第5.0章:水面に揺れる新しい影
私の毎日は、先輩が駅のホームで背中を向けて去った日から、
色褪せたように感じていた。
私は福原彩花、「ふく」と呼ばれている。
部室の埃っぽい机の間を抜ける風が、
水槽のぶくぶくという音に混ざり、
静かすぎる響きを残していた。
アベニーパファーの親子やなんちゃんがぷかぷか泳ぐ姿を見つめても、
心が浮かばず、
「可愛いね…」と呟く声が小さく掠れた。
頭に浮かぶのは、海月先輩の金髪と赤いピアスだ。
その輝きが、部室の水槽に映る夕陽のように鮮やかで、
思い出すたび胸が締め付けられた。
「先輩、いなくなっちゃった…」と呟いても、
フグたちは答えを返さない。
なんちゃんの黄色と黒のストライプが揺れるたび、
あの「水槽を速攻で立ち上げる裏技」を教えてくれた日の楽しさが、
涙と一緒ににじんでくる。
部室の空気が重く感じられ、
埃っぽい机の表面を指でなぞると、
冷たい感触が心の隙間を埋めるようだった。
でも、立ち止まってられない。
先輩が「ふくなら頑張れるよ」と言ってくれた言葉が、
胸の奥で静かに響いている。
アベニちゃんやなんちゃんのためにも、
私がアクア部を続けるんだ。
そう決めた次の日、
いてもたってもいられず、
いつものアクアショップに足を運んだ。
埃っぽい部室から抜け出した瞬間、
風が頬を撫で、
少しだけ心が軽くなった気がした。
アクアショップに着くと、
入り口のドアがカランと鳴り、
水槽のぶくぶく音が耳に飛び込んできた。
魚たちの泳ぐ影がガラスに揺れ、
胸がふわっと興奮でいっぱいになる。
棚から漂う水草の湿った匂いが鼻をくすぐり、
なんだか新しい未来の香りがした。
隣の水槽で、赤い尾びれがチラッと揺れた。
目を凝らすと、そこにいた。
赤い目をした赤い尾びれの淡水フグ
——レッドテールアカメフグ。
その赤い尾びれが、先輩のピアスと同じクリムゾンレッドを帯び、
フグがくるっと回転するたび、
ふわっと揺れる姿に胸が詰まるような切なさが広がった。
高校生になって、こんな風に何かに夢中になるなんて、
子供の頃を思い出すようだった。
「この子…先輩みたい…」と呟いた瞬間、
涙がにじみそうになり、
慌てて目を擦った。
「絶対飼う!」
勢いよくそう叫んで、
店員さんを呼びに行った。
頭の中で何かが弾け、
初めて見たあの赤いピアスに惹かれた日から、
先輩と過ごした時間がぐるぐる回った。
「この子となら、先輩の分まで一緒に頑張れる!」と
決意が胸を熱くした。
店員さんがニコッと笑って、
「ペアにも出来るよ、どうする?」と聞いてきた。
「絶対ペア買う!」と力んで答えた。
「この子がオス、こっちがメスだよ。
模様で見分けられるからね」と教えてくれた。
オスは赤い目と鮮やかな赤い尾びれがカッコよく、
メスは丸っこくて少し地味だけど愛らしかった。
先輩が残してくれた空いた水槽に、
2匹が泳ぐイメージが頭に浮かび、
胸が期待で高鳴った。
部室に戻ると、
埃っぽい机の上にバケツを置き、
先輩の水槽に水を注いだ。
底砂を敷き、流木をそっと沈める。
アベニーパファーの水槽からバクテリア付きのろ過材を少し拝借し、
「先輩の裏技だよ!」と呟きながら準備した。
水合わせを丁寧に済ませ、
そっと2匹を放すと、
レッドテールアカメフグが仲良く泳ぎ始めた。
「アカメちゃん、よろしくね!
そうだ、先輩の苗字をとってオスは海、メスは月だね!」と、
ぎゅっと拳を握って呟いた。
赤い尾びれが水槽の中で揺れ、
先輩がそばで応援してくれているみたいだった。
「先輩、見ててね。
私、絶対に失敗しないから…!」と心の中で叫んだ。
最初は順調だった。
冷凍アカムシをあげると、
海が尾びれをピシッと振ってパクパク食べる。
「先輩みたいにカッコいいね!」と
胸が詰まるような喜びが広がった。
月がのんびり泳ぎながら少し遅れて食べる姿に、
「お前、癒し系だよ!」と話しかけた。
「あまり人を怖がらないね、
食べっぷりもすごい!」と
毎日水槽に顔をくっつけて見ていた。
水質チェックも欠かさず、
pH7.0、アンモニア値も問題なし。
「私、アクアリストとして成長したよね!」と
自画自賛していた。
アカメフグは人懐っこくて、
私が指を近づけるとスーッと寄ってくる。
「ええっ! ついてくるの!?」と驚いた。
指の先にアカムシをつけて近づけたら、
海がパクッと食べて、
「うそ! 手からも食べるの!?
