第七章 二つの道が交わる

 京都での出会いから半年が過ぎ、啓介と蓉子の交流は深まっていった。彼は東京に来るたびに創作教室に参加し、時には二人で食事をすることもあった。啓介は大学で教鞭を取りながら、アジアの市場文化についての本を執筆中だった。


 蓉子の三十四歳の誕生日。啓介は電話をかけてきた。


「お誕生日おめでとう」彼の落ち着いた声が聞こえた。


「ありがとう」蓉子は微笑んだ。


「今週末、時間はある?」啓介が尋ねた。「鎌倉に行かないか?」


 蓉子は少し驚いた。これまで二人は東京で会うことが多かった。「いいわね」彼女は答えた。「鎌倉は好きな場所なの」


 週末、二人は鎌倉の海を眺めていた。冬の海は荒々しく、灰色の波が砂浜に打ち寄せていた。冷たい潮風が頬を撫でていく。


「蓉子さん」と啓介は初めて彼女の名を呼んだ。「一緒に生きていきませんか」


 唐突な言葉に、蓉子は戸惑った。


「突然すぎて……」彼女は言葉に詰まった。


「急かすつもりはない」啓介は海を見つめながら言った。「ただ、あなたとこれからも一緒にいたいと思って」


 蓉子は複雑な思いに襲われた。彼女は啓介に特別な感情を抱いていた。しかし、それは典型的な恋愛感情とは違うものだった。もっと深い、魂のレベルでの共鳴。それでも、「結婚」という言葉に彼女はまだ躊躇いを感じていた。


「私、結婚や家族について、まだ……」蓉子は正直に答えた。


 啓介は頷いた。「本当に急かすつもりはありません。ただ、あなたと同じ方向を見ていたいだけです」


 蓉子は、彼の言葉の重みを感じた。それは所有ではなく、共にある在り方を示していた。啓介は彼女のキャリアや創作を尊重し、その上で人生を共有したいと言っていた。


「考えさせてください」と蓉子は答えた。


 その日の夕方、二人は長谷寺を訪れた。冬の夕暮れ時、観光客もまばらな境内を歩きながら、蓉子は心の中で啓介の言葉を反芻していた。


 彼女はこれまで、「結婚」を自分のアイデンティティや自由を脅かすものとして恐れていた部分があった。しかし啓介との関係は、そうした恐れを和らげるものだった。彼は彼女の内側にある創作への情熱を理解し、尊重していた。


 啓介が持つ世界への眼差しも、蓉子を惹きつけた。彼は日常の中に隠れた美や意味を見出す能力を持っていた。それは蓉子自身が創作を通じて追求していたものと重なっていた。


「啓介さん」蓉子は帰りの電車の中で言った。「もう少し時間をください。でも……あなたとこれからも一緒にいたいと思っています」


 啓介は優しく彼女の手を握った。それ以上の言葉は必要なかった。


---


 春になり、蓉子は啓介と一緒にタイを訪れた。彼の研究に同行するという名目だったが、二人の気持ちは日々深まっていった。


 チェンマイの古い市場で、蓉子は啓介が現地の人々と交流する姿を見ていた。彼は流暢なタイ語で話し、時折笑いが起きる。言葉がわからなくても、そこにある人間的な温かさは伝わってきた。


 夕暮れの市場で、蓉子は啓介に言った。


「一緒に歩いていきましょう」


 それが彼女の答えだった。啓介は黙って頷き、彼女の手を取った。


 タイでの二週間は、蓉子にとって特別な時間となった。啓介の研究に同行しながら、彼女は多くの人々と出会い、彼らの物語に触れた。それらはすべて、彼女の創作の糧となった。


 帰国後、二人は同居を始めた。啓介のアパートは大学に近く、広々としていたため、蓉子は自分のアパートを引き払い、そこに移ることにした。引っ越しの際、何年も開けていなかった段ボール箱を整理していると、古い日記や初期の習作が出てきた。


「なつかしい」蓉子はそれらを手に取りながら呟いた。


 啓介は彼女の肩に手を置いた。「過去の自分と今の自分をつなぐものですね」


 蓉子は頷いた。彼女の中には常に「書く少女」がいた。その本質は変わらないまま、彼女は成長してきたのだ。


 同居生活は、蓉子が思っていたよりもずっと自然なものだった。二人はそれぞれの仕事を持ちながらも、互いの時間を尊重した。朝は一緒にコーヒーを飲み、晩は互いの一日について語り合う。創作と研究という異なる分野で活動しながらも、二人の間には深い共感があった。


 啓介が研究のために海外に行く時は、蓉子もできる限り同行した。彼女はそこで見たものや感じたものを、小説やエッセイに織り込んでいった。彼女の文章は以前よりも広がりを持ち、より多様な人間模様を描くようになっていた。


 三十五歳の冬、蓉子と啓介は静かな挙式を行った。親しい友人や家族、創作教室の参加者たちが見守る中、二人は誓いを交わした。


「自分の道を見つけ、それでも一緒に歩む」という二人の誓いは、参列した友人たちの心に深く響いた。


 結婚後も、蓉子は作家として、啓介は研究者として、それぞれの道を歩み続けた。しかし夜、同じ屋根の下で過ごす時間には、言葉にならない豊かさがあった。


 ある朝、蓉子は微かな体の変化に気づいた。数日前から感じていた倦怠感、そして今朝の吐き気。彼女は薬局に行き、妊娠検査薬を買った。


 結果を見た時、彼女の胸に広がったのは驚きと、予想外の喜びだった。彼女と啓介は子供について特に話し合ったことはなかった。自然に任せようという暗黙の了解があったのだ。


「啓介さん」と蓉子は朝食の席で静かに告げた。「私たち、新しい家族を迎えることになりそうです」


 啓介の瞳に浮かぶ喜びを見て、蓉子は心の奥から湧き上がる感情に驚いた。これまで感じたことのない、命の鼓動を感じる瞬間だった。

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