鏡門から水晶塔(2)
「トアノ、今のは」
とある広い通りに降り立った私は、トアノに
「これが、僕の言った危機さ」
彼はすっかり
「主人も、座る?」
何が起こったのか、まるで分からなかったものの、私が感じた極寒の危険信号は魂が永遠に消滅させられるような恐怖を私に刻みつけていた。
ベンチに腰を下ろしたトアノはひとつ、息をついてからゆっくりと話し始めた。
「さて、
「あの音と光のこと?」
「いや、そうじゃない。さっき僕が大きな声を出してしまったことさ。悪かったね。でも、知っておいてほしい。ここでは、現実世界の人、広義の作家たちの意思が、世界の在り様すら変えるんだ」
まだ、身体の深くにあの音と光の刺激が残っていた私には、トアノの言葉を完全に否定することができなかった。
「例えば今、主人が心の底からの確信とともに“トアノという旅人は存在しない”と宣言すると、僕という存在は完全にこの世界から消滅してしまう。僕たち創られた者はその作者に“存在しない”と宣言された時に死ぬんだよ。物語の最後の一
私がまだ、夢に酔っていた未成熟な人間であった頃に生みだした架空の存在、トアノ。創作の中で、多くの場所を旅したトアノ。私は彼の物語を
「うん。分かったよ」
「ありがとう。主人」
彼は未だ、私のことを主人と呼んでくれていた。まだ未成熟なのであろう私には、それが嬉しく、彼のことが
「それで、さっきの音と光は」
「うん。水晶塔が激しく輝いたあの時、
「消滅? まさか私がさっき、口にした言葉で?」
いかに夢の中であろうとも、私のひと言で何らかの存在が消滅したかもしれないという事実は私を動揺させた。
「もちろん、主人が口にした言葉も積み重なれば何かを消滅させるかもしれないけど、きっと、さっきのは違うよ。作家個人の宣言はあくまでもその作家によって創られた存在に作用するだけなんだ。誰がなんと言おうと、作家によって創られた存在はその作家が否定しない限り、永久に消えることはない。その
「筈、だった?」
通りをまばらに行き交う人々は
「最近、さっきみたいな現象が増えていてね。あれは、今話したこの世界の理から外れた現象なんだ。水晶塔が輝いたあの瞬間、何処か、
「睡中都市にも作者がいるのかい」
「そうさ。でも、それは、今となっては個人というよりも、主人たちの世界に生きる全ての人たちの集合意識さ」
トアノの話は少しずつ、壮大になっていった。ただの夢にしては
「この睡中都市に生きる者たちは皆、誰かの創作によって生まれた者たちだ。でもね。僕の言う創作というのは何も執筆活動や絵を描くこと、作曲をすることばかりを指すわけじゃない。人が生きること自体が創作なんだ」
「生きること自体が、創作? なんだか信じられないな」
「そんなこともないさ。人は生きるうえで思考し、何かを願い、理想を描き、夢をみる。その結果として、自分自身や周囲の世界を創造し、住む世界を決定しているんだよ。だから、僕たちは人が生きてゆく上で行なう全てのことを広義の創作と呼んでいる。実際、ここにはそんな創作から生れた者たちもたくさんいるんだ。つまり、君たちは生きてゆく上で創作に関与しないということはあり得ないんだ」
その言葉を聞きながら、私はこれまでにどんな広義の創作をしてきたであろうかと思い返そうとしたのを、止めた。
「とあるひとつの核をもとに、大勢の作家による創作が複雑に絡まり合った世界。それがこの睡中都市なんだ。だから、君たちの世界に生きる全ての人々が睡中都市の作者だと言えるのさ。そして、その作家の手を、君も見たね」
私の
「そう。あれこそ、この睡中都市の作者だ。彼はあの瞬間、この世界の歴史、物語を書き換えた。本来の作家一個人の宣言に関係なく、群衆の総意として、何かが消去された」
「作者が、存在を認めていても、消されてしまうの」
「ああ」
ただの夢だ。必死にそう言い聞かせながらも、私は少しずつ、トアノに親愛を感じ、来たばかりの世界が失われている現状に心を痛めていた。夢に深入りし過ぎては