やばい、めっちゃすごい!」と声を上げた。
月も少し遅れて寄ってきて、
「海も月も本当に可愛いよ!
癒される~!」と大喜びだった。
アベニーパファーの親子やなんちゃんとはまた違った魅力があって、
「フグってほんと面白い!」と
毎日テンションが上がった。
2ヶ月くらい経ったある日、
アカメフグの様子が変わってきた。
海の体が全体的に赤くなってきて、
私は水槽に顔を近づけた瞬間、
息を呑んで立ち止まった。
「ええっ! 何!?」と声が飛び出し、
目を丸くして見つめた。
いつもより濃厚な赤が体を染め、
水槽の光に映えてまるで赤いドレスの裾のような深紅を湛えていた。
尾びれが動くたび、
渋い赤が水面に広がり、
心が震えた。
「赤い…綺麗すぎる!」と呟きが漏れ、
思わず手をガラスに押し当てた。
ネットで調べると、
「繁殖期になるとオスが赤くなるのが特徴のレッドテールアカメフグ」と書いてあった。
「アカメちゃん、繁殖期だ!」と
胸がドキドキした。
それから数日経ち、
海の赤さが一段と鮮やかさを増した頃、
私は水槽を覗いてその動きに気づいた。
海が月を勢いよく追いかけ、
水草のミクロソリウムの根っこに滑り込むように入り込み、
月の腹を力強く押すように動き始めた。
すると、突然数百個の小さな卵がふわっと広がった。
「うそ! 卵!?
こんなにたくさん!?
すごいよ、アカメちゃん!」と声を上げた。
「先輩、見ててくれるかな!」と
胸が詰まるような喜びが広がった。
先輩に電話をかけて、
「海月先輩!
レッドテールアカメフグが卵産んだよ!
数百個だよ!」と興奮して報告すると、
「まあな、すごいな。
でもレッドテールは難しいぞ。
頑張れるか、ふく」と
懐かしい気だるさのある声が返ってきた。
「ええっ! 難しいの!?」と焦ったけど、
「先輩が応援してくれるなら頑張れるよ!」と笑った。
電話を切って、
卵を隔離ネットに移し、
水温を28℃に設定した。
アベニーのときみたいに上手くやるぞと決意し、
毎日仔魚の動きをメモしながら観察した。
3日目、
ネットの中で小さな点が動いているのを見て、
「孵った!
アカメの赤ちゃん!
小さすぎ!」と声を上げ、
その小ささに思わず息を呑んだ。
ブラインシュリンプを少しずつ与え、
「大きくなってね…」と祈りながら水換えした。
でも、1週間ほど経つと、
赤ちゃんが次々と動かなくなり、
「え、うそ…」と呟いた。
最後の一匹が水槽の底に沈むのを見て、
「アカメの赤ちゃん…死んじゃった…」と
部室の床に崩れ落ちた。
「私が殺しちゃったの!?」と叫びながら
嗚咽が止まらず、
悔しさと悲しさが胸を締め付けた。
初めて「命を預かる」ことがこんなに難しいと実感した。
でも、ふと、先輩の
「お前ならやれるよ」と、いう言葉が頭をよぎり、
涙を拭った。
「次は絶対に成功させるからね」と
心の中で呟き、
決意を新たに隔離ネットを握り直した。
アカメフグの月と海は元気に泳いでいるけど、
赤ちゃんが全滅したショックで、
「私、先輩みたいにうまくできないよ…」と呟いた。
寂しくて先輩に電話をかけた。
「先輩、アカメちゃんの赤ちゃん、全滅しちゃった…」と
泣き声で言うと、
「まあ、そうなることもあるさ。
お前頑張ったんだろ。
次はうまくいくよ」と
優しく、でも気だるい声が聞こえた。
「失敗してもいい。
そこから何かを掴めばさ」と
ポツリ呟いた先輩の声に、
かつての自分を重ね合わせたような強さを感じ、
胸が締め付けられた。
それから半月ほど経ったある日、
アカメの海と月がまた動き出した。
海が月を追いかけ、
ミクロソリウムの根っこで同じように産卵が始まり、
「本当に!?
