第六章 予期せぬ来訪者
蓉子が三十三歳を迎えた秋、彼女のアンソロジー「それぞれの人生、それぞれの物語」は静かな反響を呼び、各地の書店でトークイベントが組まれるようになっていた。大きな反響とは言えなかったが、読んだ人の心に確かに届く本だと評判になっていた。
京都での講演会。蓉子は古都の趣ある小さな書店で、二十人ほどの読者を前に自分の創作について語っていた。質疑応答の時間になり、一人の男性が静かに立ち上がった。
「有村さんの『帰り道』に描かれた市場の風景が、私の故郷にそっくりで驚きました」
その男性は三十代後半、知的な雰囲気を漂わせていた。黒縁の眼鏡と、少し長めの髪が印象的だった。
「どちらがご出身ですか?」蓉子は興味を持って尋ねた。
「生まれは広島ですが」男性は少し照れたように微笑んだ。「学生時代に東南アジアで暮らしていたんです。そこで見た夕暮れの市場の風景が、有村さんの描写とそっくりで」
講演会の後、その男性――里見啓介という文化人類学者――と蓉子は京都の古い喫茶店で話し込むことになった。店内は大正時代の雰囲気を残す落ち着いた内装で、時間がゆっくりと流れているように感じられた。
「学生時代に東南アジアで暮らしていたんです」と啓介は語った。「タイ北部の小さな村で二年間、現地調査をしていました」
「どんな研究を?」蓉子は純粋な好奇心から尋ねた。
「伝統的な市場文化です」啓介は目を輝かせながら説明した。「特に夕暮れ時の市場には、その土地の文化が凝縮されているんです。人々の交流、商品の並べ方、値段の交渉の仕方……すべてがその社会の縮図なんです」
蓉子は興味深く聞き入った。彼女自身、市場の風景を小説に描いたのは直感的なものだったが、啓介の言葉を聞くと、その象徴性がより明確に理解できた。
「行ったことのない場所なのに、それは不思議ですね」と蓉子。
「でも、不思議じゃないかもしれません」啓介は静かに言った。「人間の根本的な経験には、文化や場所を超えた共通性があると思うんです。有村さんは直感的にそれを捉えられた」
二人は言葉を超えた理解について語り合った。創作と研究という異なるアプローチから、彼らは人間の経験の普遍性について探求していた。
別れ際、啓介は蓉子に一枚の写真を渡した。
「これが私の見た市場です」
それは夕暮れ時の市場の風景を捉えた写真だった。オレンジ色に染まる空の下、色とりどりの商品が並び、人々が行き交う様子。それは確かに、蓉子が小説で描いた風景とよく似ていた。
「ありがとうございます」蓉子は写真を大切そうに受け取った。「とても美しい」
「またお会いできますか?」啓介は少し遠慮がちに尋ねた。「東京にも時々行くので」
「ぜひ」蓉子は微笑んだ。「その時は創作教室にも来てください」
京都の駅で別れる時、二人はお互いの連絡先を交換した。単なる偶然の出会いを超えた何かを、蓉子は感じていた。
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東京に戻った蓉子は、ふとした瞬間に啓介のことを思い出すようになった。彼から送られてきたメールには、世界各地の市場の写真が添付されていた。カンボジアの水上マーケット、モロッコのスパイス市場、メキシコの民芸品市場……
「言葉にならない何かを伝えたくて」という彼のメッセージに、蓉子は心動かされた。写真には確かに言葉以上のものが宿っていた。光の具合、人々の表情、商品の色彩……それらは地域や文化を超えた人間の営みの美しさを伝えていた。
蓉子は返信メールで、自分の新しい小説の構想について触れた。それは異なる文化圏にある三つの市場を舞台にした物語で、それぞれの市場で出会う人々の交流を描いたものだった。
冬が深まる頃、啓介は突然、蓉子の創作教室に現れた。
「東京に仕事で来たんです。参加させてもらえませんか」彼は少し緊張した様子で尋ねた。
「もちろん」蓉子は嬉しそうに答えた。
その日の題材は「見知らぬ土地での発見」。参加者たちはそれぞれの旅の経験や、異文化との出会いについて書いた。啓介の書いた文章には、言葉の向こう側にある世界への渇望が滲んでいた。
「私は言葉を集める旅人だ」と彼は書き始めた。「しかし、最も心に残るのは、言葉にならない瞬間だった。夕暮れのメコン川、星空の下のサハラ砂漠、雨上がりのアンデス山脈……それらの風景は、言葉を超えた何かを私に語りかけた」
授業の後、二人は雪の降る街を歩いた。白い息を吐きながら、蓉子と啓介は互いの創作について語り合った。
「有村さんの物語には、言葉にならない静けさがあります」啓介は真摯な眼差しで言った。
蓉子は微笑んだ。「里見さんの写真にも、同じものを感じます」
二人の間に流れる静かな理解。それは恋とも友情とも違う、もっと深いものだった。共通の感性を持つ者同士の、魂のレベルでの共鳴。
その夜、蓉子はアパートに戻ると、啓介の写真を眺めながら新しい物語の一節を書いた。
「彼女は見知らぬ市場に立っていた。言葉は通じないのに、なぜか懐かしさを覚える場所。それは彼女が生まれる前から知っていた風景のようだった……」
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