契約恋人は、本物の恋に落ちる

さわじり

契約恋人は、本物の恋に落ちる

 世間では「結婚適齢期」という言葉があるらしい。

 桐生志乃、二十九歳。広告代理店に勤める身としては、ターゲット層を見極めるうえで知っていて当然の概念だ。しかし、それが自分に降りかかるとなると話は別だった。


「志乃、お前そろそろ結婚考えたらどうだ?」

 実家に帰るたびに父がそう言い、母がそれに続く。

「お見合いの話、持ってきてもいい?」

「相手がいないのなら、仕事を控えて婚活でも……」


 冗談じゃない。

 こちらは寝る暇も惜しんで企画書を作っている。人生の優先順位は明確だ。結婚なんて、そんな不確定要素を人生に組み込む余裕はない。


 しかし、親の説得を面倒に感じるのも事実だった。そこで、志乃は一つの解決策を思いついた。


 ――偽の恋人を作ればいい。


 恋人がいれば、結婚を急かされることもない。一定期間付き合っているフリをして、破局したことにすれば問題ない。契約関係として割り切れば、感情のもつれも起こらないはずだ。


 ただし、相手は慎重に選ぶ必要があった。


 男はダメだ。


 親が本気になって、かえって面倒なことになるかもしれない。万が一、相手がその気になったら厄介だし、身の危険だってあるかもしれない。何より、志乃自身がそういう関係になりたいとは思えなかった。


