ちりぬるを
白明(ハクメイ)
第1話 十九
なんで私なの?
なんでこうなってしまったの?
私が何か悪いことをした?
まったく納得ができない。
どうすればいいの?
これからうちの家はどうなってしまうの?
あの人は……、もうあの人と一緒にいれないということなの?
考えても無駄だということはわかっている。
だけれども、とめどない思考が次々と沸いては消えていく。
そして大きくなる不安。
私は、家族は、いったいどうなってしまうの……?
私はいったい、なにができたの……?
私が生きた意味は一体何だったの……!?
――――――――――――――――――――――――
上京してあっという間に一年が経過した。
目まぐるしく回る毎日に、曜日感覚は薄れ、追いついていくだけで精いっぱいだった。
毎日の課題と実習。
年度末に来たる国家試験に向け、知識と技能を蓄積していくしかない。
アタマもカダラもすでにオーバーヒート気味。
最後にしっかりと眠ることができたのは、いつだったろうか?
そんな中、ルームメイトの
なんでも卒なくこなしてしまう彼女のことだ。
今回の一次審査も裕に越えてくるのだろう。
私に彼女の数%の頭の回転があるのであればこんな努力をしなくて済むのに。
深夜は、そんな余計なことを考えてしまう。
ダメだ、ダメだ。
こんなことを考えている時間は私にはない。
いまは、一症例でも多く覚えなければならない。
世の十九歳の多くは人生を謳歌していると聞く。
成人式を迎える最後の年齢であることを最大のウリとして遊び倒す。
世の中は高度経済成長といわれるモノで沸き立ち、煌びやかな洋服を着たモダンガールと呼ばれる彼女たちを余計に飾り立て、はやし立てる。
そんなものから、もっとも遠い場所で私たちは、白い衣服に身を包み、学び、実践を積み、日々切磋琢磨を強いられる。
もっといい生き方もあっただろうと独り言ちる。
自分でいうのもアレだが、このクソ真面目で、頑固な性格に私はいつも振り回される。
理性的でスマートに立ち振る舞う江国を私は、いつもうらやましく思う。
十代の最後を勉強に、実習に使い果たす。
そんな私の人生はこれからどうなっていくのだろうか。
まあ、ルームメイトの江国や先輩、同期に恵まれたのが幸いで、ここまでどうにかやってこれている。
先輩の話だと、毎期に必ず数人は落第・離脱するモノがいると聞く。
このキツさと勉強量だ。
そのコトバにも納得がいく。
正直、私だってぎりぎりだ。
ルームメイトや同期に「負けたくない」「遅れをとりたくない」。
ただその感情のみでここまで突っ走ってきた。
それは、負けん気が強く、真面目な性格のおかげかもしれないと思うと、なんとも複雑な気持ちになる。
いかん、いかん。
こんなことを考えている暇は私にはなかった。
いまは、勉強、勉強、勉強だ。
私は、
火の国と呼ばれなくなって久しいド田舎で四人兄弟の長女として生まれた。
兄がいたため実質的には次女なのだろうが、兄がどうしてボンクラなので、外向けには長女と名乗っている。
兄は六歳も年上なのに夢中になると将棋でも、囲碁でものめりこみ、一日だってにらめっこをしている。
そんな兄に代わって父や母の家事を毎日のように手伝っているので、自他ともに長女と名乗ってもいいものだと思っている。
父は、当時ではめずらしいいリベラリスト。
戦時中、米国の捕虜になりハワイに収監された父は、徹底的に米国の思想を叩き込まれたという。
英語はもちろんのこと、その思考形態は今の日本にとっては先進的であるのだが、戦前の教育形態が色濃く残る田舎では、周りにはなかなかなじまないものであった。
そんな中、戦後、紡績工場に就職した父の思考方法などに目を付けたのが労働組合だった。
労働組合の基本思想は露西亜から流れ込んできた社会主義といわれるものだと聞いているが、当時の父からすれば旧態依然の日本の考え方にあらがえれば、なんでもよかったのだろう。
そんな特異な父と籍を入れた母も当時ではちょっと変わっていた。
女性は家に入り家事、洗濯、子供たちの教育をするのが良妻賢母とされている中、自らが呉服店で男のように働き、売り上げをあげていた。
戦後にGHQが求めた男女平等というコトバに後押しをされる形で母の行動がより強くなったのは事実だ。そんな母のだからこそ、父との相性も良かったのだろう。
