鏡門からオオサンバシ(5)
原を抜けた私たちの行く手に幅の広い川が現れた。まだ
「主人。大丈夫だよ。僕が僕でなくなった時、真っ先に気がつくのは君だろう? その時、僕が本当は何を言おうとしているのかすら、君ならわかる
見ると、川沿いに木造の建物がずらりと並んでいた。どの建物も障子から中の暖かな明かりが漏れ出していた。
「あれは皆、船宿なんだ。そこで船を頼もうと思っているんだ。面白い船頭さんがいるから、
「どうも、こんばんは」
「あら、お珍しい。トアノさんじゃあございませんの。いらっしゃいまし」
私たちを出迎えた女性が丁寧に頭を下げた。
「おかみ、どうもご無沙汰しまして」
「本当ですよ。もう少し、お顔を見せてくださってもいいじゃありませんの。手前どもではもう皆、旅のお話が
「ええ。僕の主人と友人です」
「これはこれは。どうもいらっしゃいまし。トアノさんにはいつもご
おかみは再び頭を下げた。
キミ、随分いい所だね。昔の日本にタイムスリップしたみたいじゃないか。ほら、あそこの火鉢なんか、なかなか雰囲気があると思わないか。
「今日はこれから友人に会いに行くんです。オオサンバシまで
「かしこまりました。では早速、船頭を……」
「あ、おかみ。今日は
「え、トク……あのトクさんですか」
おかみの表情に影が差した。
「お止しになった方が……。ねえ。今日はトアノさんだけじゃないんですから。その、何か間違いでもあると……」
キミ、何か不穏な言葉が聞こえなかったか。
「大丈夫ですよ。僕はトクさんを信じていますから。ところで主人とキミは、その、泳げるかい」
「なんだい、その泳げるかい、というのは。船に乗るんだろう?」
「そうそう。でもほら、ね。いざという時のために、ね」
「いざという時?」
「嘘、嘘。冗談だよ」
キミ、
私は女中が運んできたお茶を飲んで心を落ち着かせていた。
「というわけで、おかみ。トクさんにお願いしてもらえませんか」
「いえ、その……。あ、そうですよ。ついさっき、お使いを頼みましてねえ。今、居ないんですよ。ねえ。居るものならお供をさせるんですけれど、
「おや、そうでしたか、ところで、おかみ。さっきからあそこで柱に寄りかかって居眠りしているのはトクさんじゃないんですか」
おかみはぱっと背後を振り返った。
「……あ。あら、まあまあ。ねえ……ほほ。どうなんでしょう?」
「どうなんでしょうといって、トクさんに違いありませんよ。トクさん! トクさん!」
トアノが大きな声で呼びかけると、そのトクさんなる人物が目を輝かせながら駆け寄ってきた。
「おや、おやおや。トアノさん。どうもお久しぶりです」
「お元気でしたか。ええ。ええ。それはよかった。三人でオオサンバシまで行きたいんだ。どうだろう。一緒に来てもらえるかい」
「オオサンバシ。ええ、結構ですとも。是非、お供を」
言うなりトクさんは支度にとりかかろうと、奥へ駆けだそうとした。慌てておかみがその
「ちょ、ちょっとトクさん、いけません。いけませんよ。今日はトアノさんだけじゃなくて、初めてお見えになった方々もいるんですから。何かあると……」
「まあ、まあまあ、あねさん。任せてください。大丈夫ですよ。この頃はもう腕を上げたんですから。もうひっくり返すようなことはありませんよ。やらせてくださいな」
不吉なやりとりに、私は居ても立ってもいられなくなった。
「トアノ。何か、トクさんとやらがひっくり返したとか言ってるけれど、あれだろうね、その、私たちを楽しませようという冗談なんだろうね。ね?」
「え?」
「え?」
私とトアノは顔を見合わせたまま固まった。
「じゃあ、ちょいと支度してきますから、先に船へ乗っててくださいな」
トクさんはおかみを振り切って二階へと走っていった。
「ね、おかみ。トクさんもこう言っていることだし」
私とキミは最高潮の不安でおかみの方を見た。
「ほほ……」
おかみはただ、引き
私たちはおかみと共に長い
「主人もキミも、肌寒かったら言ってね。上着を貸すからさ。さ、乗ろう。船が少し揺れるから僕が手を取るよ」
