第2話「手紙」



翌朝、目を覚ますと、枕元に一通の封筒が置かれていた。


私は飛び起きた。昨夜は確かにドアをロックしたはずだ。誰が、どうやって…?


震える手で封筒を取り上げる。表には私の名前、「高森美咲」と綺麗な筆跡で書かれている。昨日のメモと同じ字だ。零からのものだ。


しかし、どうやって私の部屋に?


恐る恐る封筒を開け、中の手紙を取り出す。一枚の便箋には、同じ美しい筆跡で数行が記されていた。


「美咲さん、昨夜は楽しかった。あなたの声を聞けて嬉しかった。今日は用事があって外出します。夜になったら、またお話しましょう。——零」


私は手紙を何度も読み返した。普通の内容だ。しかし、普通ではない状況だ。


どうやって部屋に入ったのか。


私はドアを確認した。鍵はかかっている。窓も全て閉まっている。ベランダのドアも施錠されている。侵入の形跡は全くなかった。


「おかしい…」


しかし、手紙は確かにそこにある。零は私の部屋に入ったのだ。鍵を持っているのか?それとも、別の方法で?


不安と恐怖が混ざり合った感情が湧き上がってくる。しかし、それ以上に強かったのは、好奇心だった。


---


その日の午後、私は電子書籍で「壁の向こう側」を読み進めようとした。しかし、昨夜と同じく、主人公が隣室に侵入するシーンから先が表示されない。


カスタマーサポートに問い合わせたが、特に問題はないという回答だった。


「物理的な本を買ってみようかな」


私は街の大型書店に向かった。小説のコーナーを探し、ホラー小説の棚を丹念に見ていく。しかし、佐伯零の本はどこにもなかった。


店員に尋ねると、コンピュータで検索してくれた。


「佐伯零さんの『壁の向こう側』ですね。在庫はないですが、取り寄せは可能です。ただ、この本、絶版になっていて希少価値があるようです。定価の3倍ほどになりますが、よろしいですか?」


3倍?それほど入手困難なのか。


「はい、お願いします」


注文を済ませ、帰り道、私は別の本屋にも立ち寄ってみた。そこでも佐伯零の本はなかったが、文芸雑誌のバックナンバーを見つけた。3年前の号で、「消えた作家・佐伯零」という特集が組まれていた。


購入して、カフェに入り、記事を読んだ。


「佐伯零は5年前にデビューし、わずか2年で日本を代表するホラー作家に上り詰めた。しかし、最後の著書『壁の向こう側』を出版した直後、突然姿を消した。彼の作品の特徴は、日常に潜む恐怖を描き出す卓越した感性と、読者の心理を巧みに操る技術にある」


記事には、佐伯のプライベートについても触れられていた。


「佐伯零の素性は謎に包まれている。出版社のプロフィールには『30代、東京在住』としか記載がなく、インタビューも電話か文書でのみ応じていた。公の場に姿を現したことは一度もなく、顔写真も公開されていない。読者との交流も避け、サイン会なども行わなかった。」


「彼が姿を消した理由については様々な憶測がある。精神的な問題を抱えていたという説、次作のプレッシャーに耐えられなかったという説、そして……死亡説まで。しかし、彼の担当編集者は『佐伯さんは生きています。ただ、創作活動から距離を置きたいと希望されています』と語っている」


記事の最後には、佐伯零の最後のインタビューからの引用があった。


「私の頭の中で生まれた恐怖が、現実になることが怖いんです。書いているうちに、フィクションと現実の境界が曖昧になってきて…」


私は記事を読み終えると、なぜか深い悲しみを感じた。零は何と戦っているのだろう?彼の心の中では、何が起きているのだろう?


---


夕暮れ時、アパートに戻ると、廊下で初めて隣室の扉が開くのを目撃した。しかし、出てきたのは零ではなかった。黒いスーツを着た中年の男性だった。


「あ、すみません」男性は私に気づき、会釈した。「佐伯さんのマネージャーをしている者です。いつも彼がご迷惑をおかけしていないか心配で」


「いいえ、全然」私は答えた。「佐伯さんとは、壁越しに少しお話ししました。」


マネージャーは少し驚いたように見えた。


「そうですか。彼、あまり人とコミュニケーションを取らないので…特にここ数年は」


私は勇気を出して質問した。


「佐伯さんは、どうして引きこもっているんですか?」


マネージャーは少し考え、そっと答えた。


「彼は特殊な感覚を持っているんです。他人の感情や思考が、時に現実として見えてしまうことがあって。それが彼の創作の源でもあるのですが、同時に彼を苦しめてもいるんです」