「これまでこんなことはなかった。それは君たちの世界に生きる人々、広義の作家たちが心の片隅では夢や創作を信じていたからだ。だからこそ、この世界が存在し、そこに僕たちが存在できた。でも今は違う。人々が夢や創作を否定し始めている。そして、間違った現実を信じているんだ」
「間違った現実って」
「それは、後で説明しよう。とにかく、間違った現実を人々が認めてしまうと、それすら創作となってこの世界に出現してしまう。その結果、さっきみたいに睡中都市が消滅してしまうんだ。そして、今、睡中都市のあちこちで次々に世界が消滅している。このままだと、睡中都市の全てが消えるのも時間の問題だろう。夢と現実は表裏一体だ。夢が消えれば、君たちの世界も間違った現実に浸食されてしまうし、君たちが間違った現実を受け入れると睡中都市は消えてしまう」
トアノの口にする現実という言葉が、私を広義の作家から成熟を望む大人へと立ち返らせた。
「しかし、トアノ。私たちは現実に生きているんだ。その私たちが、夢や創作から醒めて現実に目を向けるようになるのは仕方のないことじゃないか」
現実は甘くない、という言葉を、私はすんでのところで口にするところだった。水晶塔を見上げたが、それは
「主人。君の言う現実って何?」
「現実とは」
言葉に詰まった。現実とはなんであるか、それを説明するだけで、トアノが消えてしまうような、そんな気がした。
「主人。君たちは大きな勘違いをしている。君たちが
私の中にあった概念に、小さな亀裂が入ったような気がした。
「君たちの中にある、より苦しいものとされている偽物の現実を作家である君たちが“これが現実だ”と宣言する度に、睡中都市は削られる。そんなことを続けていると、君たちの住む世界は本当に間違った現実に書き換えられてしまう。あの巨大な手は、睡中都市にだけ作用するわけじゃないんだ。ねえ、主人。夢をみてくれ。そして、現実から目を背けないでくれ」
トアノがこれ程まで熱心に何かを語りかける人物だと、作者である筈の私も知らなかった。
「そして、君たちを間違った現実に縛り付けようとする存在もいるんだ」
トアノが呟いたその言葉が妙に気がかりだった。
「ま、今は、それは置いておこう。それよりも主人。僕たちで止めよう。睡中都市の消滅を」
トアノは勢いよくベンチから立ち上がった。
「止めるって、私たちでそんなことができるのかい」
「できる。一緒に旅をするのさ」
「旅を?」
「ああ。旅をして、
トアノは私の疑念が晴れるような笑顔を見せた。
「旅を通して、君が君自身の在り方を、実感を
私に差しだした手を、トアノは直ぐに引っ込めた。
「あ、でもその前に。僕は少し、お腹が減ったよ。旅を始めるのに空腹じゃ、困るからね。悪いけれど、少し、待っていてくれ」
そう言うとトアノは近くにあったクレセントベーカリーという看板を下げた店へと入っていった。その後姿を見送ると、私は大きく息をつき、ベンチの背もたれに身体を預け、身体中の筋肉を
これは夢だ。現実ではない。
しかし、努めて現実とこの世界との差異を知覚しようとする私の
脳内を駆け巡る膨大な情報。それを私は未だ、
「待たせてすまなかったね」
トアノが小さな紙袋を抱えて戻ってきた。
「あの店はね、クロワッサンが看板商品なんだ。でもね、僕はこの日替わりキッシュが気に入っているんだ。今日のキッシュは
「君“たち”?」
私の横には初めから一緒に居たキミが座っていた。トアノは袋からキッシュを取りだすと、私とキミへ手渡した。まだ
トアノおすすめのキッシュは口にした途端、卵の優しい風味と馬鈴薯のほろりとした食感、そして
「ところで、旅とは言うけれど、何処に行くかは決まってるの?」
「ああ。主人に縁の深い場所を巡ろうと思うんだ」
こうして、私たちの旅が幕を開けたのであった。
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