 なら、同性ならどうか。


 同性の恋人がいることを伝えれば、親はまず「結婚しろ」とは言わないだろう。女性なら変な気を起こされる心配もないし、安全ではないか。


 ――女性を契約恋人にするのが一番理に適っている。

 志乃はその結論に至り、行動に移した。


「で、紹介された相手が……」

 志乃は、カフェのテラス席で向かいに座る相手を見た。

 緩くウェーブのかかった茶髪、ゆるっとしたパーカー。コーヒーを飲む手元の動きがふわりと柔らかい。


「えーっと、契約恋人? って話、聞いてるけど……本当にいいの?」

 佐藤美咲は、そう言うと、ストローをくわえたまま無邪気に笑った。


 志乃は姿勢を正し、淡々と返す。

「条件は明確にしましょう。私は恋人がいるという既成事実が欲しいだけ。お互いに深入りしない関係が理想です」

「へぇ~、割り切ってるんだね」

「当然。私は本気で恋愛をするつもりはないから」

「ふーん」


 美咲はまじまじと志乃を見つめ、それから、にっこりと笑った。


「じゃあさ、志乃さん。私、本気で恋人のフリをしてあげるね?」

 美咲がふっと前屈みになった瞬間、襟元がわずかに開く。

 視線を向けるつもりはなかったのに、わずかに見えた曲線に、志乃は思わず手元のコーヒーカップに意識を戻した。


 美咲はストローをくるくる回しながら、軽く首を傾げる。

「志乃さんってさ、結構モテるでしょ? 頼れるお姉さんって感じするし」

「そんなことない」

 即答したものの、美咲は納得していない様子だった。


 ◇


「じゃあ、契約成立ってことでいい?」

 美咲がカップを置きながら、軽い調子で聞いてくる。


「いいけど、契約内容については、いくつかルールを決めておきましょう」


 志乃は手帳を取り出し、ボールペンを走らせる。


 ・外での振る舞いは恋人らしくすること。

 ・必要な場面では手を繋ぐなどのスキンシップを許容する。

 ・それ以上の接触はなし。


「ずいぶんキッチリしてるんだね」

 美咲がクスクスと笑う。


「当然でしょう。これはあくまで契約だから」

「ふーん。でもさ、いまのままだと、『恋人がいます』って言っても、信じてもらえないかもよ?」


 志乃はペンの動きを止めた。

「……どういう意味?」


「……んー、志乃さん、ちょっと目つぶってみて?」

「どうして?」

「いいからいいから」


 少し考えたあと、志乃は小さくため息をつき、ゆっくりと目を閉じた。


「お疲れさま」

 その瞬間、志乃は頭の上にふんわりとした感触を覚えた。思わず目を開けると、それが美咲の手だと分かった。


「うん、こうやって頭をぽんぽんってするだけで、“恋人感”が増すと思うんだよね」


 志乃は言葉を失った。

 ぽんぽん。

 五歳も年下の女の子に――。妙な感覚が背筋を駆け上がる。


「ほら、こういうの、彼氏がよくやるでしょ?」

「私はされたことないけど」


 思い返してみても、特定の誰かと深い関係になったことはない。好意を向けられたことがなかったわけではないが、誰かと恋人になる、という発想がそもそもなかった。


「ね、志乃さん」

 美咲が少しだけ顔を近づける。

「こうされるの、嫌?」


 距離が近い。

 美咲の笑みは無邪気なものなのに、どこか焦らされるような気分になる。


「……嫌ではないけど」

 そう答えると、美咲は少し驚いたような顔をして、それからゆるく微笑んだ。


「ふーん、そっか」

「ただし、契約は契約」

 志乃はわずかに咳払いをして、手帳に視線を戻す。


「この関係を本気にするつもりはない。それだけは理解しておいて」

「……はーい」


 美咲はどこか含みのある笑顔を浮かべながら、ストローをくわえた。


 ◇


 数日後、週末の午後。


 志乃は、前回のカフェの前で美咲と待ち合わせをしていた。

 落ち合った美咲は、何か楽しいことでもあるのか、柔らかな笑みに満ちていた。


「じゃあ、そろそろ行こっか」

「……待って、まだ確認したいことがある」

「え? 何?」


 志乃はポケットから手帳を取り出し、パラパラとページをめくった。

「契約の範囲内でどこまで許容するか、改めて整理しておきたい。例えば、外での振る舞いについて――」

「うんうん、そういうのも大事だよね」

 話している最中、美咲がすっと手を伸ばしてきた。


「ん?」

「恋人ならこれくらい普通でしょ?」

 何の前触れもなく、自然に手を握られた。


 指先が絡む感触に、一瞬言葉が詰まる。


「だって、そういう関係に見えないと意味ないし」

 美咲は至極当然のように言う。


「……確かに、そうだけど」

「志乃さん、手、あったかいね」

 美咲は握った手を軽く揺らす。


「ほらほら、慣れておいたほうがいいよ。いざって時、ぎこちなくなっちゃうかもしれないし」

 言い返そうと思ったが、反論の余地はない。

 確かに、美咲の言う通りかもしれない。


 ただ、問題なのは――。

 思ったよりも、手を繋ぐという行為が自然に感じられてしまっていることだった。


「ね、そろそろ行こ?」

 美咲はそのまま手を引く。志乃は少しだけ迷ったあと、結局、その手を振りほどくことはしなかった。