しかし、困るのはその家にうまれた子供たちだ。
父も母も朝から仕事へ出てしまうため、家事や洗濯、その他のことはすべて子供たちで行わなければならない。
先ほど話をしたボンクラな兄にそんなことはできようはずもない。
必然的にこれらは、私と二人の妹たちで行うようになった。そんなこともあって二人の妹たちとは学校でも、家でもいつも一緒。もちろん喧嘩もたくさんしたけれど、私にとっては最高の宝物だ。
次女の
物心つく前から牛乳瓶の底のような眼鏡を外したことはない。眼鏡をかけているにも関わらず、何かを見るときは、息のにおいがわかるほどに近づく。
まあ、そこが可愛いのだけどね。
三女の
だけど、私以上にガンコで早口。
そんなもんだから学校でも、近所でも、男の子たちとよくケンカになる。
いつも仲裁に入る私の気持ちにもなってほしい。
まあ、そんなまっすぐな性格が可愛いのだけどね。
学校から帰ってくると、そんな二人と分担しながら家事や洗濯。
お米磨ぎは友のお仕事。
いつも鼻歌を歌いながら軽快にやってくれる。
あるときなんかは、足でリズムを取りながらやっていたっけ。
洗濯干しは道のお仕事。
友に任せるとあらぬところに干しちゃうから、しっかり者の道に任せれば大丈夫。
干した洋服を最後に「ピンっ」と張りすぎて、父の半袖シャツが七分丈シャツになっちゃったこともあったっけ。
そんなふうにワイワイ家事をしていると夕刻には先に父が、そのあとに母が、帰ってくる。
父はたいてい近くの市場で仕入れた、ちょっとした魚を買ってきてくれる。
これを見事な包丁さばきで三枚におろすと、きれいなお造りの出来上がり。
これに私が作っていたお味噌汁と芋の煮つけを準備したら、母が兄を呼びに行く。
そのころに兄は将棋盤に向かって居眠りをしていることがほとんどだ。
うちは家族みんなで食卓を囲む。
そして「いただきます」の掛け声とともに箸が我先にと刺身へ向かう。
他の家では、父が箸をつけてから、それに続き箸を続けるというが、うちは違う。
父の考えもあって男女平等だけでなく、親子間でも平等の意識があるのだ。
「やれるやつが、やりゃあ、よかよ」
それが父の口癖だった。
私はそんな父も母も大好きだった。
そして兄妹たちも。
そんな田舎ではちょっと異質な家族で私は愛に包まれ、ぬくぬくと成長していったのだ。
そんな中でもやっぱり兄はボンクラだった。
二つ山を越えた先に通う大学での生活が六年目に突入したのだ。
どうやら授業や考査を受けるよりも将棋に気持ちが向いてしまい、大学から留年の通達がきたそうだ。
これにはさすがの父も母も困ったようで、どうにか大学で学ぶよう叱っていた。
あまり叱らない両親に根負けしたのか、翌日から渋々、大学に向かう兄があった。
このとばっちりは、私に降りかかる。
私を大学に進学させるだけのお金はすでに兄のために使ってしまったとのことだった。
兄が大学に通っており、リベラルな父のことだから私も大学に行きたいと言ったら、当然のように行かしてもらえるとばかり思っていた私が甘かった。
もっと早くから確認しておくべきだったのだ。
しかし、今は中間考査をどうにかしなければならない。
今回の定期考査で赤点を取れば「大学どころか卒業さえ危ない」と担任に釘をさされているのだ。
私が苦手なのは英語と化学。
来週の中間考査で赤点を取ってしまうと、落第がほぼ確定する。
どうにか手を打たなければ、私の未来はここで終わってしまう。
父に大学進学の相談に併せて聞いてみる。
「英語ならわしが教えたる」
そうだった。父は英語ができたのだ。
「化学は兄さんの本を使えば、よかろ」
そういえば、兄の大学での専攻は工業化学。
急いで兄の部屋に飛び込み、本棚を漁る。
そうそう。これだ。
高校化学ガイドと書かれた本を開く。
「よかった。亀の子がたくさん書いてある」
私は、このときほどこの家に生まれて良かったと思ったことはない。
こうして父という最強の家庭教師と兄の参考書を手に入れた私は、無事中間考査を乗り越えることができたのである。
しかし、だ。
結局のところ、高校卒業後に私は大学へは行けない。
どうしたって、いまのうちの家計では、進学は難しい。
下手にお金を出してもらおうものならば、友と道が高校にすら行けなくなるとも考えられる。
やはり就職するしかないのだろうか?
