第4.0章:最後の約束

なんちゃん――南米淡水フグの歯切りを

自分でやってのけた日から、

毎日はもっと楽しくなるはずだった。

私は福原彩花。「ふく」と呼ばれている。

埃っぽい部室に差し込む夕陽が、

水槽のガラスに淡く反射し、

アベニーパファーやなんちゃんが泳ぐ姿を照らしていた。

ぶくぶくという水音が部屋中に心地よく響き、

心が浮き立つような喜びを感じていた。

だが、先輩が「実はさ、引っ越すんだ」と告げた日から、

心のどこかに重い影が落ちていた。


先輩がいなくなるなんて信じられず、

気だるそうな声や口元の緩んだ笑顔が

頭から離れなかった。

胸が締め付けられるようだった。

水槽の前でぼんやりと立っていると、

先輩の声が耳に蘇る。

「焦るなって」と気だるそうに呟くその声が、

まるで部室の埃っぽい空気に溶け込むように響き、

心の奥をざわつかせた。

あの声が、もうここで聞けなくなるなんて。

想像するだけで息が浅くなり、手が冷たくなるようだった。


それでも先輩は、「最後まで教えてやるよ」と

笑ってくれた。

その笑顔には、どこか寂しさが滲んでいる気がして、

胸が締め付けられた。

私は「うん、頑張るよ」と決意を口にしたが、

心の中では「先輩がいない部室なんて考えられない」と

呟いていた。


引っ越すまでの数日間、

先輩は約束通りに毎日、部室に来て、

さまざまなことを教えてくれた。

フィルターの掃除では、

「ろ過材を水道水で洗うな。

バクテリアが死んでしまうぞ」と厳しく言われ、

埃っぽい机の上に並べられた道具を手に持つたび、

手が震えた。

「病気が出たら、まずは水質を疑え。

アンモニアや亜硝酸が少しでも出たら、

すぐに水換えだ」と

メモを取る私の横で、先輩が淡々と説明した。

その声に滲む優しさが、胸の奥を締め付けた。


「先輩、こんなにたくさん覚えられないです」と

弱音を吐くと、

「焦るな。メモを取っておけば、なんとかなる」と

気だるそうに返された。

だが、その言葉にはいつもと同じく温かみが感じられ、

心が軽くなった。

そこには、私がまだ知らない先輩の過去や

覚悟が隠れているような気がしてならなかった。


水槽の中でアベニーパファーが泳ぐ姿を見つめながら、

「先輩のおかげでみんな元気だよ」と言うと、

「まあ、お前がちゃんとやってるからな」と

淡々と返された。

その声に滲む優しさが感じられ、胸が温かくなる。

けど、心のどこかで

「あと何回、この笑顔を見られるのだろう」と考えるたび、

胸が締め付けられた。

部室の埃っぽい空気が重く感じられ、

まるで時間が止まったような錯覚を覚えた。


引っ越しの前日、

先輩が「ふく、今日は水族館に行くか」と誘ってくれた。

「水族館? 行くよ!」と即答したが、

胸の奥に寂しさが広がり、素直に喜べなかった。

だって、明日で先輩がいなくなるのだ。

部室を出て、学校の門をくぐると、

夕陽が校舎の屋根に淡く反射していた。


駅に向かう道すがら、

冷たい風が頬を刺し、

足元の落ち葉がカサカサと音を立てた。

いつも先輩と並んで歩いていた道が、

今日はどこか遠く感じられた。


「先輩、今日はずっと楽しそうにしていてくださいね」と

言うと、

「お前こそ、最後まで楽しそうにしていろよ」と

気だるそうに微笑んで返す。

その声に滲む優しさが、また胸の奥を締め付けた。


駅のホームに立つ先輩の背中を見つめながら、

「もう隣に並べないのかな」と寂しさがこみ上げ、

手が冷たくなった。


その気持ちを誤魔化すように、

「珍しいフグ、見られるかな」と呟くと、

「まあ、いるかもな。

あそこの水族館、たまに変なのを入れるから」と

先輩は楽しそうに答えた。


明日には本当に引っ越してしまうなんて信じられず、

「今日を最高の日にしよう」と心に決めた。

でも、先輩の背中を見つめるたび、

どうしようもない寂しさで、息苦しくなる。


水族館に着くと、

大きな水槽がずらっと並び、

入口の巨大な水槽にカラフルな海水魚が

キラキラ泳いでいた。

「先輩、見てください。すごいです!」と

目を輝かせると、

「おお、派手だな。あ、フグ」と先輩が指差した。

小さなフグが泳いでいて、

「可愛い!」と、勢いよく水槽に駆け寄った。

「このフグはキンチャクフグの仲間だな」と

先輩が淡々と説明しながら、