私とキミはトアノの手に体重を預けつつ、順に船へと乗った。しっかりとした船ではあったものの、乗り込む際の特徴的な揺れが足を伝い、自らが水上に居るのだという認識を鮮明に
「それじゃあ、僕も乗るよ。危ないから、二人とも座っていてね」
トアノが乗り込むと幾らか船は沈み、しばらく揺れてから水平を取り戻した。そう大きくないと思っていた船であったが、存外、広く、この後にトクさんが乗っても余裕があるようにすら思えた。
「ねえ、主人。アリスエを覚えているかい」
「アリスエ……」
聴覚から伝わったその名前が、心にほんのわずか、何かを思いださせるような
「まだ、はっきりとは思いだせない。でも、その名前。きっと、トアノやウツギと同じように」
「そう。君から生れた者さ。この先、僕たちが目指しているオールトの図書館で君を待っている」
「アリスエ、図書館」
何も繋がらなかった。
「急いで思いだそうとすることはないさ。彼女に会えば、自然、君は何かを思いだすさ」
「そうだろうか。私は創作に関わる記憶を随分と失くしている気がするんだ。早く、それを取り戻さなければならない気がする」
確かに
「焦っても仕方ないさ。君が一部の記憶を失っているのは、君自身の魂がそうする方が良いと判断したからさ。焦って記憶をこじ開けるのは、かえって危険なんだ。君は必ず、必要な記憶を、思いだすべき時に思いだす。そして、その時というのは、近いよ」
「近いって、トアノにはそれがいつだか、分かっているの」
「
トアノは船の
「そしてこれは決してキミに無関係な事じゃない。旅を続けてきたのは僕たち三人なんだ。主人に起こっていることは、キミにも起こり得る。キミがもし、夢と現実の
言葉を切ったトアノは星空を見上げた。
「そんな君たちの旅路を、
「どうも、あいすみません」
トクさんが叫びながら走ってくるのが見えた。おかみは桟橋から彼に向かって手招きを繰り返していた。
「ちょいとトクさん。お客様をお待たせして何していたんですよ」
「
「まあ」
トクさんは軽やかに船へ飛び乗ると
「トアノさん、お客様も、どうもお待たせしました。船、出しますよ。ようござんすか。そいじゃあ、あねさん。行ってきます」
「何かあったら、人を呼ぶんですよ」
「大丈夫ですよ。そら、よっと」
トクさんは勢いよく竿を張ったものの、船はびくともしなかった。
「よっ、はっ。らあらあらあ!」
「ちょっとトクさん」
張り切るトクさんの声を
「まだ
トクさんは既に肩で息をしていた。
「あ。どうもこの桟橋は重い」
「何を言っているんですよ」
おかみはあきれたようにそう言って
「はっ、よっ。ああ!」
「トクさん、なんです、今のああ、というのは」
私は思わず叫んでいた。
「竿、流しちゃいました」
キミ、どうしよう。
「主人、大丈夫だよ。安心して。もう
「ええ、そうですとも。トアノさんはよくご存じで」
「もう、トクさんが竿を流すのはなん度も見ているからね」
トクさんが
「ほらほら、主人。少しは安定してきたろう」
「そうかな。それはいいとして、トアノ。さっきからこの船、同じところをグルグル回ってないかい」
「よく気づいたね。いつものことなんだ。ねえ、トクさん」
「ええ。ええ。どういうわけか、いつでもここで三度ずつ回ることになってましてね。もう直ぐ、真っ直ぐになりますから。よっ、とう。ほらほら」
落ち着きのないトクさんの働きで、どうにか船はまともに動きだしたようであった。
しばらく進むと、行く手に大きな橋が現れた。近づくにしたがって、誰かが橋の上からこちらに向かって手を振っているのが見えた。
「おおい! トクさんじゃないのかい」
「あ、ご
「おい! トクさんひとりでかい? 大丈夫なのかい!」
「ちょっと、トアノ、トアノ。ご隠居さんとやら、あんなに
「落ち着いて、落ち着いて。どうってことないよ。ねえ、トクさん」
「ええ。どうってことないですよ。ありがたいですなあ。ちょっと
「何があったんです?」