 これはただの契約。

 それを忘れなければ、問題はないはずだ――。

 志乃はそう自分に言い聞かせた。


 ◇


「いらっしゃい」

 そう言いながら、美咲は玄関のドアを開けた。


 志乃は、そのまま一歩足を踏み入れる。

 美咲の部屋は、思ったよりも落ち着いた雰囲気だった。


 ナチュラルな木目の家具に、淡い色合いのクッションやラグ。壁には数枚のイラストが飾られ、柔らかい間接照明が部屋全体を包んでいる。

 どこか居心地がいい。


「意外だったかもだけど、片付けるの好きなんだよね」

「……確かに、あなたの雰囲気からすると、もっと雑然としているかと思った」

「ひどっ」


 美咲は笑いながら、キッチンへ向かった。

「さてと、志乃さん、お腹すいてる?」

「そこそこかな」

「今あるもので、ちゃちゃっと作るから、ソファに座ってて。テレビでもつけていいよ」


 志乃は言われるがままにソファに腰を下ろした。柔らかいクッションが身体を包み込む。

 ほんの少しだけ、気が緩んだ。


「お待たせ~」

 しばらくして、美咲がキッチンから戻ってくる。手には、ふわりと湯気の立つトレー。


「はい、どうぞ」

 トレーの上には、シンプルなオムライスと、優しい香りのするコンソメスープ。


「手際がいいんだね」

「まあね。バイト先でちょっと厨房入ってたこともあるし」

 美咲は当たり前のように横に座り、にこにこと志乃の様子を見つめる。


「さ、食べて食べて」

 志乃はスプーンを手に取り、ひとくち口に運ぶ。

 ふわっとした卵の食感と、ほんのり甘みのあるケチャップライスが広がる。

 思ったよりも、ずっと優しい味だった。


「どう?」

「うん、美味しいよ」

「んー、もうちょっと喜んでくれてもいいのに」


 美咲はふっと笑いながら、スプーンをひょいと持ち上げた。

「ほら、あーんして」

「……待って、なんでそうなるの」

「志乃さん、恋人なんだから、こういうのも練習しないとダメでしょ?」


 美咲はとても自然にスプーンを差し出してくる。

「……仕方ない」

 志乃は観念し、そっと口を開いた。

 美咲がスプーンを口元へ運ぶ。


 そのとき、思った以上に近くにいることに気がついた。

 視線を落とせば、美咲の細い指がスプーンの柄を持っている。彼女の動きに合わせて、かすかに揺れる髪。

 なぜか、鼓動が少しだけ早くなる。


 食べ終わっても、美咲はそのままじっと志乃を見つめていた。

「……何か?」


「もうちょっと甘えていいんだよ?」

 そう言うと、美咲は何のためらいもなく、志乃の頭に手を伸ばした。


 ぽん、ぽん。

 志乃は、手を止めたまま固まった。

「……志乃さん?」

「……少し、慣れていないだけ」

「そっか」


 美咲は微笑みながら、今度は優しく髪を撫でた。

 まるで、何かを確かめるように。


「んー、やっぱり志乃さん、仕事でいろいろ溜め込んでるでしょ?」

「別に、そんなことは」

「いや、してる。絶対」


 美咲はゆっくりと志乃の肩にもたれかかった。

「ね、もうちょっと力抜いて?」

「……」

「この部屋にいる間くらい、そういうの全部忘れていいよ」

 柔らかい声だった。


 志乃は、小さく息をついた。

 たしかに、久しぶりに、肩の力が抜けた気がする。

 どうしてこんなに心地よく感じるのか。

 答えはまだ、わからなかった。


 ◇


「志乃さん、こっちおいで」

 美咲がぽんぽんと自分の膝を叩く。


「……何をするつもり?」

「見てわかるでしょ? 膝枕。志乃さん、疲れてる顔してるし」

「そんなことない」

「あるね。というわけで、はい。遠慮せずどうぞ」


 美咲はニコニコしながら、まるで当然のことのように志乃を招く。

 部屋の雰囲気も手伝ってか、先ほどよりも確かに気が抜けているのを自覚していた。


「……少しだけなら」

「はいはい、素直でよろしい」


 美咲が満足げに微笑むのを見ながら、志乃はそっと身を預ける。

 ――思った以上に、心地よかった。

 髪の下に感じる柔らかさと、温もり。


「ふふ、志乃さん、意外と素直になるの早いね?」

「……喋らないで」

「もー、照れなくていいのに」


 美咲の指が、そっと志乃の髪を撫でた。

 指先がふわりと髪をすくい、ゆっくりと梳いていく。

 優しく、丁寧な動き。


 それはまるで、壊れ物を扱うような、あるいは誰かを大事に思う人の仕草のようで――。

「志乃さん、髪、すごくきれいだね」

 美咲の声は、優しすぎる。


「ん……」


 思わず、声が漏れそうになった。

 美咲の膝の上は、思った以上に安定感があった。程よく温かくて、香りも柔らかい。


「ふふ、気持ちいい?」

「……別に」

「じゃあ、もっと気持ちよくしてあげる」


 美咲の指が、今度はこめかみを優しく押した。

「……っ」

 じんわりと力が抜けていく感覚。


「凝ってるねえ……これ、絶対仕事のせいでしょ?」

「……まあ、そうかもしれない」

「こういうの、たまには甘えてもいいんだよ?」


 甘えていい。

 その言葉に、胸の奥がちくりとした。


