第五章 原点回帰
三十一歳になった蓉子は、『内なる旅路』の成功後も変わらぬ日常を送っていた。創作教室は週に二回に増え、新しい小説の構想も少しずつ形になりつつあった。彼女の生活には、かつてないほどの充実感があった。
ある朝、蓉子が朝食を取りながらメールをチェックしていると、一通の英文メールが目に留まった。差出人は「Berlin Publishing House」となっていた。メールを開くと、そこには彼女の『内なる旅路』のドイツ語版出版についての問い合わせだった。
「まさか……」
蓉子は驚きのあまり、手にしていたコーヒーカップを取り落としそうになった。海外出版の可能性など、彼女は考えたこともなかった。
その日の夕方、創作教室の参加者だった年配の女性、七瀬が嬉しいニュースを持ってきた。
「先生、私の回顧録を出版することになりました」七瀬は照れくさそうに報告した。「小さな出版社ですが……」
「素晴らしい! おめでとうございます」蓉子は心から喜びを表した。
「先生のおかげです」七瀬は感謝の言葉を述べた。
蓉子はそれを否定した。
「いいえ、あなた自身の物語だから価値があるんです」
このような瞬間に、蓉子は自分が正しい道を歩んでいると実感した。彼女が創作教室で目指していたのは、人々が自分自身の声を見つけ、それを表現する手助けをすることだった。七瀬の成功は、その目標が実現した証だった。
教室の後、蓉子は夕暮れの街を一人で歩いていた。東京の街は夜になると別の表情を見せる。ネオンサインが輝き、人々の足取りが忙しくなる。しかし彼女は、その喧騒の中にあっても心の静けさを保つ術を身につけていた。
ふと立ち止まった蓉子は、夕暮れの空を見上げた。街の上には、紫がかった雲が流れていた。
「人生は迷路のようなもの。でも、迷うことこそが人生なのかもしれない」彼女は小さく呟いた。
その言葉は、新しい小説の一節になるかもしれないと思った。
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海外からの出版オファーは、蓉子の世界を広げた。ドイツ語版の次はフランス語版、そして英語版も企画が進み始めた。国内でも、『内なる旅路』の成功を受けて彼女の過去の作品が再評価され始めていた。
出版社の朝山からは、全国を回るトークイベントの企画も持ち込まれた。以前なら喜んで受けたであろうそうした提案に、蓉子は慎重に検討するようになっていた。
「すべての依頼を受けていては、本当に書きたいものを書く時間がなくなってしまう」彼女は自分自身の優先順位をはっきりと持つようになっていた。
三十二歳の春。蓉子は創作教室の参加者との合同出版プロジェクトを始めた。
「それぞれの人生、それぞれの物語」というタイトルのアンソロジー。参加者全員が短編一つずつを寄稿し、蓉子が編集と序文を担当することになった。
そこに収録される蓉子自身の短編小説のタイトルは「帰り道」。主人公は三十代の女性作家。結婚も出産も経験していないが、それでも豊かな人生を歩んでいる。彼女は日々の中に小さな発見と喜びを見出し、それを言葉にすることで多くの人の心に寄り添っている。
「完璧な人生なんてない。でも、それぞれの不完全さの中に美しさがある」
蓉子はパソコンに向かい、最後の一文を打ち込んだ。
「彼女は市場の喧騒の中で静かに微笑んだ。自分の居場所を、ようやく見つけたから」
完成した原稿を読み返し、蓉子は満足げに頷いた。かつて「もっと」を求めて彷徨っていた彼女だが、今は目の前にあるものの豊かさを感じられるようになっていた。それは外側の変化というより、内側の視点の変化だった。
アンソロジーの制作過程では、参加者たちとの絆がさらに深まった。互いの作品を読み合い、意見を交換する中で、彼らは単なる「教室の仲間」から「文学を通じた家族」のような存在になっていった。
蓉子は編集作業の合間に、自分の人生を静かに振り返った。三十代に入り、彼女は社会的な「成功」の定義から自由になりつつあった。他人の期待や基準ではなく、自分自身の価値観に従って生きる勇気を持ち始めていた。
それは決して楽な道ではなかった。時に孤独を感じることもあった。特に友人たちが次々と結婚し、子供を持つ中で、自分だけが違う道を歩んでいるという疎外感に襲われることもあった。
しかし、そんな時には創作教室の仲間たちが彼女を支えてくれた。七十歳の七瀬も、大学生の若い女性も、主婦の美智子も、皆それぞれの人生を歩みながら、言葉を通じてつながっていた。
「これが私の「家族」なのかもしれない」蓉子はそう思うようになっていた。
アンソロジーが完成し、小さな出版記念パーティーが開かれた日、参加者全員が喜びを分かち合った。七瀬は涙を浮かべながら蓉子に言った。
「先生、私はこの歳になって初めて、自分の言葉が本になりました。これが私の人生最大の喜びです」
その言葉を聞いた瞬間、蓉子は自分の使命を再確認した気がした。
これは終わりではなく、新しい始まり。彼女の旅はこれからも続く。
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