睡中都市
時津橋士
鏡門から水晶塔(1)
一
三十に手が届くという年齢に差しかかり、私は未だ、世間に順応することのできない生活を送っていた。週に数日という世の人々よりもうんと少ない日数の労働から帰宅し、シャワーを浴びてしまえば、もうすべきことは何もなかった。
忘れたいことは
なんのために生きているのだろう。
煙草の煙と共に吐きだした、あての無い問いかけは次々に姿を変え、私を
どうして私は生きているのだろう。
何を期待して私は生き続けているのだろう。
いつになったら、私は死ぬのだろう。
くだらぬと、分かってはいた。考えたところでどうにもならぬとも、分かっていた。しかし、私の身に染み込んでしまった
いつから私はこうなってしまったのだろう。
過去を見渡すと怒号と
湧きあがる自身への
私が世間の人よりも虚弱で怠慢なのか、世間が一体強すぎるのか、今もって分からなかった。私とて、人並みには苦労もしたつもりであった。我慢もしたつもりであった。成長しようという気概がなかったとも思えなかった。しかし、そんな私は今、最低限のまともにすらなれず、隙間風の入ってくる安いアパートで死が長い道程を経て訪ねてくるのを、腐敗しながら待っているのであった。
どうしてこうなったのだろう。
不随意に湧きあがる疑問に終止符を打つ言葉を知っていた。
これが現実だ。
そう。現状が世界の在り様なのだ。現実とはどうやら
私が寝床へ入ったのは東の空が明るくなり始める直前のことであった。かろうじてまだ暗い部屋の中に目を閉じていてさえ、不安は肥大していった。もしも、このまま
数刻、一向に訪れる気配のない睡魔を求め、寝返りばかりうっていた。私はふと、違和感を覚えた。自責や後悔、自己否定の渦巻く思考に、不純物を認めたのであった。思考の中にそれらの断片を
何かがおかしい。
まるで自身の思考の中に別な人間の思考が混ざっているようで気味が悪かった。やがて私はその不純物に意識を集中させている間、不快な黒い感情から解放されていることに気がついた。穏やかな入眠へ向かう手段として、私は意図的に不純物に集中した。私が不純物と称したそれは、言語化されていない、純粋な
長い時間かかってようやく、私は幾つかの概念たちに名称を与えることができた。
夢、旅、消滅、現実、浸食、水晶、創作。
ふと気がつくと私は夜空の下、湖のような広大な水面に浮かぶ、ささやかな陸地に立っていた。背の低い植物が茂る陸地の端には大きな三つの輪を貫く、銀の柱が立っていた。輪は音も無く、互い違いにゆっくりと回転していた。見上げた夜空は黒曜石のようで、そこには満天の銀河がちりばめられていた。そしてそれが
夢の中に居るという自覚はあった。しかし、心の
「やあ、主人。来てくれたんだね。ありがとう」
ふいに声をかけられ、私は振り向いた。ひとりの青年が薄いコートを羽織り、片手に小さな荷物を持っていた。彼の耳や首元には異国の風情が漂う装飾品が
「君は……」
私のことを、主人と呼んだその青年を見るのは初めての
「主人。僕だよ。トアノだ」
夏の木陰に吹く涼風のような声で、彼は名乗った。トアノ。その文字列と
「君が創った物語の上で、たくさんの場所を旅した、旅人のトアノだよ。きっと君は完全に僕のことを忘れてはいない筈。だから君はここに来られたんだ。君は僕を生んだ主人だよ」
彼の言葉に、私は忘れかけていた記憶を取り戻した。かつての私は創作に
「君だったのか、トアノ」
「ああ。思いだしてくれたかい。主人」
彼が手を差し伸べ、私はその手を取って、彼と握手を交わした。彼が見せた微笑みに、かつての私であれば、涙を流して喜んでいたであろうと考えていた。しかし、今の私には、トアノの姿を見ることが苦しかった。彼はかつての夢みがちで
「トアノ。君に会えるなんてね。流石は夢の世界だ。本当のことを言うとね、私はもう、創作とは決別していたつもりだったんだ。しかし、こんな夢をみてしまうだなんて、私はまだ創作に未練があるらしい」
「夢をみることは、いけないことかい」
トアノは寂しそうな顔で尋ねた。
「いけないってことはないんだろうけど、人はいつか、夢から醒めるものさ。いつからか私が創作をしなくなったようにね」
「ねえ、主人。僕を見てよ」
突然、トアノは大きく両腕を広げた。
「君が生んでくれたままの姿で、僕は今も存在している。作者である君が、僕を本当に消し去りたいと思ったならば、僕はここに居ない。僕たちはそういう存在なんだ。主人の中には、まだ夢みる力が残っているんだよ」
それでも