「……そういうものなのかな」

「うん、そういうもの」


 美咲は楽しそうに笑うと、そのまま志乃の額にそっと指を当てた。


「ほら、眉間にシワ寄ってる。力抜いて」

 指先がゆっくりと額をなぞる。

 それが思った以上に心地よくて、志乃は抗うことをやめた。


 美咲は小さく笑うと、また髪をゆっくりと撫でた。

「ね、志乃さん」

「……なに」

「こういうの、嫌じゃないでしょ?」

「……」


 嫌ではない。

 むしろ、こんなに安心できるものだったとは思わなかった。


「ふふ、よかった」

 美咲の声が、どこか満足そうだった。


 ◇


 その後も、志乃は美咲の部屋を何度か訪れた。

 美咲の部屋は居心地がいい。

 ソファに沈み込みながら、志乃は手元のコーヒーカップを持ち上げた。


「志乃さん、うちではいつもブラックばっかり飲むよね」

 キッチンで食器を片付けながら、美咲が何気なく言う。


「苦いのが好きなだけ」

「うーん、でもさ……」

 美咲は流しの水を止めると、ふっと微笑んだ。


「今日は、ちょっと違うもの飲んでみない?」

 そう言って、美咲は小さなカップを持って戻ってくる。


「……カフェラテ?」

「そう。ちょっとだけ甘くしてるよ」


 美咲はにっこり笑って、志乃の前にカップを差し出した。

「ほら、飲んでみて」


 カップを手に取る。

 口をつけた瞬間、まろやかなミルクの甘さが広がった。


「……悪くないね」

「でしょ?」

 美咲は満足げに微笑んだ。


「志乃さん、なんかさ、すごく無理してる気がするんだよね」

「……そうかな」

「ブラックコーヒーとか、ストイックなものばっかり選んでるけど、本当はもうちょっと甘いものも好きなんじゃない?」

「……そんなことはない」

「ふーん。でも、今の顔、ちょっとだけ嬉しそうだったよ?」


 志乃は無言のままカップを置く。


「もっと自分に甘くしてもいいと思うけどな」

 美咲は少し考えるように視線をそらし、そして。

 急に顔を近づけてきた。


「……っ」

 思わず、志乃の体がこわばる。

 美咲の瞳は、意外なほどにまっすぐだった。


「志乃さんって、誰かに甘えたことある?」

 言葉が出ない。

「ほら、今も無意識に距離取ろうとしてる」

 美咲の指がそっと志乃の手の甲に触れた。


 肌に触れる感触が、妙に意識に残る。

「こういうの、慣れてない?」


 仕事で求められるのは冷静さと判断力。自分の弱さを見せることはなかったし、求められることもなかった。

 だから、こんな風に誰かが自分に近づいてくることに、どう対処すればいいのかわからない。


「ふふ、志乃さん、今ちょっと困ってる?」

「……そんなことはない」

「ほんとに?」


 美咲は指先で、そっと志乃の手を撫でる。

 まるで、逃げられないようにするみたいに。


「志乃さんって、たぶん、自分のこと強いって思ってるでしょ?」

「……そうかな」

「でも、私にはそうは見えないよ?」


 美咲の瞳が、真剣だった。

「ほんとは、ちょっとだけ、誰かに頼りたいんじゃない?」


 志乃は目を逸らした。


「ね、ちょっと試してみる?」

「……何を」

「私に甘えてみるの」


 不意に、美咲がゆっくりと腕を伸ばした。

「ほら、ぎゅーってするから」


 冗談のように聞こえる。

 だけど、美咲は本当にそうしようとしている。


 志乃は迷った。

 美咲に抱きしめられたら、何かが変わるのだろうか。


「……一回だけ」

「うん、いいよ」


 志乃は、静かに目を閉じた。

 ふわりと、美咲の腕が背中を包む。

 温かい。

 鼓動が、少しだけ速くなる。


「あ、今ちょっと可愛い顔した」

 美咲は優しく笑いながら、そっと志乃の背を撫でた。


 このとき、志乃ははっきりと自覚した。

 自分の中で、何かが変わり始めている。



 美咲の言葉や仕草に、少しずつ心が動く。

 彼女の温もりが、ふとした瞬間に思い出される。


 だが、それを認めることができなかった。

「契約だから」

 そう言い聞かせるほど、意識してしまう自分がいる。


 このままではいけない。

 そう思っていたのに――。


 その日、志乃は決定的な場面を目にしてしまった。


 週末の午後。

 志乃は美咲と会う約束をしていた。


 待ち合わせ場所のカフェに着いたとき、美咲はまだ来ていなかった。


 店内に入り、席に着こうとしたその瞬間、店の窓の外に美咲の姿を見つけた。

 だが。

 隣には別の女性がいた。


 明るい髪のショートカットの女性。

 彼女は美咲に向かって何かを話している。


 そして、笑いながら美咲の腕にそっと触れた。

 その動作が、妙に親しげに見えた。

 美咲も、それを拒む様子はなかった。


 胸がざわつく。

 そんなはずはない。

 契約恋人なのだから、美咲が誰と会おうと、それは関係ない。


 だが。

 なぜか、視線が離せなかった。


 笑顔で話す美咲。

 親しげに距離を縮める女性。


 ――あの距離感は、なんだ?


 美咲は誰にでもああなのか?

 それとも、特別な相手なのか?