声を裏返らせながらも、私は
「大したことはないんですけどね。この間、赤ん坊を抱いたおかみさんを川の真中で落っことしたんですよ」
「大したことありますよ」
キミ、実は私、泳ぎが苦手なんだ。
船はトクさんが
「ところでトクさん。ひとつ、お願いがあるんだ」
トアノがそう声をかけた頃には、トクさんはゼイゼイと息を切らせて艪を漕いでいた。
「へい。なんで、ございます」
「あそこへ寄ってほしいんだ」
「あそこってますと? あ、ああ。浮き島ですか。へえ。ようござんす」
ひえあ、と、トクさんは奇怪な声をあげて船の進行方向を変えた。
「ひえあ! トアノ大きく揺れた!」
「大丈夫。沈むことはないよ。多分。あ、そうだ。煙草が吸いたかったら、そこに火箱があるからね」
私とキミは船の
「こんな最中に煙草なんて吸っていられないよ。それに、こんなに揺れるのに、火なんて扱ったら危ないだろう」
「お客様。心配ありません。まだね、焼け焦がしで沈んだことはありませんから」
そう聞きながら、私は自らの座っている辺りの木がかなり広範囲に渡って焦げているのに気がついた。
キミ。キミが喫煙者かどうか知らないけれど、どうか今だけは我慢してくれよ。ほら、ここの焦げ跡なんてかなり深いよ。
「主人。船の進む先を見てごらん」
いよいよ疲れ果ててきたトクさんが鬼の形相で艪を動かすため、船の揺れは一層激しくなっていた。
キミ、酔っていないかい。
「トアノ、そうは言ってもね、こんなに揺れちゃ、よく分からないよ。それよりトクさん。少し休んではいかがです。お疲れでしょう」
「へえ。ありがとう、ございます。でもね、お客様、浮き島までは、もう少し、ですから。大丈夫ですよっと、そらそらそら、らあらあらあ」
トクさんはここが踏ん張りどころと言わんばかりに張りきったが、横揺れが一層ひどくなるばかりで、船が
「トクさん。主人もこう言っていることだし、少し休んだ方がいいよ。船がちっとも進まないじゃないか。さあ、座って」
トアノが勧めるとトクさんは崩れるようにしてしゃがみ込んだ。
「じゃあ、ちょいと失礼します」
「さあ、主人。今度はよく見えるだろう。ほら、あそこさ」
トアノの指す方、川の中程にささやかな陸地が見えた。揺れが収まってみると、辺りには水の流れる音の他には何も聞こえなかった。
「ああ、あれかい。なんだかさっき、浮き島っていう名前が聞こえたけれど、あれがそうなの」
「トクさんたちはそう呼んでいるみたいだけれど、別に固有の名前があるわけじゃない。ねえ、主人。見覚えはないかい」
「見覚え?」
「そう。この満天の銀河に
目を凝らすと、確かに見えた。
あの銀柱は! とすると、あそこは、いつもトアノと鏡門を潜るあの場所!
「トアノさん。こちらのお客様がたも、浮き島をご存知なんですか」
「ええ、よく知っています」
「そうですか。あそこは良い場所ですね。私たちもよく行くんですよ。ちょいと暑い日には
「そうなのか。だってさ、主人。なんだか僕まで鼻が高いよ」
「というと?」
トクさんがトアノに疑問の視線を向けた。
「実はね、トクさん。あの場所を創ったのは僕の主人、この人なんだ」
「え、こちらの旦那が! そうでしたか」
大層感心されて、私は戸惑った。
「いえ、その。創ったというつもりもないんですが」
「そんなことはないよ、主人。あそこは君の心そのもの。君のあらゆる創作の根幹となる最も大切な場所。そしてその場所は決して孤立した場所じゃない。この世界を流れる大河の一部なんだ」
トクさんはまだ、感心の眼差しを私に向けていた。
「まさか、浮き島を創った方にお会いできるとは。船宿の皆を代表して申し上げます。いい場所を創っていただいてありがとうございます」
トクさんは頭を下げると、再び
「よし、疲れも抜けましたから、船、着けちまいましょう」
回復したトクさんは先程までと比べて幾らか器用に船を漕ぎ始めるのであった。
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