第8話 人を描く

人を描く-1

 夏休みが終わり、新学期初日になった。夏期講習に来ていない生徒たちも登校してきているので、これが通常運転のはずなのに、私の中では違和感ありまくりになった。


 蓮見さんが登校してきて、私のテンションは上がる。新学期直前も夏期講習がなかったから、蓮見さんと会うのが数日ぶりになったからだ。


「おはよう、ハスミン!」


 教室に来た蓮見さんに私は元気よく呼びかける。


「ハスミン?」


 蓮見さんは露骨に大きく首を傾げた。


「ヒカリンの方がいい?」


 蓮見さんは今度は逆方向に首を傾げた。蓮見さんもノリがいい。


「なんでいきなりあだ名?」


「柚乃のことは名前呼びなのに、こんなに一緒にいる蓮見さんも名前呼びにしたいと思ったんだけど、○○○ン呼びにちょっと憧れがあって」


「ポケモン?」


「末尾がiだとンを付けやすいじゃない?」


「じゃあせっかくだから光莉って呼んでよ。なんならあたしも薫って呼ぶよ。沢渡さんが薫呼びしてたの、ちょっといいなって思ってた」


「光莉ちゃん!」


「薫ちゃん!」


 2人してえへへと笑うといつの間にか真田くんが登校してきていて、不思議そうに私たちを見ていた。


「大丈夫。かじくんとか呼ばないから」


 真田くんは胸をなで下ろしていた。


「氷川さんの今のノリだとそれ、ありそうだったから」


「でも薫ちゃんって真田くんの名前、覚えていたんだ?」


「正確には名前じゃなくて名字みたいだなと覚えていた。もっと正確には加持さん」


「エヴァか」


「でも鍛っていい名前だね。親御さんは真田くんが鍛えられればいいって意味合いでつけたんだろうな」


 私はきょとんとしている真田くんに言った。


「そうかな。自分だと分からない」


「ちなみに私の薫は源氏物語の第二部の主人公かららしい」


「宇治十帖!」


「さすが成績がいい光莉ちゃん。クイズ番組で先手をとれる反応だ」


「でも私は光源氏からではないと思う。念のため。聞いたことないけど」


 などと話をしているうちにHRの時間になった。2学期最初のHRである。くじ引きで席替えもある。光莉と近くなるといいな、と思う私である。


 くじは事前に私が作って用意してある。クラス委員長なので雑用がいっぱいあるのだ。しかしだからといって不正をはたらけるわけではない。


 順番にくじを引いて貰う。私は前から3番目の中央の列。光莉の席は私の斜め左前になった。とても近くて嬉しい。なお、真田くんは1番前の席の窓際になった。飛び石だが、近所ではある。


 休み時間の間に真田くんに夏期講習をまとめたノートを転送する。コピーの手間が省けるのでノートはデジタル化するに限る。そしてどこから聞きつけたのか、隣のクラスの南さんまできて、ノートをくれと言ってきた。そういえば約束したっけな。


「南さん、焼けてるね」


 光莉が小麦色にほどよく焼けた南さんを見て感嘆する。


「日焼け止めクリームにも限界がある」


「屋外体育会系は大変だ」


 でも小麦色の南さんはイメージ通りで素敵だと思う。


 休み時間が終わる直前、南さんは風のように消えた。


 二学期初日は午前中のガイダンスだけで終わりだ。


 特にこの後、用事もないので早速下校しようかとも思ったが、美術準備室に寄ろうかとも、ちらと考える。光莉もどうしようか迷っている様子だ。


「なんか落ち着かないね」


「うん。光莉ちゃんも?」


「じゃあ、寄ろうよ」


「そうしよう」


 私たちはどこに行くとは言わなくても普通に美術準備室に向かう。あんまり美術準備室に入り浸っていると美術部に入れられてしまうかもだが、だとしても私は鑑賞専門になりそうだな。そんなのありなのだろうか。そもそも他の美術部員と真田くんは交流があるんだろうか。謎だ。


