第15話
ふわ、と髪を優しく撫でられる感触がした。
思わずユラは半分夢の中に漂いながら、微笑んでしまった。
そっと額にキスをくれる。
……シザはいつもそうだ。
しばらく幸せな気配に浸り、ふっとそれが遠ざかった気がして、ユラは目を覚ます。
「……?」
自分の周りを見て、広げられた楽譜が幾つもそのままになっていて、そうだった昨日はシザさんが遅かったから、夜中までついピアノを弾き続けてしまったんだと思い出す。
それからまるで寝る前に読む絵本のように楽譜を見ながら、もしかしたらシザが帰って来るかもしれないと思いながらウトウトしていたら、そのまま寝てしまったのだ。
ほとんどシザとは一緒に眠るけど、シザが仕事で遅くなる時は、ユラが先に眠っているとシザは起こさないように気を遣って、自分の部屋で眠ることがある。
ユラはおや? と思った。今しがたシザの気配を感じた気がするのに。
もしかしたら帰れなかったのかなと携帯を見ると、特に何にも入っていない。
ユラはベッドからゆっくり降りると、窓辺に飾られた鳥籠を覗き込んだ。
二羽の鳥が仲良くくっついて、止まり木で休んでいた。
おはようと優しい声をそっと掛けると、目を擦りながら寝室を出る。
今日は【グレーター・アルテミス】の首都ギルガメシュは穏やかな朝のようだ。
自分の寝室を出て、軽く階段を二メートルほど上がった所にあるシザの寝室に行こうとしたところ、ふとユラは気付いた。
「?」
階段を上るのをやめて、リビングの方に向かった。
すぐに、ソファにシザが毛布に包まって眠ってるのが分かって、なんでリビングで寝てるんだろうとくすくす、小さく笑いながら近づき、シザの怪我に気付いた。
ユラの見てる方からは分かりにくかったが、反対側の頬と、額に手当の痕があり、それだけじゃない。表面に見えるところの傷だけでも、肩や腕に包帯が見える。
一番酷いのは手で、左右どちらも、包帯で厚く巻かれ、包帯に血が染みてるのも見えた。
「!」
ユラはすぐ不安な表情になり、駆け寄った。
危ない仕事じゃないって聞いたのに。
ただシザは危ない仕事に向かう時ほど、ユラを不安にさせないように「大丈夫だ」と言ったりはする青年だったから、やっぱり何かとても大変な仕事だったんだと思い、詳細を聞きたくてシザさん、と彼を起こそうとした。
「シ……、」
「…………ん……」
ユラが起こそうとして寄せた手の平の気配を感じたのか、シザが身じろぎ、手に頬を寄せて来るような仕草を見せた。
一瞬ひどく彼の身を案じたユラだったが、ふと、深く寝入っているシザが、いつになく額を無防備に晒して、思い切り遊び疲れた子供みたいな顔で寝ていることに気付き、側にしゃがみ込み、まじまじとつい見てしまった。
(……どうしたのかな。でも……何でだろう? 悪いことがあった感じがしない。可愛い寝顔だなあ)
兄のシザは起きていれば非常に凛とした表情で、周囲に抜かりなく注意を払っている隙の無い人なのだが、目を閉じると鮮烈で厳格なその雰囲気が緩んで、彼の持つ造作の綺麗さがより際立って見える。
例えば、髪と同じ色の長い睫毛だとか、良血を思わせる鼻梁、優し気な雰囲気がする、唇も。
この唇がいつもキスをくれるんだなぁ……などと考えて、朝から何を考えてるんだ僕はとユラは慌てて首を振った。
深く目を閉じて寝入っているシザを起こしたくなくて、まだ眠らせてあげたくなり、そっと立ち上がった時、全くそれまで気付かなかった、少し離れた所にある窓辺のソファに寝ている人に気付いた。
「……ライルさん?」
ユラは恐る恐る近づいて行く。
やはりライル・ガードナーだ。
【
シザは昨夜、ライルに会う予定があると言っていたので多分会ったんだろうけど、不思議なことにそこにいるライルも、仔細は違ってもほぼシザと同じような怪我をしていて、相棒でもある二人だから、何かとてつもないものとでも力を合わせて戦ったんだろうか、と素直なユラ・エンデはそれくらいしか想像が出来なかった。
だがライルも過酷な任務を完了したというよりは、こっちも遊び疲れたように仰向けにクッションに埋もれ、見たことのない、額を晒したひどく気持ち良さそうな寝顔で眠っている。
シザがこの人を家に連れて来るのは初めてだなあと新鮮に思う。
毛布がほぼ床に落ちていたので、拾ってそっとライルの身体に掛けた時、手を突然掴まれた。
一瞬ユラの両肩が驚いて跳ねたが、目を覚ましたライルは「ん?」とすぐにユラに気付いた。