また産んだ!?」と驚いた。
数百個の卵がミクロソリウムの根にびっしりくっつき、
「アカメちゃん、すごい!
今度こそだよ!」と
胸が詰まるような期待が広がった。
でも、前回の全滅が頭をよぎり、
「また死んじゃったら…」と
胸が苦しくなった。
反射的にスマホを手に取り、
先輩に電話をかけようとしたけど、
指が止まった。
「いつも先輩に頼ってばかりじゃ…
どうしたらいいんだろう?」と呟き、
ぐっと我慢して目を閉じた。
他に方法は?
何かあるはずだ——
頭をフル回転させ、
ふと先輩の言葉を思い出した。
「ショップに繁殖知ってるやついたはずだ」って。
自分でそこに行けばいいじゃないか。
「そうだ、ショップだ!」と
身が引き締まるような決意が広がり、
スマホを握り潰すように力を込めた。
次の日、
アクアショップに駆けつけた。
ドアがカランと鳴り、
店長さんがカウンターから顔を上げた。
「店長さん、レッドテールアカメフグが卵産んだんですけど、
前回は失敗して…
フグの赤ちゃん全滅しちゃって…」と
泣きそうに言うと、
「レッドテールアカメフグは繁殖難しいからね。
実は、このアカメフグを繁殖させた常連さんがいるんだ。
海月から連絡があったみたいで、
店に顔を出すって言ってたから、会って聞いてみたら?」と笑った。
「ええっ! 誰!?」と驚いたら、
「ちょっと待っててね。
連絡してみるよ」とウィンクされた。
私はどんな人かなと想像しながら、
胸をドキドキさせて頷いた。
店長さんが戻ってきて、
「今日来てくれるって」と告げた。
私はショップの隅で そわそわしながら、
その人を待った。
やがて、ドアがカランと鳴り、
パーカーのフードをかぶった子が入ってきた。
店長の前で何か話している。
背中からミステリアスな雰囲気が漂っていて、
足音がカツカツ響くたび緊張した。
「あの…」と声をかけたら、
振り返って、
「君がレッドテールの?」と短く言われた。
フードの下から覗く目が鋭くて、
ちょっとビクッとした。
フードが少しずれて、
長い髪が肩に流れ落ちるのが見えた——
女性だと気づいて、
なぜか少し安心した。
「はい。私、福原彩花です!」と
上ずった声で言うと、
店長が
「この子がレッドテールを繁殖させたんだ。
凜って言うんだよ。
たぶん同じ学校の生徒だよ。
彼女、フグの繁殖に関しては本当にすごいんだから」と
紹介してくれた。
「ええっ! 凜さん!?
アカメちゃん育てたの!?
同じ学校!?」と勢いよく言ったら、
「まあ」と淡々と頷かれた。
「信じられない! すごい!
凜さん、アクア部には入らないの!?」と
驚きと期待が入り混じった声で聞いてみた。
「昔は、アクア部にいたけどな…
今は入る気はない。
フグが好きだから、手伝うだけだ」と
凜さんがキッパリ言った。
私は、
「えっ!手伝ってくれるの!?
それだけでも、すごいよ!
私、絶対にアカメの赤ちゃんを守れるように頑張るから!
凜さん、よろしくね!」と目を輝かせた。
凜さんがフードの下で一瞬、目を伏せた。
「…昔のことは、もういい」と小さく呟いた。
その声に、どこか遠い響きがあって、
胸がざわついた。
「昔って…?何があったの?」と聞きたくなったけど、
凜さんの鋭い目がチラッとこっちを見て、
「明日、部室で待ってろ。私がやる」と淡々と言われた。
「う、うん…分かった!」と
少しがっかりしたけど、
「でも、凜さんがやってくれるなら安心だよ!」と笑った。
「じゃあ、部室で待ってるね!」と約束して、
帰り道で
「アカメちゃん、今度こそだよ!」と呟いた。
決意が胸の中でぎゅっと固まった。
歩きながら、
ふと凜さんのさっきの呟きが頭に浮かんだ。
「昔のことは、もういい」——
その言葉の裏に、何か重い影が隠れている気がして、
なぜか先輩の赤いピアスがチラッと脳裏をかすめた。
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