ちょっと得意げに肩をすくめた。


「やっぱふくはフグだな」と先輩が続けて言った。

その声に漂うユーモアが感じられ、

「もう、そうやっていつもバカにするんですもん」と

少しふくれっ面をして見せた。

すると、

「おお、顔までフグみたいだぞ」とさらにからかわれ、

「もう、先輩ってば!」と、ムッとした顔で睨んだ。


通路を抜けて、小さな水槽が並ぶエリアに着くと、

色とりどりのいろんな魚が泳いでいて、

先輩の引っ越しのことを一瞬、

忘れるほどに惹き付けられた。

高校生になって、こんな風に何かに夢中になるなんて、

懐かしい気持ちがした。


ふと、薄暗いコーナーの水槽に、

見たことのないフグが泳いでいるのが目に入った。

6~8cmほどの丸い体に、

虎のような模様があり、

真っ赤なお腹が目を引いた。

水草の陰からこちらをじっと見つめ、

神秘的でミステリアスだった。

まるで虎に睨まれているようで、

「可愛い」というより「かっこいい」と興奮した。


「先輩、これフグですよね。すごいです!」と声を上げると、

先輩がゆっくり近づいてきて、一目見て驚きの声を上げる。

「サリバトール?。

このフグはボルネオ島サラワクの固有種で、

何十年も入荷していないレア種のはず・・・」と

一瞬言葉を切り、眉を寄せた。


「サリバトール? 先輩、すごいです。

一目で分かるんですか?」

先輩の目が微かに揺れたが、

すぐに気だるそうな笑みを浮かべた。

「まあ、長年アクアをやってりゃな。

虎の模様と赤い目が特徴だろ」と気だるそうに言い、

肩をすくめた。

その一瞬の揺れは、

まるで水槽の水面に落ちた一滴の波紋のようだったが、

すぐに消え去り、先輩はいつもの態度に戻った。

私は「かっこいいです。めっちゃ可愛いです!」と

水槽に顔をくっつけてじーっと見つめた。

水草の間をゆったり泳ぐサリバトールが

目を光らせている姿に、心から感動した。

けど先輩の横顔を見た瞬間、

なぜか一瞬だけ胸がざわついた気がした。


「ふく、お前、このフグを飼いたいんだろ?」と

先輩に図星をつかれ、

「飼いたいです!」と即答した。

水槽のガラスに映る自分の顔は満面の笑みだったけど、

「今日が先輩との最後の日なんだ」と思ったら、

笑顔が消えて、涙が出そうになる。

少し気持ちを落ち着けようと深呼吸して、

「ねえ、先輩、このサリバトールって

どうやって水族館に来たんですか?」と

わざと明るい声で尋ねた。


先輩は、「水族館のスタッフに聞いたほうが早いだろ」と

近くのスタッフに声をかけた。

「すみません、このフグはどうやって入荷したのですか?」

「これはサリバトールという淡水フグで、

寄贈されたものですよ」と、優しく教えてくれた。

「寄贈? 誰が?」と、私がすかさず聞いたけど、

「個人情報なのでお答えできないんです」と、

申し訳なさそうに断られてしまった。


私は肩を落とし、

サリバトールの虎のような模様を見つめた。

先輩をチラッと見ると、

彼は水槽の前で立ち尽くしていた。

気だるそうな表情はいつも通りなのに、

その視線は微かに揺れ、

赤いピアスが水槽の光を小さく反射していた。

「寄贈か…」と先輩が低く掠れた声で呟き、

一瞬遠くを見てから、視線を私に戻した。

「珍しいフグだからな。写真でも撮っとけよ」と

気だるそうに肩をすくめたけど、

その言葉には、何か引っかかる響きがあった。

私は首をかしげて先輩を見つめるたけど、

先輩は黙って水槽のガラスに映る影を見つめていた。


「私もいつか、こんなフグを飼いたいな」と

私は目を輝かせた。

「先輩。私、先輩と一緒に撮りたいです」と、

照れながらも思い切って言ってみたら、

「まあ、いいか。最後だしな」と、先輩は苦笑して、

私の隣に立ってくれた。


「すごいです。私と先輩の思い出です!」と、自撮りした。

撮れた写真を見ると、

私と先輩の間に映ったサリバトールの赤い目が、

すごく綺麗だった。

「先輩、これを見れば、私を思い出しますよね?」

と、祈るような気持ちで聞くと、

「ああ、思い出すよ。

お前がアベニーを育てられるようになったの、

俺、ちょっと嬉しいよ。

お前こそ、離れても忘れるなよ」と、先輩。

その声に滲む優しさがひしひしと感じられ、

「私、先輩のこと、絶対に忘れません」と