「それって…霊感みたいなものですか?」


「いいえ、そういうオカルト的なものではありません。極度の共感能力と想像力が生み出す幻覚のようなものです。医学的には解離性障害の一種かもしれません」


男性は時計を見た。


「失礼します。彼に必要なものを届けただけなので」


男性は去っていった。私は呆然と立ち尽くしていた。零の秘密の一端が明かされたような気がした。


部屋に入り、扉を閉める。すぐに「壁の向こう側」を読み進めようとしたが、やはり同じ場所で表示が止まってしまう。


「もう!なんで読めないの!」


イライラして、私はタブレットを放り投げた。すると、不思議なことに画面が一瞬点滅し、次のページが表示された。


私は慌ててタブレットを手に取り、続きを読んだ。


主人公は隣室に入り、そこで見つけたのは——壁一面に描かれた自分の肖像画だった。隣人は主人公の一挙手一投足を監視し、描き続けていたのだ。


そこから物語は急展開する。主人公は恐怖に駆られて逃げ出そうとするが、扉が開かない。隣人は主人公の恐怖に満ちた表情を見て笑い、「あなたの恐怖が私の創作の源だ」と言う。


結末は、主人公が隣人に殺されるのではなく、隣人と一体化するというものだった。最後の一文は、「私は壁になった。そして壁の向こうにいる誰かを、永遠に見つめ続けることになった」で終わっていた。


私はタブレットを閉じた。背筋が寒くなった。


カサカサ。


壁からの音が始まった。時計を見ると、ちょうど11時だった。


「零さん?」


「こんばんは、美咲さん」


その声は昨日よりも鮮明に聞こえた。


「今日、あなたのマネージャーさんに会いました」


沈黙。そして、


「山本が来たんですね。何と言っていましたか?」


「あなたのことを…特殊な感覚を持っていると」


再び沈黙。長い沈黙。


「美咲さん、僕の小説を読み終わりましたか?」


「はい、今さっき」


「どう思いましたか?」


私は素直に答えた。


「怖かったです。でも、悲しくもありました。孤独を感じました」


「そうですか…」零の声は柔らかく、どこか安堵しているようだった。「多くの読者は『気持ち悪い』『サイコパスだ』と言います。あなたは違うんですね」


「あの、零さん。なぜ私に話しかけてくれたんですか?」


「あなたが特別だからです」


「特別?どういう意味ですか?」


「あなたは僕の物語を理解できる人だと思ったんです。僕が見ているものを、感じているものを」


その言葉に、私は不思議な高揚感を覚えた。特別な存在として認められた喜び。


「零さん、私にもう一度手紙を書いてくれますか?」


「はい。でも、次は美咲さんからも手紙をください」


「分かりました。どこに置けばいいですか?」


「ドアの前でいいです。僕が取りに行きますから」


会話はそのまま続いた。零は私の仕事について詳しく聞いてきた。デザインの仕事のこと、クライアントとの交渉の苦労、創作の喜び。


「美咲さんは創作者なんですね。僕と同じです」


「そうですね。でも、私のはグラフィックデザインで、あなたは文学ですけど」


「どちらも想像力を形にする仕事。僕たちは似ています」


その言葉に、私は嬉しさを感じた。しかし、同時に、少しの不安も。零が言う「似ている」とはどういう意味なのか。


深夜1時過ぎ、零は「おやすみなさい」と言って会話を終えた。


「明日も話しましょう」


私はベッドに横になりながら、零の声を思い出していた。深く、優しい声。しかし、その裏に隠された何か…孤独?恐怖?狂気?


そして、なぜ私に興味を持ったのか。なぜ私が「特別」なのか。


考えているうちに、私は眠りに落ちた。


---


翌朝、ドアの前には予告通り、零からの手紙があった。


「美咲さん、あなたともっと深く繋がりたいです。これを身につけてください。そうすれば、もっと近くに感じられるでしょう」


手紙と一緒に、小さな箱があった。開けると、シルバーのペンダントが入っていた。シンプルなデザインだが、よく見ると微細な模様が刻まれている。壁のような…いや、扉のような模様。