残り少ない高校生活を送りながら、考えるのは大学への未練ばかり。
あれ?
私はなぜ大学に行きたいのだろうか?
大学で何か学びたいことがあるのだろうか?
兄が大学へ進学したから、ただ進学したいと思っているのではないだろうか?
今度は、そんな根本的なことにアタマを悩ます。
別に仕事についてもイイのではないか?
じゃあ、なんの仕事をするの?
父や兄のように専門的な知識や技術もないし、母のように人にものを売る自信もない。じゃあ、事務の仕事だろうか?
事務の仕事で雇ってくれる会社って、どうやって探すの?
そんなひとりで考えても答えが出るはずもない悩みでアタマの中はいっぱいだった。
しかし、運命とは突然に開かれるもので。
向こうから大手を振ってやってきたのである。
私の高校は、県内ではそこそこ学力が高い高校であったため、さまざまな企業が定期的に就職説明会なるものを開催してくれていた。
つまり青田買いだ。
他に取られるくらいであれば、企業自らが出向き、優秀な人材を確保する。
そこで、私は出会ったのだ。
「お給料を貰いながら、勉強ができて、さらに資格も取れる?」
本当に詐欺のような話だ。
いや。
後によく考えてみれば、「ような」ではなく、詐欺だと思える内容だった。
私は、この企業(実は企業ではなかったのだが)の話を聞き、資料をもらい、その日は鼻息を荒くして帰宅したのを覚えている。
「ねぇ! 私、上京して看護婦になる!」
夕食後、企業からもらった資料を食卓に「バンっ」と叩きつけ、私は前のめりに両親に顔を寄せる。
両親はポカンと口を開き、あっけにとられている。
「久、お前、看護婦って、どげんしてなるんか、わかっていると?」
母が呆然とした顔のまま聞いてくる。
そりゃあそうだ。
私だって今日、知ったのだから、母が知っているはずがない。
「わかっとっと。今日、学校に会社の説明しに来たったい。勉強しながらお金ば、もらえて看護婦になれるとよ」
私は今日、学校で聞いてきたことを両親に対して捲し立てる。
今日学校に来ていたのは、関東のY市にある看護専門学校の職員。
看護専門学校では卒業後Y市の病院で働くことを条件として、少ないながらの給金をもらいながら看護婦になるための授業を受けることができる。
Y市の看護専門学校は設立したばかりということもあり、地方にまで足を延ばし、候補生を募集していたのだ。
「ばってん。住むところはどうするたい。うちには、そんな金ば、なかとよ」
普段はおおらかな母が心配そうに聞いてくる。
「もちろん、寮たい。寮の費用はお給金から少し引かれるくらいなんじゃと。こんな条件なかろうもん」
寮費は関東にしては驚くほど安く、三食もついているという。常に学校にいるような感じにはなるが、この辺りは致し方ない。
「なんつー。熊本にはいつ帰ってこれんとね」
母はまだ譲らない。確かに私が今この家から抜けてしまうと色々と困るのは明白だ。だが、私は、学びたいのだ。
今日、看護専門学校の職員の人と話していてわかった。
私は、何かしらの勉強がしたかったのだ。
それも誰かの役に立つものを。
だからこそ、看護専門学校の話を聞いたときは、稲妻が心を走ったように感じられた。これだ! と。
「久の好きなようにしたら、よか」
母の質問を遮るように父がぼそりという。
いつものように湯のみ茶碗に入れた芋焼酎をグビリと一口飲むと、喉ぼとけが上下に大きく動いた。
「あんた! そんな簡単に言うてよかか!?」
父をキッと睨んだ母は、鋭い言葉を続けて投げる。
「よか、よか。久もええ大人じゃ。自分で決めて、よかようにすべきじゃ」 父は、また湯呑を口元に運び、またグビリとやる。母は一度、大きなため息を吐き、肩をストンと落とした。