「……ユラ君じゃん。おはよー」
「おはようございます……」
「ごめん。今完全に寝ぼけた」
ライルはユラの手を放して、どわああああっとライオンみたいな大欠伸をしている。
彼は寝そべった体勢のまま、上の方を見た。
「シザ大先生は?」
「まだ寝てるみたいです……あの、ライルさん」
「喉乾いたー」
「あ、はい。今持ってきますね」
ぱたぱたと幼い足音を聞かせてユラが遠ざかって行くのを、ライルは再び目を閉じたまま唇だけで微笑って聞いていた。
すぐにユラがミネラルウォーターのペットボトルを二本持って、戻って来た。
一つはシザの方のテーブルに置き、もう一つを持って来る。
「ライルさん、お水です」
「ん? ああ……ありがと」
少しだけ身を起こして水を飲むと、満足したようにライルはまたぼふ! とソファのクッションに頭部を埋めた。
彼は目の上なども切っていて、相当な手当の痕があった。
「お二人とも昨夜何時に戻られたんですか?」
なんだかまだまだ寝足りない感じだ。
「ん~~~~六時くらいだったかな……」
まだ二時間ほど前のことだ。
ユラは驚く。
「そうだったんですか」
「ほんっと疲れた~~~~~~。」
「本当に、お疲れさまです……」
何があったかは知らないけど、きっと大変なことだと思ってユラは声を掛ける。
しかしライルは目を閉じたまま、笑みを浮かべた。
「でも最高に楽しかった」
ユラはきょとんと目を瞬かせる。
「……楽しかったんですか?」
ユラが想像したのはまた何か突然出現した巨獣との激しい戦いのようなものだったから、小首を傾げる。
でも確かにシザはそんな突発的な事故ではなく「後日にしてもいい話だ」というようなことを言っていた。
それを今のライルの言葉に照らし合わせると、さほど恐ろしい仕事だったというわけではなかったのだろうか?
それにしては、怪我が凄すぎるとは思うのだが……。
「うん。楽しかった。
俺【グレーター・アルテミス】に来てから昨日が一番楽しかったかもー」
ライルがいつもの口調でそんな風に言うので、目を瞬かせていたユラがふ、と微笑む。
仕事の相棒であるライルがそんなに楽しかったなら、シザもきっと楽しかったのかな……とそんな風に思ったのだ。
目を閉じていたライルが瞳を開き、側でくす、と微笑っているユラの鼻をいつぞやのように摘まんだ。
「……なーに笑ってんの。」
まだ朝の支度を整えてない、彼の髪は少し寝癖がついていて、いつもよりフワフワしていた。
背後から射し込む朝の光に淡く輝いて、眠かったライルの目には少し、眩しい。
たんぽぽみたい。
「いえ……シザさんも楽しかったのかなぁと思って……」
「あんたってシザが楽しいだけで嬉しそうな顔すんだね」
呆れたようにライルは言った。
「シザさんが楽しそうなのは、……僕はとても嬉しいです」
微笑んでいる。
――なんか信じられねえな。
ライルはユラの顔を眺める。
この気の優しい大人しい青年を、虐待して悦ぶような人間がこの世にいるとは。
眠たい頭でぼんやりとそんなことを思った。
殴り合いながら、確か今日のテーマはそんなことじゃなかったと思うのだが、やはり感じたのはそんなことだった。
シザからの、この青年への想い。
胸に引っ掛かった棘は、息をするだけで軽く抜けた。
やっぱり思いっきり殴り合って良かったのだと気分よく、そう思う。
「……ごめん……ホントにまだ全然ねむい……。
そこのカーテン閉めてもらってもいい? まぶし……」
「あ、はい。分かりました」
ユラが立ち上がり、静かにカーテンを閉めた。
眩しい朝の光が隠れてくれる。
優しい暗がりになった。
おやすみなさい。
柔らかい声が耳に届く。
「……ユラ君さぁ…………」
「――はい?」
去ろうとした所を呼ばれて振り返る。
ライル・ガードナーは目を閉じて、ほぼ寝ていた。
「ユラ君も見に来ればよかったのに。そうしたら俺のカッコよさ…………あんたにも……」
最後の方は全く聞き取れなかった。
ユラは小さく、小首を傾げた。
シザは深く寝入ってるようだ。
彼の寝顔を優しく見下ろすと起こさないように、彼がいつもユラにしてくれるのを真似して、そっと髪を撫で、額のあたりに唇を寄せる。
――おやすみなさい、シザさん。
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