契約恋人は、本物の恋に落ちる
さわじり
契約恋人は、本物の恋に落ちる
世間では「結婚適齢期」という言葉があるらしい。
桐生志乃、二十九歳。広告代理店に勤める身としては、ターゲット層を見極めるうえで知っていて当然の概念だ。しかし、それが自分に降りかかるとなると話は別だった。
「志乃、お前そろそろ結婚考えたらどうだ?」
実家に帰るたびに父がそう言い、母がそれに続く。
「お見合いの話、持ってきてもいい?」
「相手がいないのなら、仕事を控えて婚活でも……」
冗談じゃない。
こちらは寝る暇も惜しんで企画書を作っている。人生の優先順位は明確だ。結婚なんて、そんな不確定要素を人生に組み込む余裕はない。
しかし、親の説得を面倒に感じるのも事実だった。そこで、志乃は一つの解決策を思いついた。
――偽の恋人を作ればいい。
恋人がいれば、結婚を急かされることもない。一定期間付き合っているフリをして、破局したことにすれば問題ない。契約関係として割り切れば、感情のもつれも起こらないはずだ。
ただし、相手は慎重に選ぶ必要があった。
男はダメだ。
親が本気になって、かえって面倒なことになるかもしれない。万が一、相手がその気になったら厄介だし、身の危険だってあるかもしれない。何より、志乃自身がそういう関係になりたいとは思えなかった。
なら、同性ならどうか。
同性の恋人がいることを伝えれば、親はまず「結婚しろ」とは言わないだろう。女性なら変な気を起こされる心配もないし、安全ではないか。
――女性を契約恋人にするのが一番理に適っている。
志乃はその結論に至り、行動に移した。
「で、紹介された相手が……」
志乃は、カフェのテラス席で向かいに座る相手を見た。
緩くウェーブのかかった茶髪、ゆるっとしたパーカー。コーヒーを飲む手元の動きがふわりと柔らかい。
「えーっと、契約恋人? って話、聞いてるけど……本当にいいの?」
佐藤美咲は、そう言うと、ストローをくわえたまま無邪気に笑った。
志乃は姿勢を正し、淡々と返す。
「条件は明確にしましょう。私は恋人がいるという既成事実が欲しいだけ。お互いに深入りしない関係が理想です」
「へぇ~、割り切ってるんだね」
「当然。私は本気で恋愛をするつもりはないから」
「ふーん」
美咲はまじまじと志乃を見つめ、それから、にっこりと笑った。
「じゃあさ、志乃さん。私、本気で恋人のフリをしてあげるね?」
美咲がふっと前屈みになった瞬間、襟元がわずかに開く。
視線を向けるつもりはなかったのに、わずかに見えた曲線に、志乃は思わず手元のコーヒーカップに意識を戻した。
美咲はストローをくるくる回しながら、軽く首を傾げる。
「志乃さんってさ、結構モテるでしょ? 頼れるお姉さんって感じするし」
「そんなことない」
即答したものの、美咲は納得していない様子だった。
◇
「じゃあ、契約成立ってことでいい?」
美咲がカップを置きながら、軽い調子で聞いてくる。
「いいけど、契約内容については、いくつかルールを決めておきましょう」
志乃は手帳を取り出し、ボールペンを走らせる。
・外での振る舞いは恋人らしくすること。
・必要な場面では手を繋ぐなどのスキンシップを許容する。
・それ以上の接触はなし。
「ずいぶんキッチリしてるんだね」
美咲がクスクスと笑う。
「当然でしょう。これはあくまで契約だから」
「ふーん。でもさ、いまのままだと、『恋人がいます』って言っても、信じてもらえないかもよ?」
志乃はペンの動きを止めた。
「……どういう意味?」
「……んー、志乃さん、ちょっと目つぶってみて?」
「どうして?」
「いいからいいから」
少し考えたあと、志乃は小さくため息をつき、ゆっくりと目を閉じた。
「お疲れさま」
その瞬間、志乃は頭の上にふんわりとした感触を覚えた。思わず目を開けると、それが美咲の手だと分かった。
「うん、こうやって頭をぽんぽんってするだけで、“恋人感”が増すと思うんだよね」
志乃は言葉を失った。
ぽんぽん。