「もう、そんなんいうんなら、もうしょうがなか。ばってん。久ちゃんから、友ちゃんと道ちゃんにはちゃんと言いなさいよ」
右に少しうなだれた母は力なさげにいう。
「母さんごめんなさい。そして父さん、ありがとう」
私は、深々とアタマを下げると、急いで子供部屋へと駆け出していた。
――――――――――――――――――――――――
「ねえさん。Yってどういうところじゃ? 人がいっぱいいるところじゃなかろうか?」
友が魚眼レンズの向こうの瞳をキラキラさせながら聞いてくる。
「船がたくさんあるって、聞いているわ。それも見たこともないくらい大きな船よ」
続けざまに道がその知識を広げる。
子ども部屋の布団の上。
私たちはいつもの恰好で話をしていた。
子ども部屋には二枚の布団を隣り合わせて敷き、私が真ん中、右側が友、左に道というように川の字になって寝る。
いつ終わるかわからないおしゃべりをしながら、気づくと眠っているのが日常だ。
寝相の悪い友と道に布団をしっかりかけ、私は布団の隙間に入り込む。
この位置が私の幸せの場所だ。
しかし、この日常もあとどれくらい続くのだろうか。
うれしい反面、そんな想いが私のココロを少しばかり寂しくする。
この二人にはきちんと伝えなければならない。
少しの物悲しさと伝えたくてどうしようもないキモチが私の中には溢れていた。
だが、そんな想いは杞憂だった。
二人は、その小さな体のすべてをもって私の上京を応援してくれた。
「そうねぇ、人も船もいっぱいあって、おいしいモノもどこそこにもあるってきくわ。友も道も遊びにきなさいよ」
私は大好きな二人の妹を抱きしめながら、その日もいつ終わるとも知れないおしゃべりを続けたのでした。
――――――――――――――――――――――――
実家を離れる日は不安と期待の入り混じる感情でいっぱいでした。
十八年育ったこの街を離れるのはどこか寂しく、妹たちもことも心配。
駅には家族全員で見送りに来てくれたことがそれをより強くしたのでした。
父は腕を組み、
「ばってん。無理せんと、疲れたら帰ってきなしゃい」
そんな風にいつもどおり、静かに語った。
母と妹たちは小さな包みを持たせてくれた。
ボンクラの兄はその目を少し潤ませ、「ほんだらな」というだけだった。
昔なにかの本であったようなシーンだとアタマでは考えるものの、涙が次々にこぼれてしまい、思考がまとまらない。
涙と一緒に私の脳みそも溶け出してしまったのではないかと思うほどだった。汽車が駅舎に入ってくる頃には、私は嗚咽を漏らしただ泣くだけだった。
友と道を抱きしめ、
「正月には帰ってくるけん」
と、言葉にならないコトバを繰り返していた。
どうやって電車に乗ったのかを覚えていないほど、私は涙でぐしゃぐしゃになり、アタマは混乱していた。
唯一覚えているのは、遠ざかる両親の姿と、友と道が一生懸命振っている手だけだった。
――――――――――――――――――――――――
入学案内に書かれていたY市の看護専門学校寮までの道のりは私にとっては、とても分かりにくいモノだった。
まず、どこも人が多い。
しかも、声をかけても誰一人として振り向いてすらくれない。
関東は冷たい人が多いとは聞いていたが、これほどまでかと思う。
学校寮の最寄り駅で降りたものの、右も左もわからない私は、オロオロとするばかりだった。
そんなとき背後から声をかけられた。
「おい。
お前、そこにぼーっと立ってたら邪魔だって。
ん? お前、迷子か?
田舎もんのおのぼりさんか?