力強く返しつつも、涙がこぼれそうだった。


水族館を出て、外の空気を吸いながら先輩と歩いた。

夕暮れの空がオレンジ色に染まり、

冷たい風が頬を刺し、

寂しい気持ちがどんどん広がっていった。

「サリバトールみたいな希少種は入手が難しいぞ。

管理は簡単だが、入荷はもう10年以上ないんだ」と

先輩が話し始めた。

「でも、かっこいいですよね」と、諦めきれずに私は続ける。

「ああ。だが、手に入れるのは本当に大変だぞ」と、

冷静に返されたが、

「私、いつか絶対、手に入れたいです!」と決意を込めて答えた。

さらに少し考えてから、

「ねえ、先輩、もしどこにもいないなら、

私、ボルネオ島まで採りに行きますよ!」と

勢いで言ってしまった。


その瞬間、自分の「好き」を

どこまで追求できるか考えると、

胸が期待で満たされた。

でもその期待の裏に、

先輩がいなくなるという現実が重くのしかかって、

心の奥が締め付けられた。

「お前なら本当に行っちまうかもな」と、笑って返されたけど…

その声はいつも通り、優しかった。

「私、先輩と一緒に採りに行きたいです」と、

照れながらも本心が溢れ出た。

口に出した瞬間、顔が熱くなり、

「私、何言ってるんだろう?」と、我ながら笑ってしまった。

けど、心の中では

「先輩がいなくなっても、この約束を胸に刻んでおきたい」と

強く思っていた。


「ふく、お前ほんと面白いな」と、

驚きと呆れが入り混じった声で言われたけど、

「ねえ、先輩、本気ですよ。

一緒に行きましょうよ!」と、目を輝かせて詰め寄った。

すると、先輩が少し真剣な顔になり、

「まあ、わかったよ。

お前なら絶対できるって信じてるからな。

その時はついていってやるよ」と、返してくれた。

口調はいつものように気だるげだったけど

その目が一瞬、真剣になったように見えた。

私は先輩のその言葉を、胸の奥に深く刻んだ。


「絶対に? 先輩、約束ですよ!」と声を上げた瞬間、

胸が決意で満たされた。

でも、その喜びの裏に、

先輩との別れの時間が迫っている現実が重くのしかかる。


先輩は、「ああ、ふくと俺との夢だからな。

絶対に忘れない。約束だ」と気だるい口調のままだったけど、

あんな真剣な先輩の眼差しを初めて見た気がした。

「うん、絶対ですよ。

先輩と一緒なら、どこにだって行けますよ」と

胸の中が喜びで満たされて、

その約束は心の奥にはっきりと刻まれた。

心の中では、

「先輩がいなくなっても、この約束を果たすことで、

先輩の存在をずっと感じていたい」と、反芻していた。


駅までの短い道を先輩の横に並んで歩いた。

夕方の風は冷たく、

「明日から先輩がいないんだ」と思うと、

寂しさで胸が埋め尽くされた。

これから、アベニちゃんが泳ぐ姿を見るたび、

「先輩の『焦るなって』を思い出しちゃうんだろうな」と考えたら、

涙が溢れ出てしまいそうだった。


駅に着き、先輩が

「じゃあな、ふく。ここでさよならだ」と

口元を緩めて言った。

「え、もう!?」

呟いた途端に、堪えていた涙がぽろぽろとこぼれた。

「行かないで」と叫びたかったが、

喉が詰まり、先輩の背中を見つめることしかできなかった。


「ふくなら頑張れるよ。

お前が泣くと、俺まで困るからな」と

肩をポンっと叩き、

「約束したろ?最後まで楽しそうにしていろよ」と、苦笑いした。

「ありがとう…」と、絞り出すような声でやっと言ったけど、

先輩の背中が駅の反対側に遠ざかって行くのを見ていると、

手がどんどん冷たくなって、呼吸が浅くなるのを感じた。


駅のホームに響く電車の音が、

先輩との時間を切り裂くようで、

耳がキーンとした。

先輩の背中はどんどん小さくなって…。

遠くで金髪が夕陽に揺れ、

赤いピアスが最後にキラッと光った。


あの日、夕陽に映えるその姿に初めて目を奪われ、

胸が期待で高鳴った瞬間が頭をよぎった。

もう二度と見られないなんて信じられず、

溢れ出た涙は、もう止まらなかった。


あの気だるそうな先輩の声や、

水槽を眺める綺麗な横顔は

もうないんだと気づき、

心が引き裂かれるようだった。

先輩の背中が小さくなり、見えなくなっても、

私は動けず、ただその場に立ち尽くしていた。


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