル風が軽く髪を揺らした。実家で過ごしていた頃とは違う、どこかひんやりした夜の気配が近づいてくる。


 だが、その冷たい空気の中で、彼の心には一筋の灯火がともり続けていた。「もう一度、あの響きを聴きたい。それを超える音を、自分のサックスで作ってみたい。」 そんな欲望にも似た衝動が、今や奏太を奮い立たせている。大変そうだけれど、きっとワクワクするはずだ。


 未知数だらけの大学生活。それは、海辺の町でのんびり暮らしていた日々とはまるで異なる波乱を予感させる。しかし、その波に乗るかのように、サックスを抱えて前に進むしかない。そして、冷たく張り詰めた水面の下に隠された“音色”を暴き出すのは、自分の役目かもしれない──。


 そんなことをぼんやり考えながら、奏太は寮へ続く道を歩く。遠くにオレンジ色の街灯が灯り始め、人々が家路を急ぐ姿が見えてきた。ふと、姉の千鶴から「新生活はどう?」とメッセージが届いているのに気づく。スマートフォンを取り出し、短い文面を打ち込む。


「姉ちゃん、元気だよ。すごい人に会っちゃった。ちょっと怖いけど、音はやばい。こっちでの生活は大変かもしれないど、絶対にうまくやってみせる」


 送信して少しすると「頑張ってね!」と温かい言葉が返ってきた。その一言だけで、気持ちがほっと軽くなる。家業を支える姉の姿を思うと、ここでめげるわけにはいかない。


 刻一刻と変化する夕空の色彩を眺めながら、奏太は静かに歩みを進めた。頭の中には、ショパンのあの旋律がまだ消えずに、細い糸のように絡みついている。そして、それをどうしても自分のサックスで追いかけたい衝動が、心の奥底でゆっくりと熱を帯びはじめていた。

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