五歳も年下の女の子に――。妙な感覚が背筋を駆け上がる。
「ほら、こういうの、彼氏がよくやるでしょ?」
「私はされたことないけど」
思い返してみても、特定の誰かと深い関係になったことはない。好意を向けられたことがなかったわけではないが、誰かと恋人になる、という発想がそもそもなかった。
「ね、志乃さん」
美咲が少しだけ顔を近づける。
「こうされるの、嫌?」
距離が近い。
美咲の笑みは無邪気なものなのに、どこか焦らされるような気分になる。
「……嫌ではないけど」
そう答えると、美咲は少し驚いたような顔をして、それからゆるく微笑んだ。
「ふーん、そっか」
「ただし、契約は契約」
志乃はわずかに咳払いをして、手帳に視線を戻す。
「この関係を本気にするつもりはない。それだけは理解しておいて」
「……はーい」
美咲はどこか含みのある笑顔を浮かべながら、ストローをくわえた。
◇
数日後、週末の午後。
志乃は、前回のカフェの前で美咲と待ち合わせをしていた。
落ち合った美咲は、何か楽しいことでもあるのか、柔らかな笑みに満ちていた。
「じゃあ、そろそろ行こっか」
「……待って、まだ確認したいことがある」
「え? 何?」
志乃はポケットから手帳を取り出し、パラパラとページをめくった。
「契約の範囲内でどこまで許容するか、改めて整理しておきたい。例えば、外での振る舞いについて――」
「うんうん、そういうのも大事だよね」
話している最中、美咲がすっと手を伸ばしてきた。
「ん?」
「恋人ならこれくらい普通でしょ?」
何の前触れもなく、自然に手を握られた。
指先が絡む感触に、一瞬言葉が詰まる。
「だって、そういう関係に見えないと意味ないし」
美咲は至極当然のように言う。
「……確かに、そうだけど」
「志乃さん、手、あったかいね」
美咲は握った手を軽く揺らす。
「ほらほら、慣れておいたほうがいいよ。いざって時、ぎこちなくなっちゃうかもしれないし」
言い返そうと思ったが、反論の余地はない。
確かに、美咲の言う通りかもしれない。
ただ、問題なのは――。
思ったよりも、手を繋ぐという行為が自然に感じられてしまっていることだった。
「ね、そろそろ行こ?」
美咲はそのまま手を引く。志乃は少しだけ迷ったあと、結局、その手を振りほどくことはしなかった。
これはただの契約。
それを忘れなければ、問題はないはずだ――。
志乃はそう自分に言い聞かせた。
◇
「いらっしゃい」
そう言いながら、美咲は玄関のドアを開けた。
志乃は、そのまま一歩足を踏み入れる。
美咲の部屋は、思ったよりも落ち着いた雰囲気だった。
ナチュラルな木目の家具に、淡い色合いのクッションやラグ。壁には数枚のイラストが飾られ、柔らかい間接照明が部屋全体を包んでいる。
どこか居心地がいい。
「意外だったかもだけど、片付けるの好きなんだよね」
「……確かに、あなたの雰囲気からすると、もっと雑然としているかと思った」
「ひどっ」
美咲は笑いながら、キッチンへ向かった。
「さてと、志乃さん、お腹すいてる?」
「そこそこかな」
「今あるもので、ちゃちゃっと作るから、ソファに座ってて。テレビでもつけていいよ」
志乃は言われるがままにソファに腰を下ろした。柔らかいクッションが身体を包み込む。
ほんの少しだけ、気が緩んだ。
「お待たせ~」
しばらくして、美咲がキッチンから戻ってくる。手には、ふわりと湯気の立つトレー。
「はい、どうぞ」
トレーの上には、シンプルなオムライスと、優しい香りのするコンソメスープ。
「手際がいいんだね」
「まあね。バイト先でちょっと厨房入ってたこともあるし」
美咲は当たり前のように横に座り、にこにこと志乃の様子を見つめる。
「さ、食べて食べて」
志乃はスプーンを手に取り、ひとくち口に運ぶ。
ふわっとした卵の食感と、ほんのり甘みのあるケチャップライスが広がる。
思ったよりも、ずっと優しい味だった。
「どう?」
「うん、美味しいよ」
