雨やどり

宙灯花

1 急変

 ほんの気軽な山歩きのはずだった。

 天気予報はもちろん確認したし、ガイドブックやネットでどういう山なのかを十分に把握したつもりでいた。それなのに。

 気づけば雨が降っていた。いや、降っているなんて生易しいものではない。滝つぼに立っているような気分だった。まいったな、と呟いて、田原たはら慎司しんじは息をついた。

 強い雨に打たれた帽子が頭を押さえつけてくる。脱いだら脱いだで前髪からひっきりなしに水滴が垂れ落ちてきて、鼻の奥まで水の匂いが入り込んできた。濡れた服が体に張りついて動きづらい。靴の中にも水が溜まっている。しかも、まだ本格的な冬ではないはずなのに、凍えるような寒さが染みてきた。体力は容赦なく奪われていった。

 三十歳が目前に迫った慎司は、交際中の森本もりもと美里みさととの結婚をようやく決意した。美里は父方の親戚筋だが血縁はない。

 一人きりの気ままな山遊びも今後はあまりできなくなるだろう。そう考えて、思いつくままに山に入った。

 さほど高い山ではない。トレーナーにジーンズ姿の観光客がのんびりとハイキングを楽しむような所だ。そこに気の緩みがあったのかもしれない。状況の変化への対応を誤った。

 自分がどこにいるのか分からない。視界が悪い中、雨を凌げる場所はないかと慌てて探し回ったのがよくなかった。なんとも初歩的な失態だ。なお悪いことに、スマホの地図も現在地を教えてはくれなかった。GPSが機能していないのだ。厚い雨雲のせいだろうか。

 こんなことなら、美里が垂れ流すどうでもいい話を聞いているフリをしながら読書でもしていた方がよかった。

 ねえ、聞いてよ。美里は拗ねる。聞いてるよ、と答えながらも慎司の目は文字を追っている。肩を揺すられ本を取り上げられて。二人は頬を寄せて微笑み、口づけてソファーに倒れ込む。そして。

 でももう遅い。

 現在位置が分からないなら、その場に留まって雨がましになるのを待つべきだったのかもしれない。そうすれば多少は視界が回復することが期待できるし、GPSの電波が回復する可能性もある。

 だが、つまらないミスをしてしまったという焦りが、更に慎司の足を動かした。そして、地面がよく見えていないのにやみくもに歩き回ったせいで崖を踏み外した。際限なく滑り落ちていく。

 落ち葉の堆積した手つかずの斜面には枯れた木の枝や岩がゴロゴロと転がっていて、容赦なく慎司を傷つけた。打ち所が悪かったのか、意識が遠のいた。

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