『隣の部屋のアナタ』

ソコニ

第1話「引っ越し」



壁の向こうから、またあの音が聞こえる。


カサカサ。カサカサ。


まるで誰かが壁紙をなぞっているような、小さくて不規則な音だ。もう三日目。いつも決まって夜の11時過ぎから始まり、深夜1時頃まで続く。


「気のせいよ、きっと」


そう言い聞かせながら、私——高森美咲は布団に潜り込んだ。しかし、暗闇の中で耳を澄ませば、あの音は確かに聞こえる。隣室から。


引っ越してきて一週間。この「ビレッジハイツ」という古びたアパートは、築30年を超えているらしい。家賃が安いのは、そのせいだろう。都心から少し離れた閑静な住宅街。デザイナーとして働き始めたばかりの私には、ちょうど良かった。


カサカサ。


音は続いている。隣室に住んでいるのは、男性らしい。管理人の篠田さんからそう聞いた。だが、一度も姿を見たことはない。郵便受けに名前があるだけ。


「佐伯 零(さえき れい)」


珍しい名前だと思った。そして何故か、その名前を見た瞬間から、私は彼に興味を持ってしまった。


カササ。


音が一瞬止まり、また始まる。私は思わず息を飲んだ。まるで、私が聞いていることを察したかのように。


---


朝。目覚ましよりも早く目が覚めた。時計を見ると5時30分。外はまだ暗い。


昨夜の音が気になって、ろくに眠れなかった。枕元のスマホを手に取り、「壁から聞こえる音」で検索する。配管の音、虫の音、隣人の生活音……どれも当てはまらない気がした。


シャワーを浴び、化粧をし、出勤の準備を整える。鏡に映る自分の顔は、やはり疲れていた。藍色のワンピースに白いカーディガンを羽織り、長い黒髪をゆるくまとめる。


「よし」


扉を開けると、隣室の扉も同時に開いた気がした。しかし、廊下に出ても誰もいない。ただ、かすかに香水の匂いが漂っていた。シトラスの爽やかな中に、何か甘い香り。男性用の香水だろうか。


エレベーターに乗り込み、1階のボタンを押す。閉まりかけたドアが、突然開いた。誰かが乗り込んでくる。だが、目の前には誰もいない。ドアは再び閉まり、エレベーターは下降し始めた。


背中に冷たい感覚が走る。私はエレベーターの隅に寄り、スマホを握りしめた。目の前の鏡に映る自分の姿だけが、異様に鮮明に見える。


1階に着き、扉が開く。私は急いで外に出た。


その日は通常のルーティンワークで、特に変わったことはなかった。デザイン事務所での仕事は忙しく、隣室のことを考える暇もなかった。


帰りの電車の中で、ふと思い出した。ネットで調べてみよう。佐伯零という名前で。


スマホを取り出し、検索する。


驚いたことに、ヒットした。


「小説家・佐伯零、新作発表から姿を消す」


3年前の記事だった。写真はぼかされていて顔はよく見えないが、スリムな体型の若い男性のようだ。


記事によると、佐伯零は新進気鋭のホラー小説家だったが、最後の作品「壁の向こう側」を発表した後、公の場から姿を消したという。彼の作品は心理的恐怖を描いたものが多く、熱狂的なファンがいるとのこと。