 美術準備室に行くと当たり前のように真田くんがおり、鍋でお湯を作っていた。傍らにインスタントラーメンが用意されている。


「食べるなら袋麺まだあるよ」


 様子を見に来た女子にいう台詞だろうか。ちょっと苦笑する。


「いや、インスタントラーメンをたかりにきたわけじゃないよ。真田くんとあまり話せなかったからさ」


「そうそう。気になっちゃって。どう? 水彩画は描き続けていたの?」


 光莉が聞くと真田くんは難しそうな顔をした。


「描き続けていたけど、壁にぶつかった」


「そりゃなんでも続けていたら壁にはいつかぶつかる」


 それについてはバスケットボールで経験がある。何かを始めたとき、伸びるときは一気に伸びるが、壁にもぶつかるものなのだ。心配そうに光莉が聞く。


「どんな壁なの?」


「人物が描けない」


 困った様子の真田くんを前に、私と光莉は顔を見合わせた。


「ということは、ひたすらデッサンが必要なのでは?」


「光莉、モデルになってあげれば?」


「あ、あたしがモデル? どちらかといえば沢渡さんの方が適任では」


「柚乃、別の学校だし。それにここにいるのは私と光莉だ」


「なんかデッサンが始まる流れになっている……」


「い、いや、強制するわけじゃないんだよ。単に必要かと考えただけ」


 私はちょっと動揺する。


「そっか……そうだね。あたし、真田くんの力になるって言ったよね。だから力になるよ。真田くんが脱げって言ったらあたし……」


 光莉は両方の人差し指を突き、身体をクネクネする。もちろん冗談だとすぐに分かるが、真田くんはドン引きしている。


「……そんな犯罪めいたことを僕が言うとでも?」


「冗談が通用しない」


「言われても脱がないよう!」


 光莉は唇を尖らせる。


 お湯が沸いたので真田くんはインスタントラーメンを鍋に投入する。


「話を元に戻そう。人が描けないってどういうこと?」


 私は鍋の中をかきまぜる真田くんに聞く。


「文字通り。思い出せないんだ」


 わかる。それは真田くんの顔を私が思い出せなかったのと同じだ。


「誰を描こうとしているの?」


 光莉が聞くと真田くんはちょっと間を置いてためらいつつ応える。


「噴水のあの光景を絵にしてみたくなったんだ。だけどどうしても、どう考えても、みんなが描けない」


「真田くんはあの体験がとても心に残ったんだね」


 私にとってあれはおバカな体験でしかなかった。童心に戻った楽しい小イベントではあったが、それだけだ。でも真田くんにはそうではなかった。それはなんかジンとくる。眩しい太陽、海風の音。噴水の飛沫が池に落ちる音。同じように噴水の中で遊ぶ子どもたちの声。言われてみれば鮮やかに思い出せる。


「構図かな」


 私の答えはこうだ。


「人が描けないならシルエットでもいいと思う。逆光とか」


「それもありだね」


「いっそ人物画にしてみるとか。噴水の縁に座ってバタ足をしているところとか」


 それをやっていたのは光莉だ。


「それも考えた。ハードルが高い。デッサンが足りないんだな」


「1時間くらいならつきあうよ」


「あたしも」


「ありがとう」


 真田くんはちょっと申し訳なさそうに、でも、嬉しそうに微笑んだ。


 彼がインスタントラーメンを食べている間に、ちょっとコンビニまでお昼の買い出しに行く。モデルは1人でいい。なのでモデルをやっていないときに食べよう、と光莉と話した。


 30分1本勝負だと彼は言い、先攻は光莉になった。真田くんは角椅子に座る光莉の前にスケッチブックを置き、鉛筆で粗い線を描いていく。私はその間にデッサンってなんだろうと思い、買ってきたサンドイッチを片手にスマホで検索してみる。デッサンは絵描きの基本中の基本らしい。見たものの形を正確に捉えたり、陰影を把握したり、線の流れを意識したりと、美術のシロウトの私にはもう盛りだくさんだった。


 絵を描くことを理解することは、絵を修復するにあたっても当然、必要だろう。だからこそ彼も油絵や水彩画を描いていた。でも、と私は立ち返る。彼は噴水の光景を描いてみたくなった、と言っていた。それは今まで描いていた意味合いとは異なると思う。彼自ら絵を描いてみたくなったということだ。


 美術修復というのは誰かが作ったものを大切に、確実に次世代に繋げていく仕事だ。そこに個人の思いはあっても、何か自分の表現みたいなものは不要ではないか、と私は考える。だから真田くんの今回の悩みは、彼が自分を表現するということに目覚めたのではないか、と思う。