私、この辺詳しいから、教えてやんよ」
いきなりのキツイ声に私は振り向く。
上下ジーンズ姿でラッパズボン。
赤いシャツがその中に覗き、背丈は私と同じくらいのショートカットの女性がそこにいた。
黒いサングラスをかけているため、その目元は見えないが、口元に笑みがこぼれる。
すっと伸びる鼻先からも相当の美人であることが伺える。
彼女は右手に下げた大きめのボストンバックを大きく振り回し、肩口に抱え込む。
「んでぇ、あんたはどこにいきたいんだよ?」
美人ではあるが口調やしぐさが粗暴だ。
これでしっかりとした礼儀や品位があれば、男性には事欠かないだろうとごちる。
「えっとぉ。こげんばしょか、いきたか、ばってんが……」
専門学校寮への地図を渡す。
「うわっ!
おまえ、すっげぇ訛りだな!
いったいどこの田舎から出てきたんだよ!
なになに? この場所って、おい……」
彼女は地図から目を上げ私をしげしげと見つめる。
そんなにも私のような田舎者は珍しいのであろうか?
「名前は?」
相変わらずのぶっきらぼうな声が投げかけられる。
「え? なんとっと?」
とっさのことで、また訛りが出てしまった。
「だから、な~ま~え!
名前だよ、名前。
なんていうんだ?」
彼女は私に近づき、左手の人差し指で私の胸の中央を突き、聞いてきた。
「や、山中久……」
名乗った後に訛っていないか心配になったが杞憂だった。
すでに彼女はくるりと背を向け、歩きだしている。
「私は、
あんたと同じで今日から看護学校寮でお世話になるんだ。よろしくな」
初日からなんともおかしな人と出会うこととなった。
新しい地であたらしい生活がはじまる。
私は、火の国を離れ、関東のY市での生活はこうしてはじまったのだ。
――――――――――――――――――――――――
はあ。
疲れているんだな。
一年前のことを思い出してしまった。
これだから深夜の思考はよくない。
思考が走り出すとどこまでも深くなっていく。
私はこんなことをしている時間はないはずだ。
一つでも症例を、そして試験で一点でも多く取れるよう勉強しなくてはならないのに。
――――――――――――――――――――――――
ここの寮に入って色々と悩ましいものがある。
一年経過してことさら、その問題は大きくなってきたように思う。
その一つは朝食だ。
朝食は食堂に用意がされる。
必ず食べるようにと指示され、私たちはよほど体調が悪くなければ食堂で寮母さんに、そして同期と顔を合わせ、朝食をとらなければならない。
この看護専門学校は現在創立四年目。
二年間の在学期間で看護婦に必要な知識と実習をこなし、二年次の年度末には看護資格国家試験を受験することになっている。
この国家試験は年一回しか開催されないため、パスできなければ、就職が決まっていたとしても、資格がないため、就職は見送られる。
そのため、みんな全力で学び、実習を受けるのだ。
今、学校寮にいるのは私たち第三期生と第四期生。
食堂は一つだけしかないため、下学年は朝食の時間が早く設定されている。
当然起床の時間も早くなるため、慣れないうちは朝食を五分で食べきらないといけないなども問題も起きる。
一方、上学年になると毎日の帰寮後の勉強量は必然と多くなるため、深夜まで励むことも多くなる。
そのため、朝食の時間が一時間も遅くなるのは嬉しい配慮だ。
しかし、この「食べなければいけない」というのが私たちを苦しめるのだ。
「あ~まただ~。
山中~。
私の分の食ってくれ~」
江国がいつもどおり私に茶碗を差し出す。
「江国、うるさい。
私だってもう、うんざりしているんだ。
自分で食べろ」
私たちは、このやり取りを二日に一回は行う。
「江国、山中ちゃん、いい加減そのやり取りどうにかしろよ。
毎朝見ているこっちの身にもなってよ」
そう話すのは、
彼女は山口の出身で私と同じように高校に青田買いに来ていた学校職員に唆され、本校への入学した者の一人だ。
背が高く、切れ長の目、少し上向きの鼻、まるで女優の候補生だといわれてもおかしくない容姿を持つ彼女は、朝が弱い。
半分閉じかかっているその目を無理やり開け、口の中へ茶碗の中身を掻き込む。そのきれいな口元がいびつに歪む。
「あ~。もう最悪だよ~。
最悪、最悪~。
一週間になんど同じ朝食が出るんだよ~。
私たちは鶏じゃねぇっていうの~」
泉も悪態をつく。
「そんなこと言ってもこれしかないんだから、しょうがないじゃん。
食べなきゃ寮母さんにまた、お小言を言われるし……」
そう語るのは、青森から出てきた
はじめて会ったときにはまったく言葉が通じなかったことを覚えている。
彼女は標準語をしゃべっているつもりらしいが、独特のイントネーションと時々のぞく青森弁がそうさせていたのだ。
だが、彼女は可愛かった。
お多福を思わせるぷっくりとした頬や腫れぼったい瞳。
体型も比較的ぽっちゃりしているところが余計に彼女の可愛さを強調する。
さらに彼女の長い髪はカールがかかっており、お人形さんのような彼女の印象に拍車をかける。
そして、私と同じようなぽっちゃり体型をしているため、親近感を抱くのだ。
何よりも特徴的なのはゆっくりとしたしゃべり口調。これが彼女の可愛さを際立たせているのは間違いない。
「あ~。
うっさい。
とりあえず、黙って食べる!