私はすぐに電子書籍ストアで「壁の向こう側」を購入した。


---


アパートに戻ると、廊下は暗かった。センサーライトが点いていない。管理人に言わなければ。


鍵を取り出し、扉に差し込む。そのとき、隣室の扉が少し開いた気がした。


私は息を止めて、じっと見つめる。しかし、扉は閉まったままだ。目の錯覚だったのだろうか。


部屋に入り、扉を閉める。ため息をつきながら、靴を脱ぎ、バッグを置く。


シャワーを浴び、パジャマに着替え、ベッドに横たわる。購入した「壁の向こう側」を読み始めた。


物語は、主人公の女性が古いアパートに引っ越してきて、隣室から聞こえる奇妙な音に悩まされるというものだった。


私は読みながら、背筋が凍る思いがした。あまりにも状況が似ている。


主人公は次第に隣室への好奇心を抑えられなくなり、ある日、隣室に侵入する。そこで見つけたのは——


「カサカサ」


突然、現実の壁から音がした。


私は思わず電子書籍を閉じた。時計を見ると、11時ちょうど。


カサカサ。カサカサ。


今日は少し違う。まるで、壁に耳を当てているような気配がする。聞いてくるような。


心臓が早鐘を打つ。息が詰まりそうになる。しかし、同時に奇妙な高揚感も感じた。


思わず、壁に向かって声をかけていた。


「こんばんは」


途端に、音が止まった。


そして——


「こんばんは、高森さん」


低く、しかし明瞭な男性の声が、壁を通して聞こえた。


私の名前を、彼は知っていた。


私は震える手で再び壁に触れた。冷たくはないが、どこか生命感のない質感。そして、その向こうに確かに誰かがいる。


「佐伯さん、ですか?」


しばらく沈黙があった後、再び声が返ってきた。


「そう、佐伯です。零と呼んでください」


声は柔らかく、少し寂しげだった。


「あの、私、あなたの本を読んでいます。『壁の向こう側』を」


また沈黙。長い沈黙。


「そうですか」


ただそれだけ。


私は勇気を出して、もう一度話しかけた。


「お会いできませんか?」


今度は返事がなかった。どれだけ待っても、声は返ってこなかった。そして、カサカサという音も止まった。


---


次の日は土曜日。仕事はなく、一日中部屋にいた。しかし、昼間、隣室からは一切音がしなかった。


零は外出しているのだろうか。それとも、昨夜のことが夢だったのか。


夕方、買い物に出かけた帰り、管理人の篠田さんに会った。


「あの、篠田さん、隣の佐伯さんってどんな方ですか?」


篠田さんは眉をひそめた。


「佐伯さん?ああ、206号室の。あまりお会いしたことないんですよ。夜行性みたいで。家賃はきちんと振り込まれるし、苦情もないから、こちらも特に……」


「そうですか。引っ越してきて一度も会ってなくて」


篠田さんは少し考えるような表情をした後、言った。


「そういえば、佐伯さんは宅配も受け取らないんですよ。いつも不在票が入って、再配達か営業所止めになってる。ちょっと変わった方かもしれませんね」


帰り道、私は考えていた。零はなぜ人と会わないのだろう。そして、なぜ私に話しかけたのだろう。


部屋に戻ると、ドアの前に一枚の紙が落ちていた。折り畳まれた白い紙。


開くと、美しい筆跡で一行だけ書かれていた。


「今夜も話しましょう。——零」


私は紙を胸に抱きしめた。心臓が早く鳴っている。恐怖だろうか。それとも期待だろうか。


晩御飯を終え、シャワーを浴び、11時になるのを待った。


そして、時計が11時を指した瞬間。


カサカサ。


私は即座に壁に近づいた。


「零さん?」


「こんばんは、美咲さん」


今日の声は昨日よりも近く感じた。まるで壁一枚を隔てて、すぐそばにいるように。


「昨日は急に話せなくなってごめんなさい」


「大丈夫です。私こそ、突然話しかけて」


「『壁の向こう側』は読み終わりましたか?」


私は正直に答えた。


「いいえ、まだです。ちょっと怖くて」


男の柔らかい笑い声が聞こえた。


「そうですか。確かに、怖い話ですよね」


「あの、零さん、どうして小説を書くのをやめたんですか?」


長い沈黙。そして、


「書けなくなったんです。想像と現実の境界が、わからなくなって」


その言葉に、私は不思議な共感を覚えた。デザインの仕事でも、時々そんな感覚になることがある。


「理解できます。でも、もったいないです。あなたの文章、すごく引き込まれます」


「ありがとう。それを聞いて嬉しいです」


そこから会話は続いた。好きな音楽、映画、食べ物。普通の話題だった。まるで古い友人との会話のように、自然に言葉が流れた。


深夜1時を過ぎたころ、零が言った。


「もう遅いから、寝ましょう。また明日」


「はい、おやすみなさい」


私がベッドに戻り、電気を消したとき、壁を通して聞こえてきた。


「美咲さん、あなたに会いたいです。でも、まだ時間が必要です。待ってもらえますか?」


その声は、どこか切なげだった。


「はい、待ちます」


私はそう答えた。しかし、心の奥底では不安も感じていた。なぜ零は姿を見せないのか。そして、なぜ私なのか。


眠りにつく前、私は「壁の向こう側」を再び開いた。主人公が隣室に侵入するシーンを読もうとしたが、不思議なことに、その部分が表示されない。電子書籍のエラーだろうか。


目を閉じると、零の声が耳に残っていた。


そして、私は知らなかった。


明日、全てが変わることを。


(第1話 終)

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