第一章 第二話

 翌日からは新入生向けの基礎科目や大学のシステム説明などが続き、慌ただしい一週間があっという間に過ぎた。授業登録や専攻のクラス分けテストなど、やるべきことが山積みで、奏太はそちらに気を取られがちだったが、それでも頭の片隅には“水上響”という名前が消えずに残っている。


 そして、正式に専攻科目の授業が始まったある日。サックス専攻一年生は、村瀬教授による「アンサンブル実習」のクラスに集まった。大きな教室には十数名の学生が椅子を円形に並べて座っており、教授の話を聞く体制になっている。


「皆さん、はじめまして。私は村瀬といいます。ピアノ専攻出身で、今は音楽理論や実技指導を担当しています。このアンサンブル実習は、単に演奏技術を磨くだけでなく、異なる楽器専攻の学生同士が互いの音楽観に触れて成長することを目的としています」


 優しげな口調の中にも厳粛さが混ざっていて、さすが大学の教授という感じだ。村瀬は出席を取りながら、ペアやグループの編成を発表するという。奏太は軽く背筋を伸ばした。自分のペアは誰になるのだろうか。できればジャズにも興味がある人がいいなと思いつつ、名簿の読み上げを待つ。


「まずは――久保田さんと鈴木さん。あなた方はフルートとピアノの組み合わせですね。次は大橋さんと佐藤さん。クラリネットとトランペット、面白い組み合わせだ……」


 順々に名前が呼ばれ、周囲から「よろしくお願いします」「頑張りましょう」という声が上がる。奏太はややソワソワしながら、その順番を待った。すると、教授が次のページに進んだらしく、トントンと指で書類を叩く。


「葉山奏太君」


「はい!」


 ピッと背筋を伸ばして返事をした瞬間、教授はにっこり笑って言葉を続ける。


「君のパートナーは、水上響君。二年ピアノ専攻の学生だ」


 その名を耳にした瞬間、奏太の心臓が思いきり跳ねた。


「水上……響、先輩、ですか」


 あの日の、冷たい言葉と圧倒的なピアノが瞬時に蘇る。教室の後方を見ると、スッと長身の学生が立ち上がっていた。まぎれもなく、あの時の人物。短く整えられた髪、眼鏡の奥の鋭い視線、それから少しだけ中性的な整った顔立ちが印象的だ。


 村瀬教授は説明を続ける。


「水上君は昨年度、この授業を履修できなかったのでね。コンクール出場などで色々と忙しかったようだ。それで今年は二年生として参加することになった。葉山君、どうかよろしく頼むよ」


 教授の言葉に頷く奏太。水上は席を立ったまま軽く一礼し、「ピアノ専攻の水上響です。よろしく」と低い声で言ったきり、また静かに腰を下ろした。その仕草には、どこか余計な言葉を排除するかのようなクールさが漂う。


 そのまま、他の学生たちのペア発表が終わると、村瀬教授は「授業後にパートナー同士でスケジュールを確認するように」と指示を出し、クラスは解散になった。奏太は否が応でも水上のもとへ足を運ぶしかない。あれほど印象的な初対面をした二人が、まさか正式にペアを組むことになるなんて、まるで運命のいたずらかと思うほどだ。


 荷物をまとめた奏太が教室の後ろを振り返ると、水上が慣れた手つきでタブレットやノートを鞄にしまっているところだった。周囲の学生は気後れするのか、彼に話しかける者はほとんどいないように見える。実際、水上の放つ雰囲気は冷淡と言うより隙がない。思わず「練習室で怒られた時のこと」を思い出し、奏太は少し緊張した。


「す、すみません。水上先輩」


 声をかけると、水上が顔を上げる。明らかに見覚えがあるという目をしていた。そして、ごく自然に口を開く。


「君か。あの日、練習室を覗いていた……」


 やはり覚えられている。奏太は一瞬、赤面しそうになるのを堪えて頭を下げた。


「改めまして、サックス専攻一年の葉山奏太です。先日は失礼しました。本当に演奏がすごくて……つい覗いてしまって」


「別にいい。もう終わったことだ。アンサンブル実習のスケジュールを決めないといけないから、空き時間を教えてくれ」


 水上は早速タブレットを操作し、授業の時間割を開いている。あまりにも事務的で、まだ刺々しい雰囲気は薄れていないようだが、まったく聞く耳を持たないわけでもなさそうだ。奏太は自分の時間割を確認し、火曜日と金曜日の午後三時から五時なら空いていると伝える。


「じゃあ、火曜日と金曜日の午後三時から、第三練習室を予約しておく」


「はい、わかりました」


 返事をしながらも、奏太は少しだけ拍子抜けした。どんな厳しい言葉を浴びせられるかと思ったが、水上はほとんど私情を挟まず淡々とスケジュールを組んでいる。それが余計にプロっぽいというか、大学生離れしているというか……。


「あと、最初の課題曲は村瀬教授から指定されるはずだ。授業が始まる前に連絡が来るだろう。準備を怠らないように」


 水上がそう言うと、奏太は「はい、了解です」と答えた。すると、水上はふと眼鏡のブリッジに指先を軽く触れて、じっと奏太を見つめる。


「ところで、君はサックス専攻といっても、ジャズが得意なんだろう?」


「え、どうしてわかったんですか」


「前に練習室で話している時に、そんな雰囲気を感じただけだ。クラシックとジャズは演奏スタイルがだいぶ違う。アンサンブル実習は、あくまでクラシックの基礎を学ぶものだと理解しておいてほしい」


 その言葉を聞いた瞬間、奏太の中で少し反発心が芽生えた。ジャズを否定されたわけではないが、「基礎」という言い方には「型を崩してほしくない」というニュアンスが強く滲んでいる。


 とはいえ、ここで意見をぶつけても仕方がない。奏太は「わかりました」と返事をし、ひとまず話を終える。


 こうして始まった、奏太と水上のペア実習。最初こそ気まずさを感じつつも、奏太は心のどこかで楽しみも抱いていた。あの圧倒的な演奏力を持つ先輩と組める機会はそうそうない。上手くいかない予感もあるが、自分にとって大きな刺激になるのは間違いなかった。

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