「んー、もうちょっと喜んでくれてもいいのに」
美咲はふっと笑いながら、スプーンをひょいと持ち上げた。
「ほら、あーんして」
「……待って、なんでそうなるの」
「志乃さん、恋人なんだから、こういうのも練習しないとダメでしょ?」
美咲はとても自然にスプーンを差し出してくる。
「……仕方ない」
志乃は観念し、そっと口を開いた。
美咲がスプーンを口元へ運ぶ。
そのとき、思った以上に近くにいることに気がついた。
視線を落とせば、美咲の細い指がスプーンの柄を持っている。彼女の動きに合わせて、かすかに揺れる髪。
なぜか、鼓動が少しだけ早くなる。
食べ終わっても、美咲はそのままじっと志乃を見つめていた。
「……何か?」
「もうちょっと甘えていいんだよ?」
そう言うと、美咲は何のためらいもなく、志乃の頭に手を伸ばした。
ぽん、ぽん。
志乃は、手を止めたまま固まった。
「……志乃さん?」
「……少し、慣れていないだけ」
「そっか」
美咲は微笑みながら、今度は優しく髪を撫でた。
まるで、何かを確かめるように。
「んー、やっぱり志乃さん、仕事でいろいろ溜め込んでるでしょ?」
「別に、そんなことは」
「いや、してる。絶対」
美咲はゆっくりと志乃の肩にもたれかかった。
「ね、もうちょっと力抜いて?」
「……」
「この部屋にいる間くらい、そういうの全部忘れていいよ」
柔らかい声だった。
志乃は、小さく息をついた。
たしかに、久しぶりに、肩の力が抜けた気がする。
どうしてこんなに心地よく感じるのか。
答えはまだ、わからなかった。
◇
「志乃さん、こっちおいで」
美咲がぽんぽんと自分の膝を叩く。
「……何をするつもり?」
「見てわかるでしょ? 膝枕。志乃さん、疲れてる顔してるし」
「そんなことない」
「あるね。というわけで、はい。遠慮せずどうぞ」
美咲はニコニコしながら、まるで当然のことのように志乃を招く。
部屋の雰囲気も手伝ってか、先ほどよりも確かに気が抜けているのを自覚していた。
「……少しだけなら」
「はいはい、素直でよろしい」
美咲が満足げに微笑むのを見ながら、志乃はそっと身を預ける。
――思った以上に、心地よかった。
髪の下に感じる柔らかさと、温もり。
「ふふ、志乃さん、意外と素直になるの早いね?」
「……喋らないで」
「もー、照れなくていいのに」
美咲の指が、そっと志乃の髪を撫でた。
指先がふわりと髪をすくい、ゆっくりと梳いていく。
優しく、丁寧な動き。
それはまるで、壊れ物を扱うような、あるいは誰かを大事に思う人の仕草のようで――。
「志乃さん、髪、すごくきれいだね」
美咲の声は、優しすぎる。
「ん……」
思わず、声が漏れそうになった。
美咲の膝の上は、思った以上に安定感があった。程よく温かくて、香りも柔らかい。
「ふふ、気持ちいい?」
「……別に」
「じゃあ、もっと気持ちよくしてあげる」
美咲の指が、今度はこめかみを優しく押した。
「……っ」
じんわりと力が抜けていく感覚。
「凝ってるねえ……これ、絶対仕事のせいでしょ?」
「……まあ、そうかもしれない」
「こういうの、たまには甘えてもいいんだよ?」
甘えていい。
その言葉に、胸の奥がちくりとした。
「……そういうものなのかな」
「うん、そういうもの」
美咲は楽しそうに笑うと、そのまま志乃の額にそっと指を当てた。
「ほら、眉間にシワ寄ってる。力抜いて」
指先がゆっくりと額をなぞる。
それが思った以上に心地よくて、志乃は抗うことをやめた。
美咲は小さく笑うと、また髪をゆっくりと撫でた。
「ね、志乃さん」
「……なに」
「こういうの、嫌じゃないでしょ?」
「……」
嫌ではない。
むしろ、こんなに安心できるものだったとは思わなかった。
「ふふ、よかった」
美咲の声が、どこか満足そうだった。
◇
その後も、志乃は美咲の部屋を何度か訪れた。
美咲の部屋は居心地がいい。
ソファに沈み込みながら、志乃は手元のコーヒーカップを持ち上げた。
「志乃さん、うちではいつもブラックばっかり飲むよね」
