第4話
家に戻ると「お帰りなさい」とユラが嬉しそうに出迎えてくれて、シザはすぐにささくれ立っていた気持ちがたちまちに落ち着いた。
そう。彼は結局この世で何が起ころうと、ユラがいてくれればあとは何でもいいのである。
ただいま、と笑顔になり両腕でユラを抱きしめる。
「ユラ、今日のことですが」
「はい」
抱きしめた弟の体をそのまま抱き上げリビングに入って行き、ソファに一緒に座った。
「今日は少し遅くに用事が出来てしまって。一度家に戻ってから出ますけど、気にしないで貴方は先に寝て下さい」
「? パトロールですか?」
時折【アポクリファ・リーグ】とは関わりなく、【
「いえ、パトロールとは違うんですが……。ちょっと後輩の面倒な用事に付き合うことになって」
ああ、とユラは安心したようだ。
「ライルさんと一緒なんですね。分かりました」
「そんなに遠くには行かないので、心配しないで。何かあったら連絡をください」
「はい。わかりました」
シザは時計を見る。
「まだ少し時間ありますね。ピアノ、聞かせてくれますか?」
ユラのアメシストの瞳が輝く。
「はい!」
ユラは近々【グレーター・アルテミス】で公演を予定している。
これには、ユラの釈放の為に動いてくれた、ノグラント連邦共和国の学生たちを呼ぼうと企画しているのだ。
トリエンテ王国の名門音楽学院出身のユラは、連邦捜査局に軟禁されていた時、音楽界の繋がりで、ノグラント首都にある大学の管弦楽サークルなどが主体となって、ユラの解放を国に訴えてくれたことを教えてもらった。
【グレーター・アルテミス】に戻り、元気でまた音楽活動を出来ていることを少しでもその人たちに知らせたいと彼は考えている。
【バビロニアチャンネル】の協力もあり、一部ノグラント方面にも配信は出来そうなのだ。
マネージャーのグレアム・ラインハートは打ち合わせの為に、今はノグラントの方に行っている。
今は公演で弾くのをどの曲にしようか、ユラが選んでるところだ。
「いつかまた、オケとも弾けたら嬉しいです」
一曲弾き終わると、ユラは言った。
「【グレーター・アルテミス】にもプロのオーケストラは幾つもあります。出来ますよ」
「本当ですか?」
「勿論ですよ。ユラはオケと弾くの好きですよね」
「たくさんの音に包み込まれてる感じが、一人で弾くより安心するんです。勿論迷惑かけちゃダメだと思って緊張もするけど、一緒に一つの曲を多くの人と弾けるのは嬉しい」
ユラは、ピアノは幼い頃から弾いて来ていたが、誰かと音楽の喜びを分かち合っては来れなかった。
孤独を知っているのだ。
実際、ユラ・エンデはコンサートで一人で弾いても素晴らしい奏者だが、
オーケストラと弾く時の彼は、特に美しくシザには見える。
コンクールやコンサートを知る彼のファンも、そんな風に言う人間達は多かった。
完全に音楽の中に包まれていて、
安堵を覚え、没頭出来ている感じだ。
恐れなく音楽の世界に飛び込んで、正面から挑んでいく。
――どんな難曲も厭わない。
ユラの才能が最大限に引き出されて、音楽の神に愛された器なのだと、オーケストラと共に奏でている彼を見るたびにシザは一層深い敬愛の念を覚える。
普段あどけなくて温和な彼が毅然とし、大人びて、触れ難いほど気高い雰囲気と、旋律の覇気を纏っていく姿は、圧巻だ。
オーケストラで数多の音楽家と共にいてなお、目を奪うあの存在感は。
まさしく彼が鎖に繋がれた時に、共に音楽を奏でたことのある、良識と善意ある音楽家達が自らを省みず「才能を潰すな!」と怒りの声を上げてくれた理由もきっとそこにある。
ユラは音楽活動の再開においては、彼らの感謝からしっかりと始めたいと望んでいるようだったから、シザも力になれることは力になって、再開への協力をしてやりたいと思っていた。
だがまだ、世情は火が付いたアポクリファ特別措置法廃案運動に、世界中がざわめいている。
しばらくはユラも【グレーター・アルテミス】での活動に限定した方がいいという判断になっていた。
ユラの側に行って、後ろからそっと抱きしめる。
「早速近日中に【グレーター・アルテミス】のオーケストラを調べてみます。
折角だから彼らの演奏を見に行きますか? 公演日も調べてチケットを取ります。
どうせ一緒に弾くなら、貴方に選んでもらった方がいいし……。
面白いプログラムがあったらユラと見たかったから、一時【グレーター・アルテミス】中のコンサートホールは調べたことあるんですよ。
僕はあまり玄人ではないですけど、全体的には【グレーター・アルテミス】のオーケストラはレベルは高いと思います。
ユラもきっと気に入るものがあると思う」
わぁ、とユラは嬉しそうな溜息を零した。
「ありがとうございます、シザさん。とても楽しみです」
ユラが振り返って、抱きしめて来てくれる。
嬉しそうな顔が可愛くてシザは目を細めたが、そうだった二十三時に生意気な後輩をぶん殴りに行かなくてはならなかったんだと、本当に忘れかけた自分に笑ってしまった。
鉄拳制裁はネチネチとやったって意味がない。
後輩への教育的指導は的確に、なるべく一撃必殺で決めるのが望ましい。
「……今日は、あんまり優しい気持ちにさせないでください」
微笑いながらシザはユラに口づけた。
人を殴れなくなってしまいますから。
◇ ◇ ◇
――これが【アポクリファ・リーグ】始まって以来の、前代未聞の事件の発端である。
全てが終わった後、当事者のシザ・ファルネジアとライル・ガードナーは、
同じことを言って笑ってしまった。
『何がきっかけでこうなったか、全く覚えてない』。
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