私だってうんざりしているんだ。
早いとこ飲み込んで、実習の準備をしないとまた教官にどやされるよ!」
私は、碗の中のモノを一気に掻き込む。
私たちを苦しめるソレ。
それは、二日に一回出される朝食である「卵かけごはんアミの佃煮乗せ」。
最初のうちはモノ珍しさからよく食べていたが、それも二週間目には誰もが異変に気付く。
頻度が異常に多いのだ。
すでに生卵やアミの佃煮を見るだけで、吐き気すら覚えるようになっている。
江国と私でそんなことを大声でぼやいていると、泉が、そして井田が合流し、いつの間にか四人でつるむようになっていた。
お互いの出自やその他も関係なく、深いやり取りができる仲間ができたことは私が学び続けられる理由の一つとなった。
卵かけごはんとアミの佃煮で形成された仲というのは、なんとも言えないものであるが。
――――――――――――――――――――――――
重すぎる雪がまだ路肩に残る二月某日。
私は東京都下の大学に来ていた。
緑の多いこの地域には大学が隣立する。
そのため、最寄り駅には春休みだというのに部活動用のジャージを着た学生たちの姿が多く見られた。
因果なもので、数年前に入学することにあこがれを抱いていた大学というものに今、私はいる。
なんとも不思議な感覚に私は、軽い興奮を覚える。
いや。
こんなことを考えている場合ではないのだ。
今日のこの日のために、頑張ってきたのだ。
そのために異常な量の課題、泣きたくなるほど叱責された実習、卵かけごはんアミの佃煮乗せに耐えてきたのだ。
私は、今あるすべてをもって、挑戦する。
「お! 山中、やっぱ早いなぁ~!」
江国の快活な声が背後から聞こえる。
朝からウザったいくらいに元気だ。
だけど、その活力が今日は少し頼もしい。
「山中ちゃん、先に出ちゃうんだもん。気づいたら寮にいないからびっくりしたのよ。一言いってくれればよかったと思うわ!」
泉がピリッと言い放つ。
「それに江国と井田の準備が遅いのには困ったわ。あなたが、彼女たちのお尻を叩いてもらわないと!」
確かにいつもは私が彼らの面倒を見ている。だが、今日くらいは勘弁してほしい。
「えぇ~。いつも通りだよ~。大丈夫だよ~。こうやって間に合ったし~」
相変わらず、井田はゆるい。
そして、今日も可愛い。
試験当日にもかかわらず、顔を覆い隠すほどの縦巻きカール。
可愛い。
「一生に一度だから、自分に気合を入れるためにも早く来て、会場を見ておきたかっただけよ。声をかけなかったのは悪かったわ」
大学を見上げ、少し目を細める。
陽光が建物の窓に反射し、目に刺さる。
今日は一段と輝いているように思える。
こんな日は、なにかいいことが起きそうな気がする。
「うっし! じゃあ行くか~! みんな一発で、看護婦免許、もぎ取ってやろうぜ~!」
江国が号をかける。
っとに、こんなときまで暑苦しい。
でも……、イヤじゃない。
ここから私たちの看護婦生活がはじまる……かもしれない。
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