 考えたくないのに、思考が勝手に巡る。

 その時、ふと美咲が顔を上げた。

 そして、店の中にいる志乃に気がついた。


「あ」


 美咲の表情が、一瞬だけ驚きに変わる。

 志乃は足早に店を出ると、美咲を無視してその場を走り去った。


 何をやっているんだ。

 志乃は自分自身に苛立っていた。

 美咲が誰と親しくしようと、自分には関係ないはずだ。


 なのに、胸の奥が妙に重い。

 あの光景が頭から離れない。

 ――この感情は、何だ?


 契約恋人であるはずの美咲が、他の誰かと仲良くしているのを見て、こんなにも動揺する理由は?

 まさか、まさか、とは思う。


 だけど。

 もし本当に。

 自分が美咲のことを「そういう目で」見始めているのだとしたら――。

 この関係は、もう「契約」のままではいられない。


 ◇


 店を離れてからも、先程の光景が頭を離れなかった。

 美咲が誰とどんな関係を持っていようと、知ったことではない。

 ――そのはずだった。


 だけど、心がざわついて仕方がない。

 考えれば考えるほど、胸が重くなる。

 ――そんな時だった。


「志乃さん!」

 後ろから名前を呼ばれた。

 その声を聞いた瞬間、身体が強張る。


 振り返ると、そこにいたのは美咲だった。

 少し息を切らしながら、真っ直ぐこちらを見つめている。


「なんで急に帰っちゃったの?」

 その問いに、志乃は何と答えればいいかわからなかった。

 何か理由をつけようとしたが、適当な言葉が見つからない。


 そんな志乃をじっと見つめながら、美咲はゆっくりと歩み寄ってくる。

「……あの人、気になった?」

 核心を突かれた。


「……別に」

「うそ」


 美咲はふっと微笑んで、少しだけ首を傾げる。

「じゃあ、どうしてそんな顔してるの?」

 答えられない。

「志乃さんの気持ち、ちゃんと聞かせてほしいな」


 その言葉が、胸の奥に突き刺さる。

 なぜだろう。

 逃げたくなった。


 志乃は、握りしめた拳に力を込める。

 この感情が何なのか、まだはっきりとは分からない。


 やっとの思いで、言葉を絞り出す。

「……美咲は、あの人とどういう関係なの」


 美咲は少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。

「……そっか、やっぱり気になってたんだ」

「答えて」

「うん……ただの友達だよ」

「本当に?」

「ほんと。偶然会って、ちょっと話してただけ」


 美咲はいたずらっぽく笑って、すっと志乃に近づいた。

「……もし、本当に私が他の人と付き合ってたら、志乃さんはどうする?」


 距離が近い。

「……関係ない」

「嘘」


 美咲の指が、そっと志乃の腕に触れる。

 その感触が、思った以上に熱を帯びていた。


 何も言えないまま、志乃はただ美咲の瞳を見つめる。

 この感情が何なのか、もう誤魔化せない。

 だけど、どうしたらいいのかも分からない。


 そんな志乃の迷いを見透かしたように、美咲はそっと微笑んだ。


 ◇


 翌日。

 志乃は、美咲を自分の部屋に招いていた。


 昨日はあのまま美咲と別れたものの、考えすぎたせいかろくに眠れなかった。

 美咲の言葉が、頭の中で何度もリフレインする。


 だからこそ、自分の中で整理をつけるために、美咲を部屋に呼んだのだ。


「へぇ~、志乃さんの部屋、思ったよりシンプルだね」

 美咲はソファに座ると、クッションをぽすんと抱えた。


 志乃の部屋は、無駄のないシンプルなデザインでまとめられている。

 ベージュとダークブラウンを基調にした家具。白いカーテン。

 仕事が忙しく、インテリアにこだわる暇もなかったせいか、生活感はあまりない。


「必要なものしか置いていないだけ」

「なんか志乃さんらしい」

 美咲は小さく笑いながら、クッションを抱えたまま志乃を見上げる。


「それで? わざわざ部屋に呼んでくれたってことは、話したいことがあるんでしょ?」


 志乃は向かいの椅子に腰掛け、深く息をつく。

 逃げずに向き合うしかない。


「昨日のことだけど……」

 志乃は自分でも信じられないほど素直に、言葉を紡いでいた。


「美咲が誰と会おうと、本来なら気にすることじゃない。そう思ってた」

「……うん」


「けど、実際に見たとき、腹が立った」

「腹が立った?」