キッチンで食器を片付けながら、美咲が何気なく言う。
「苦いのが好きなだけ」
「うーん、でもさ……」
美咲は流しの水を止めると、ふっと微笑んだ。
「今日は、ちょっと違うもの飲んでみない?」
そう言って、美咲は小さなカップを持って戻ってくる。
「……カフェラテ?」
「そう。ちょっとだけ甘くしてるよ」
美咲はにっこり笑って、志乃の前にカップを差し出した。
「ほら、飲んでみて」
カップを手に取る。
口をつけた瞬間、まろやかなミルクの甘さが広がった。
「……悪くないね」
「でしょ?」
美咲は満足げに微笑んだ。
「志乃さん、なんかさ、すごく無理してる気がするんだよね」
「……そうかな」
「ブラックコーヒーとか、ストイックなものばっかり選んでるけど、本当はもうちょっと甘いものも好きなんじゃない?」
「……そんなことはない」
「ふーん。でも、今の顔、ちょっとだけ嬉しそうだったよ?」
志乃は無言のままカップを置く。
「もっと自分に甘くしてもいいと思うけどな」
美咲は少し考えるように視線をそらし、そして。
急に顔を近づけてきた。
「……っ」
思わず、志乃の体がこわばる。
美咲の瞳は、意外なほどにまっすぐだった。
「志乃さんって、誰かに甘えたことある?」
言葉が出ない。
「ほら、今も無意識に距離取ろうとしてる」
美咲の指がそっと志乃の手の甲に触れた。
肌に触れる感触が、妙に意識に残る。
「こういうの、慣れてない?」
仕事で求められるのは冷静さと判断力。自分の弱さを見せることはなかったし、求められることもなかった。
だから、こんな風に誰かが自分に近づいてくることに、どう対処すればいいのかわからない。
「ふふ、志乃さん、今ちょっと困ってる?」
「……そんなことはない」
「ほんとに?」
美咲は指先で、そっと志乃の手を撫でる。
まるで、逃げられないようにするみたいに。
「志乃さんって、たぶん、自分のこと強いって思ってるでしょ?」
「……そうかな」
「でも、私にはそうは見えないよ?」
美咲の瞳が、真剣だった。
「ほんとは、ちょっとだけ、誰かに頼りたいんじゃない?」
志乃は目を逸らした。
「ね、ちょっと試してみる?」
「……何を」
「私に甘えてみるの」
不意に、美咲がゆっくりと腕を伸ばした。
「ほら、ぎゅーってするから」
冗談のように聞こえる。
だけど、美咲は本当にそうしようとしている。
志乃は迷った。
美咲に抱きしめられたら、何かが変わるのだろうか。
「……一回だけ」
「うん、いいよ」
志乃は、静かに目を閉じた。
ふわりと、美咲の腕が背中を包む。
温かい。
鼓動が、少しだけ速くなる。
「あ、今ちょっと可愛い顔した」
美咲は優しく笑いながら、そっと志乃の背を撫でた。
このとき、志乃ははっきりと自覚した。
自分の中で、何かが変わり始めている。
◇
美咲の言葉や仕草に、少しずつ心が動く。
彼女の温もりが、ふとした瞬間に思い出される。
だが、それを認めることができなかった。
「契約だから」
そう言い聞かせるほど、意識してしまう自分がいる。
このままではいけない。
そう思っていたのに――。
その日、志乃は決定的な場面を目にしてしまった。
週末の午後。
志乃は美咲と会う約束をしていた。
待ち合わせ場所のカフェに着いたとき、美咲はまだ来ていなかった。
店内に入り、席に着こうとしたその瞬間、店の窓の外に美咲の姿を見つけた。
だが。
隣には別の女性がいた。
明るい髪のショートカットの女性。
彼女は美咲に向かって何かを話している。
そして、笑いながら美咲の腕にそっと触れた。
その動作が、妙に親しげに見えた。
美咲も、それを拒む様子はなかった。
胸がざわつく。
そんなはずはない。
契約恋人なのだから、美咲が誰と会おうと、それは関係ない。
だが。
なぜか、視線が離せなかった。
笑顔で話す美咲。
親しげに距離を縮める女性。
――あの距離感は、なんだ?
美咲は誰にでもああなのか?
それとも、特別な相手なのか?