「主人。夢というのは、何も君たちの創造や睡眠の中にだけあるものじゃないんだ。夢の世界は存在している。今、君と僕がこうして話しているようにね。そしてそこでは僕たちのような創られた者と君たち作者とが接続されているんだ。夢と現実は密接な関係にある。そして、だからこそ、危険なんだ。夢の危機は、現実の危機でもある」
妙に込み入った夢であった。
「夢の危機ってなんだい」
私は半ば投げやりに、物語としての夢を前進させるべく質問した。トアノは
「今、夢の世界は消滅の危機にあるんだ。夢の世界が消えれば、現実もどうなるか分からない。ねえ、主人。君はまだ、作家だ。僕と一緒に来てくれるかい」
「一緒にって、何処に」
私が問いかけると、トアノは私の背後を指した。そちらを振り向くと、私の身の丈を優に超える程の巨大な鏡があった。
「あそこが
「睡中都市?」
「そう。僕たち創られた者の住まう場所さ。もっとも、ここも既に睡中都市の一角とも言えるわけだけれどね。まあ、そんなことよりも、今は先ず、主人に来てもらいたい」
トアノは大きな歩幅で鏡の方へと歩きだした。トアノと、彼の鏡像との距離が少しずつ、縮まっていった。
「さあ」
鏡のすぐそばでトアノは振り返り、私の方へと手を差し伸べた。まるで私を主人公にした物語のように展開される夢に苦笑しながら、私はもう少し、この妙な夢に身を
一歩ずつ、ゆっくりと巨大な鏡の方へと歩みを進めた。緩やかな風が、辺りの水面を
「行こう!」
彼は私の手を強く引っ張ると鏡の中へと踏み込んだ。錯覚ではなく、天地がぐるりと回転した。
「さあ、着いた」
トアノの声がすると同時に視界が戻った。私たちは並んで、とある都市の上空に浮遊しながら立っていた。
「ようこそ、主人。ここが僕たちの住む睡中都市だ」
眼下に展開されていたのは、その名に違わぬ、夢想的な街並みであった。洋の東西や時代の
私はただ、広大な夢の都市に圧倒されていた。
「これが、睡中都市」
「そう。君たちの創作によって生まれた都市さ。たくさんの名がある。ユートピア、ガンダーラ、マグメル、エメラルドシティ、ザナドゥ、リンボ、アトランティス、ムー、アガルタ、ジパング、空き地、楽園、街角、ネバーランド、イーハトーヴ、宝島。君たちの創ったあらゆる創作はここに集積する。そして君たちは広い意味での夢をみるという行為によって、この世界と
創作、そして夢。睡中都市の見事な景観に視界を満たしながらも、私はこれらの言葉を
理想を書き連ねた創作、夢物語に一体なんの意味があろう。現実逃避でしかない。人間は生きてゆく上で成長し、それらから解放されてゆくのだ。それこそが現実なのだ。
「主人。僕はさっき、この睡中都市が危機にあると言ったね」
「作家である君に頼みがある。睡中都市を消滅から救ってほしい」
このままこの夢の世界に浸っていれば、後戻りはできなくなる。そんな実感に、私は
「トアノ。君はそう言うけど、私にとってこの世界はやっぱり夢だよ。目が覚めたらそれまでさ。消滅の危機と言ったって、私にとって、ここは初めから存在していないも同じなんだよ。夢だの創作だの、もともと在りもしないものだよ」
創作によって生まれたという巨大都市。私が生んだ旅人トアノ。私は夢の誘惑を振り切るのに精いっぱいであった。創作も、夢も、
「ねえ主人。もしそれが、君の本音だとしたら、僕はどうしてここに居るの? 君はどうしてここに居るの? 僕たちの存在自体が、君がまだ夢に生きる作家だっていうことの証じゃないか。何より、君はそんなにも苦しそうな顔をしている。捨てることができないでいるんだろう? 夢を」
そう言って私の顔を
夢みることを諦めなくてもよいのかもしれない。
湧きあがった感情を肯定することは、現実に生きてきた私の過去を否定することに等しかった。大切な友に向けるべきでない言葉が、勝手に
「君はいいさ。最初からこんな素敵な場所に生まれたんだから。でも、私の身にもなってくれ。現実の世界で人並みにすらなれない怠惰を続けることしかできない。創作なんて、才能がなければ結局は
「止せ!」
トアノは突然、大声をあげ、
「それ以上言うな!」
トアノが私に怒号を向けた次の瞬間、異変が起こった。周囲の音が一瞬間消失し、肌寒いような感覚が駆け抜けた。思わずトアノの目線を追うと、水晶塔が黄金の輝きをまとっていた。初めは淡かった発光が急激に増し、
「なんだ、これは」
耳を
「書き換わるぞ」
トアノがそう呟いた途端、書き記す音とともに水晶塔の高音と発光が激しくなり、とうとう目を閉じていてさえ眩しい程に辺りを染めあげた。
その輝きも高音も収まった頃、私は
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