私はそのペンダントを首にかけた。不思議と温かく感じた。まるで生きているかのように。


そして手紙を書いた。


「零さん、素敵なプレゼントをありがとう。とても気に入りました。あなたともっとお話ししたいです。できれば、いつか会いたいです」


手紙をドアの前に置き、出勤した。


その日は普段より忙しく、仕事に集中していた。しかし、時々、首のペンダントが熱を持つのを感じた。特に、誰かと話しているときや、緊張しているときに。


夕方、同僚の田中さんが私のペンダントに気づいた。


「素敵なペンダントね。新しいの?」


「ええ、友達からのプレゼント」


田中さんはペンダントをよく見ようと近づいてきた。その瞬間、彼女が触れる直前、ペンダントが熱くなり、私は思わず手で覆った。


「あ、ごめん。見せたくないなら言ってよ」田中さんは少し拗ねたように言った。


「ごめんなさい、そういうわけじゃなくて…」


しかし、言葉を続ける前に、突然の頭痛に襲われた。視界が歪み、田中さんの顔が一瞬、別の顔に見えた。憎しみと嫉妬に満ちた顔に。


「美咲、大丈夫?顔色悪いよ」


田中さんの声が遠くに聞こえる。私は椅子に座り込み、深呼吸した。数秒後、視界が戻った。


「ごめん、ちょっと貧血かも」


「病院行った方がいいんじゃない?」


「大丈夫、もう平気」


実際、頭痛も視界の歪みも消えていた。しかし、あの一瞬見た田中さんの別の顔が、頭から離れなかった。あれは何だったのか?


---


アパートに戻ると、ドアの前に零からの返事があった。


「美咲さん、手紙ありがとう。ペンダントは気に入りましたか?それは特別なものです。僕の一部です。」


「僕の一部」?どういう意味だろう?


「今夜、特別なことをしましょう。11時に、ペンダントを持って壁に触れてください。僕たちはもっと近づけるでしょう」


私は時間までソワソワしていた。シャワーを浴び、髪を乾かし、化粧もしなおした。まるでデートの準備をするように。


時計が11時を指した。


カサカサ。いつもの音。


私はペンダントを握りしめ、壁に近づいた。


「零さん?」


「美咲さん、ペンダントを壁に当ててください」


私はそうした。


途端、壁が温かくなった。生きているかのように脈打っている。


そして、信じられないことが起きた。


壁が薄く、透明になったのだ。向こう側が見える。


そこには零がいた。


黒い髪の青年。細身で、背が高い。顔立ちは整っているが、どこか憔悴している。彼も壁に手を当てていた。そして、彼の首には、私と同じペンダントが。


「美咲さん、見えますか?」


「はい…零さん…」


彼は微笑んだ。その笑顔は美しかったが、どこか悲しげだった。


「これが僕です。こうして初めて会えました」


「どうして…こんなことが…」


「ペンダントのおかげです。僕の能力の一部を込めました」


「能力?」


「僕には、時々壁が透けて見える能力があるんです。そして、時々、人の心の壁も」


零は目を閉じた。


「美咲さん、あなたの心の中が見えます。孤独、不安、そして好奇心。あなたは僕の物語に引き寄せられました。なぜなら、あなたも同じものを求めているから」


私は動揺した。自分の心を読まれている感覚。しかし、不思議と恐怖よりも、解放感のようなものを感じた。


「零さん、私にもあなたが見えています。あなたの孤独が」


零は目を開け、驚いたように私を見た。


「僕の…孤独が?」


「はい。だから小説を書くのをやめたんですね。現実と想像の境界がなくなって、怖くなった」


零の表情が変わった。驚きと、何か別の感情。恐れ?


「美咲さん、あなたは本当に特別です。あなたなら、僕を救えるかもしれない」


「救う?どういう意味ですか?」


零は答えようとしたが、その時、壁が再び不透明になり始めた。


「時間切れです」零の声が遠くなる。「明日また。そして…注意してください」


「何に注意するの?」


「ペンダントです。それは僕の一部ですが、制御できないことも…」


零の声と姿が完全に消えた。壁は元通りになり、冷たくなった。


私はペンダントを握りしめた。それは今も温かかった。


零の言葉の意味は何だろう?「僕の一部」「制御できない」とは?


そして、田中さんの顔が変わって見えたあの瞬間。あれは幻覚だったのか、それとも別の何かだったのか。


私は眠れなかった。頭の中は零のことでいっぱいだった。彼の秘密、彼の能力、そして彼が私に求めている「救い」とは何なのか。


明日、彼に会えるのを楽しみに思いながらも、同時に恐れていた。なぜなら、私は本能的に感じていた。


これから先に待っているのは、想像を絶する何かだということを。


(第2話 終)

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