「……いや、それだけじゃない。胸の奥がざわついて、どうしようもなく落ち着かなかった」


 言葉にしてしまうと、あまりにも単純で、当たり前の感情だと気づく。

「私は、美咲のことを……」


 一瞬、口ごもる。

 美咲は何も言わず、ただじっと志乃を見つめていた。


「……本当に契約の関係だと割り切れているのか、自信がない」

「それって、どういう意味?」

 問いかける声は、どこか甘かった。


 志乃は、一度息を整える。

 ここで誤魔化したら、もう後戻りはできない。


「私は……美咲のことを、契約相手以上に意識している」


 それを認めた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。


「……志乃さん」

 美咲の声が、わずかに震えているように感じた。

「じゃあ、もし私が本当に他の人と付き合おうとしたら、どうする?」


 志乃は答えられない。

 考えたくもない。


「今、めちゃくちゃ嫌そうな顔してる」

 美咲はクスリと笑った。


「もう契約なんてやめちゃえばいいんじゃない?」

「……それは」

「志乃さんが本気になってくれるなら、私だって……」


 言いかけて、美咲は一瞬躊躇う。

 そして、小さく息を吸い込むと――。


「私はね、最初から志乃さんのこと、好きだったんだよ?」

 言葉が、胸に直接落ちてきた。


「……え?」

「最初は、契約でもいいやって思ってた。でも、一緒にいるうちに、どんどん好きになって……」


 美咲の頬が、わずかに赤くなっている。

「だから、ずっと待ってたの。志乃さんが、振り向いてくれるのを」


 静かな空間に、美咲の言葉だけが響く。


「私のこと、本当に好き?」

 ストレートな問い。

 志乃の心臓が、大きく跳ねる。


「うん」


 美咲の瞳が、わずかに潤む。

「じゃあ、もう契約じゃなくて、本当の恋人になろ?」


「……うん」

 志乃は軽く頷いた後、しっかりと美咲を見据え、手を固く握りながら、言った。

「好きです。私の恋人になってください」


 ◇


 後日、二人はいつものように美咲の部屋で過ごしていた。

「そういえば、最初から私のことを好きだったと言ってたけど、あれってどういうこと?」


「……そろそろバラしてもいいかな」

 美咲はいたずらっぽく笑うと、ソファのクッションを抱きしめたまま、ゆっくりと話し始めた。


「志乃さんが、私のお姉ちゃんに契約恋人の紹介を頼んだ時ね、すぐ私のことを思い出したんだって」


 志乃は眉をひそめる。

「お姉ちゃんって……」

「うん、私の姉――佐藤英子」


 その名前を聞いた瞬間、志乃の背筋がピンと伸びた。

「……まさか」

「そう、志乃さんの大学時代の友人で、今でも仲良くしてる英子。その妹が、私だよ」


 美咲はふわりと微笑んだ。

「私ね、最初から志乃さんのこと知ってたんだ。お姉ちゃんがよく志乃さんの話をしてたの」


 美咲の瞳が、そっと細められる。

「あとはね、大学の学祭で、一度だけ志乃さんを見たことがある。実行委員としてバリバリ働いてた志乃さんは、クールで、真面目で、でもちょっとだけ不器用そうで……」


 記憶を思い出すように、美咲は優しく微笑んだ。


「一目惚れだった」


 その告白に、志乃は言葉を失う。


「その時は私と志乃さんが会う機会はなかった。でも、最近になって志乃さんが『契約恋人』を探してるって聞いて……」

「それで英子は美咲を紹介したんだ」

「うん。でも、最初から『妹だよ』って言うと、志乃さんは遠慮しちゃうでしょ? だから、お姉ちゃんと相談して、妹だってことは伏せて、契約恋人として紹介することにしたの」


 美咲はクスリと笑う。


「でもね、最初は“契約”って割り切ろうと思ったけど……やっぱり無理だった。志乃さんは、やっぱり昔のままカッコよかったし、でもちょっと不器用なところもあって……」

 静かな告白だった。

「どんどん、もっと好きになった」


 志乃は、それを黙って聞いていた。

 心の中に、じわじわと熱が広がっていく。


「今の志乃さんは、私のことどう思ってる?」

 美咲は、まっすぐ志乃を見つめていた。

 それは、誤魔化しの効かない瞳だった。


 志乃は、ゆっくりと息を吐き、美咲の手を握りながら言った。

「大好き」


 美咲は嬉しそうに微笑むと、そっと志乃に口づけた。

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