 そんなことを考えている間に30分が過ぎ、真田くんが鉛筆を止めた。


「30分じゃこんなもんか」


 真田くんはがっかりしたように肩の力を落とした。私はスケッチブックをのぞき込む。


「どれどれ。かわいいじゃん」


 光莉の特徴がよく出ている。私にはよく描けていると思う。光莉もスケッチブックをのぞき込んで声を上げる。


「これ貰っていい~?」


「ダメ」


 真田くんは口をへの字にした。


「これくらい10分くらいで描けるようにならないと」


「意識高いな」


「次は薫ちゃんの番だ」


「うん。もう食べたからな」


 私は光莉に代わって角椅子に座る。ポーズの指定は特になかったので、単に膝に手を乗せる姿勢を維持する。真田くんが鉛筆をスケッチブックの上に走らせる音が聞こえる。光莉が買ってきたおにぎりを食べ、ラジオを点けたのがわかる。ラジオから流れてきたのは懐かしの洋楽だ。キャッチが聞こえてきてJ-Waveだと分かった。


 あまり動かないようにすると普段は気にならないことが分かるようになる。廊下を誰かが歩く音が聞こえたり、暑いのに校庭でなにやら球技をしているような音が聞こえてきたり。また、隣の美術室が無人なのもわかる。新学期早々から集まる熱心な美術部員はいないのだろう。


 まずい。眠ってしまいそうだ。たかだか30分。されど30分。なるほどこれはなかなか厳しい。先攻の光莉がラジオを点けてくれた理由がよくわかる。DJとゲストの会話で気が紛れる。


 気を確かにして30分をクリアーする。


「早く10分で描けるようになって欲しい」


 私はスケッチブックを見る前に真田くんに言った。


「少し慣れた?」


 スケッチブックをのぞき込む光莉が言った。私も回り込んでスケッチブックを見る。なるほど。少し線が多く、繊細になった気がする。これが自分かとは思わない。きちんと自分に見える。それは彼が私を見てくれている証拠だと思う。


 この後、真田くんは気力が続くまでデッサン人形でデッサンをがんばってみると言うので、私たちはそれを邪魔しないように美術準備室をあとにする。階段を降りながら、光莉が私に言った。


「どんな絵を描くのか楽しみだね」


「そんな風には考えなかったな。描けるようになって欲しいとは思うけど」


「絵ってその人の考え方が出るよね。今の真田くんが何を考えているのか、ううん、どんな思いであの日の思い出を抱いているのか知りたく思う」


「それは私も考えたけど、言葉にするとぐっとくるなあ」


「あの1日はあたしにとってこの夏1番の思い出になったよ」


「そうだね。私にとってもそうだ」


 光莉とは昇降口で別れる。


 彼女の気持ちは私にも分かる。


 リア充体験と一言で表現してしまうのは簡単だ。しかしその言葉の中に彼の中にどれだけ大切なものが詰まっているか。そのことを忘れたくない。


 彼があの1日をどのように思い出にしたのか――それは彼が描いた絵が完成したとき、その外、額縁の外に広がる光景となって私は理解するだろう。いや、額縁の外に何があるか感じるなんて体験、誰でもいつでもできるものではないことは分かっているつもりだ。しかし美術鑑賞で深い感慨を得た私は無意識のうちに再びあの体験ができないだろうかと考えている。それも自分の体験の内にあるものを。


 あの日が蘇るのかもしれないと思うと、確かに、そして密かに楽しみだ。何か力になれることがあればなってあげたいと思う。


 駅までの道を歩いていると自転車に乗った光莉が私を追いかけてきた。方向、全然違うのに。


「薫ちゃん!」


「光莉ちゃん、どうしたの? 連絡くれればいいのに」


「ううん。直に話したかったんだ」


 光莉は自転車から降りて押し始める。


「真田くんのこと?」


 光莉は頷いた。


「思いついちゃったんだ」


 私は得意満面な彼女の表情を見て、ストップをかける。


「待って。私、あててみせるから」


「そんな難しくないでしょう?」


 私はえーっとと前置きしてから答える。


「もう一度、あの噴水広場にみんなで行く!」


「やっぱそれしかないでしょう」


「柚乃は難しいかも。南さんにも声をかけてみよう」


 光莉は頷いた。


 私はさっそく南さんに連絡を入れ、直近の予定を聞いてみたが、彼女は部活や友だちとの予定があって都合はつかなかった。柚乃にも連絡したが、試合があるので無理とのことだった。


「仕方ないね」


「あたしと薫だけでも十分雰囲気は掴めると思うよ」


 私は彼女の言葉に頷いた。


「明日、誘おう」


「そうしよう」


 そして光莉は自転車に乗って、元来た道を引き返していった。


 光莉とはクラスメイトの中では元々仲がいい方だったが、真田くんとの絡みのお陰ですっかり友だちになれた。中学時代は柚乃べったりだった(柚乃も私にべったり、だが)私としては友だちが増えたことをとても嬉しく思う。

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