考えたくないのに、思考が勝手に巡る。
その時、ふと美咲が顔を上げた。
そして、店の中にいる志乃に気がついた。
「あ」
美咲の表情が、一瞬だけ驚きに変わる。
志乃は足早に店を出ると、美咲を無視してその場を走り去った。
何をやっているんだ。
志乃は自分自身に苛立っていた。
美咲が誰と親しくしようと、自分には関係ないはずだ。
なのに、胸の奥が妙に重い。
あの光景が頭から離れない。
――この感情は、何だ?
契約恋人であるはずの美咲が、他の誰かと仲良くしているのを見て、こんなにも動揺する理由は?
まさか、まさか、とは思う。
だけど。
もし本当に。
自分が美咲のことを「そういう目で」見始めているのだとしたら――。
この関係は、もう「契約」のままではいられない。
◇
店を離れてからも、先程の光景が頭を離れなかった。
美咲が誰とどんな関係を持っていようと、知ったことではない。
――そのはずだった。
だけど、心がざわついて仕方がない。
考えれば考えるほど、胸が重くなる。
――そんな時だった。
「志乃さん!」
後ろから名前を呼ばれた。
その声を聞いた瞬間、身体が強張る。
振り返ると、そこにいたのは美咲だった。
少し息を切らしながら、真っ直ぐこちらを見つめている。
「なんで急に帰っちゃったの?」
その問いに、志乃は何と答えればいいかわからなかった。
何か理由をつけようとしたが、適当な言葉が見つからない。
そんな志乃をじっと見つめながら、美咲はゆっくりと歩み寄ってくる。
「……あの人、気になった?」
核心を突かれた。
「……別に」
「うそ」
美咲はふっと微笑んで、少しだけ首を傾げる。
「じゃあ、どうしてそんな顔してるの?」
答えられない。
「志乃さんの気持ち、ちゃんと聞かせてほしいな」
その言葉が、胸の奥に突き刺さる。
なぜだろう。
逃げたくなった。
志乃は、握りしめた拳に力を込める。
この感情が何なのか、まだはっきりとは分からない。
やっとの思いで、言葉を絞り出す。
「……美咲は、あの人とどういう関係なの」
美咲は少し驚いたような顔をして、それから小さく笑った。
「……そっか、やっぱり気になってたんだ」
「答えて」
「うん……ただの友達だよ」
「本当に?」
「ほんと。偶然会って、ちょっと話してただけ」
美咲はいたずらっぽく笑って、すっと志乃に近づいた。
「……もし、本当に私が他の人と付き合ってたら、志乃さんはどうする?」
距離が近い。
「……関係ない」
「嘘」
美咲の指が、そっと志乃の腕に触れる。
その感触が、思った以上に熱を帯びていた。
何も言えないまま、志乃はただ美咲の瞳を見つめる。
この感情が何なのか、もう誤魔化せない。
だけど、どうしたらいいのかも分からない。
そんな志乃の迷いを見透かしたように、美咲はそっと微笑んだ。
◇
翌日。
志乃は、美咲を自分の部屋に招いていた。
昨日はあのまま美咲と別れたものの、考えすぎたせいかろくに眠れなかった。
美咲の言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
だからこそ、自分の中で整理をつけるために、美咲を部屋に呼んだのだ。
「へぇ~、志乃さんの部屋、思ったよりシンプルだね」
美咲はソファに座ると、クッションをぽすんと抱えた。
志乃の部屋は、無駄のないシンプルなデザインでまとめられている。
ベージュとダークブラウンを基調にした家具。白いカーテン。
仕事が忙しく、インテリアにこだわる暇もなかったせいか、生活感はあまりない。
「必要なものしか置いていないだけ」
「なんか志乃さんらしい」
美咲は小さく笑いながら、クッションを抱えたまま志乃を見上げる。
「それで? わざわざ部屋に呼んでくれたってことは、話したいことがあるんでしょ?」
志乃は向かいの椅子に腰掛け、深く息をつく。
逃げずに向き合うしかない。
「昨日のことだけど……」
志乃は自分でも信じられないほど素直に、言葉を紡いでいた。
「美咲が誰と会おうと、本来なら気にすることじゃない。そう思ってた」
「……うん」
「けど、実際に見たとき、腹が立った」
「腹が立った?」
「……いや、それだけじゃない。胸の奥がざわついて、どうしようもなく落ち着かなかった」
言葉にしてしまうと、あまりにも単純で、当たり前の感情だと気づく。
「私は、美咲のことを……」
一瞬、口ごもる。
美咲は何も言わず、ただじっと志乃を見つめていた。
「……本当に契約の関係だと割り切れているのか、自信がない」
「それって、どういう意味?」
問いかける声は、どこか甘かった。
志乃は、一度息を整える。
ここで誤魔化したら、もう後戻りはできない。
「私は……美咲のことを、契約相手以上に意識している」
それを認めた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
「……志乃さん」
美咲の声が、わずかに震えているように感じた。
「じゃあ、もし私が本当に他の人と付き合おうとしたら、どうする?」
志乃は答えられない。
考えたくもない。
「今、めちゃくちゃ嫌そうな顔してる」
美咲はクスリと笑った。
「もう契約なんてやめちゃえばいいんじゃない?」
「……それは」
「志乃さんが本気になってくれるなら、私だって……」
言いかけて、美咲は一瞬躊躇う。
そして、小さく息を吸い込むと――。
「私はね、最初から志乃さんのこと、好きだったんだよ?」
言葉が、胸に直接落ちてきた。
「……え?」
「最初は、契約でもいいやって思ってた。でも、一緒にいるうちに、どんどん好きになって……」
美咲の頬が、わずかに赤くなっている。
「だから、ずっと待ってたの。志乃さんが、振り向いてくれるのを」
静かな空間に、美咲の言葉だけが響く。
「私のこと、本当に好き?」
ストレートな問い。
志乃の心臓が、大きく跳ねる。
「うん」
美咲の瞳が、わずかに潤む。
「じゃあ、もう契約じゃなくて、本当の恋人になろ?」
「……うん」
志乃は軽く頷いた後、しっかりと美咲を見据え、手を固く握りながら、言った。
「好きです。私の恋人になってください」
◇
後日、二人はいつものように美咲の部屋で過ごしていた。
「そういえば、最初から私のことを好きだったと言ってたけど、あれってどういうこと?」
「……そろそろバラしてもいいかな」
美咲はいたずらっぽく笑うと、ソファのクッションを抱きしめたまま、ゆっくりと話し始めた。
「志乃さんが、私のお姉ちゃんに契約恋人の紹介を頼んだ時ね、すぐ私のことを思い出したんだって」
志乃は眉をひそめる。
「お姉ちゃんって……」
「うん、私の姉――佐藤英子」
その名前を聞いた瞬間、志乃の背筋がピンと伸びた。
「……まさか」
「そう、志乃さんの大学時代の友人で、今でも仲良くしてる英子。その妹が、私だよ」
美咲はふわりと微笑んだ。
「私ね、最初から志乃さんのこと知ってたんだ。お姉ちゃんがよく志乃さんの話をしてたの」
美咲の瞳が、そっと細められる。
「あとはね、大学の学祭で、一度だけ志乃さんを見たことがある。実行委員としてバリバリ働いてた志乃さんは、クールで、真面目で、でもちょっとだけ不器用そうで……」
記憶を思い出すように、美咲は優しく微笑んだ。
「一目惚れだった」
その告白に、志乃は言葉を失う。
「その時は私と志乃さんが会う機会はなかった。でも、最近になって志乃さんが『契約恋人』を探してるって聞いて……」
「それで英子は美咲を紹介したんだ」
「うん。でも、最初から『妹だよ』って言うと、志乃さんは遠慮しちゃうでしょ? だから、お姉ちゃんと相談して、妹だってことは伏せて、契約恋人として紹介することにしたの」
美咲はクスリと笑う。
「でもね、最初は“契約”って割り切ろうと思ったけど……やっぱり無理だった。志乃さんは、やっぱり昔のままカッコよかったし、でもちょっと不器用なところもあって……」
静かな告白だった。
「どんどん、もっと好きになった」
志乃は、それを黙って聞いていた。
心の中に、じわじわと熱が広がっていく。
「今の志乃さんは、私のことどう思ってる?」
美咲は、まっすぐ志乃を見つめていた。
それは、誤魔化しの効かない瞳だった。
志乃は、ゆっくりと息を吐き、美咲の手を握りながら言った。
「大好き」
美咲は嬉しそうに微笑むと、そっと志乃に口づけた。
契約恋人は、本物の恋に落ちる さわじり @oshiriwosawaru
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