第2話 二十九 ①

「山中婦長!

 二〇三の大下さん産気づきました!」

 ナースステーションに駆け込みながら叫ぶ若いナース。

 「走るなっ!」ていつもいっているのに何度言ったらわかるのだろうか?


 それにもう少し冷静に対処すべき。

 そんな基本を忘れるとは、彼女の指導教官は誰だろうか?


「処置室、確認取って。

 山本先生に連絡。

 山本先生につながらなければ、宮本君呼んできといて。

 あ、坂下さんサポート入って」

 若いナースはあっけにとられて立ちすくんでいる。


「ほら、あんた。

 突っ立ってんじゃないわよ。

 すぐ動く!」

 はっと、我に返った彼女は、慌てて走りだす。

 だから、走るんじゃあない!


―――――――――――――――――――――――――――


 毎日が目まぐるしく変化していく。

 この仕事についてからも基本的にしっかりと休んだという印象はあまりない。

 特にこの十年近くは。


 二日連続で昼に勤務し、翌日は夕方からの夜勤。

 夜勤が明けたその日と、翌日がお休み。

 その翌日からはまた二日連続の昼勤がはじまる。

 こんな三交代勤務が看護婦の一般的な勤務形態だ。


 最初のうちは体がまったくついてこなく、軽い不眠症のようなものにもなりかけたが、それも極度の肉体的な疲労には勝てなかった。

 

 看護婦の仕事は一般的に優雅な仕事、白衣の天使のお仕事と勘違いされている。

 しかし、現実は道路や建築現場の土方作業員と大して変わらない肉体労働。

 次から次へとなにかの問題が起こり、それに対処していく必要があるのだ。

 

 常に変化する患者さんの状況に対応し、薬品や処置具を的確に、素早くドクターに用意する。

 さらに患者さんのご家族のお話を聞き、ときには業者の対応なども行う。

 

 最近、テレビで看護婦物語というドラマが放映されているそうだが、あんな夢物語のような世界はどこにもない。

 あんな脚本を書けるのは、重度の精神分裂症患者くらいだろう。


 あぁ、そういえばこういう差別的な言葉を使うなと研修でも強く言われていたっけか。

 なんとも難しい世の中になったものだ。

 看護専門学校の第一期生の先輩の話では、ちょっと前までドイツ語で患者さんの悪口をいうのが当たり前だったというのに。


 重い気持ちで病棟引継日誌に向かう。

 あぁ、今日は帰ったらとりあえず、ビールが飲みたい。

 今日、道は夜勤だろうか?

 そうでなければ、酢豚が食べたい。

 道に作ってもらおう。


―――――――――――――――――――――――――――


 三年前、突然、婦長の辞令が出た。

 どうやら前例を見ないほどのスピード昇進らしい。

 私としてはまったく嬉しくないことこの上ない。


 今までは自分のペースで仕事をすることができたので、合間を見てしっかりと学ぶことができていた。

 看護婦の世界では、いや、医療の世界では、日々、情報が新しくなっていく。

 そのため、常に学び、自分自身をアップデートすることで、患者さんへの医療提供の強化につながる。

 当たり前ではあるのだが、こういった研鑽を怠れば、たとえ看護婦であっても取り残され、必要とされなくなる。


 たまたま私は勉強が苦ではないので、呼吸をするように学んできた。

 しかし、婦長になると今までの仕事だけでなく、部下の管理・教育が追加されるのだ。

 後輩の指導を今まで何人か行ってきたが、管理・教育となるとその負荷は一気に大きくなる。

 つまり、自分の時間が少なくなるのだ。

 さらに、総婦長と看護婦の意見の間に挟まれるのだ。


 会社でいうところの係長よろしく、中間管理職といわれるもので、その心労は一介の看護婦の比にならない。

 婦長になったからと言って給料が大幅に上がるということはなく、まったくの昇格損だ。はあ。早く帰ってビールが飲みたい。


―――――――――――――――――――――――――――


 看護婦国家試験は思っていたよりもあっけなく合格をしていた。

 うら若い少女の大切な二年間をしっかりと注ぎ込んだ甲斐もあり、試験の一か月後には専門学校卒業とともに晴れて看護婦になることができた。


 周りの悪友たちも揃って合格。

 聞いたところ、ぎりぎりで合格したのは井田だった。


 うん。

 いつまでもゆるゆるしていないで、少しはしゃきっとしろよ。

 いい大人なのだから。


 まあ次に危なかったのは私だったので、本人には面と向かって言えないが。

 でも井田は可愛い。



 看護婦専門学校の思惑通りに看護婦になった私たちは、Y市市立病院へそのまま入職することとなった。


 入職式は専門学校ほぼそのままの顔ぶれのため、なんの新鮮味もなかったが、何よりも先輩看護婦たちの私たちを品定めするような眼が怖かったことを覚えている。

 どう料理をしてやろうかとでも言わんばかりに、腕を組み、斜めに立ち、顎を少し上げ、冷たい目線で見下ろす雰囲気がこれからはじまる毎日を不安にさせた。


 入職式が終わるとそのままに配属科を言い渡された。

 私は産婦人科、江国は内科、泉は整形外科、井田は、嬉しいことに同じ産婦人科だった。

 よかった。

 やはり井田は可愛い。



 翌日からはすぐに各々の病棟で仕事をはじめることとなった。

 仕事といっても卒業したての娘っ子が役に立つわけでもなく、指導教官の後につき、見て取り仕事が主になる。


 あろうことか私の指導教官は、看護専門学校第一期を首席で卒業した乾(いぬい) 真紀(まき)さんだ。

 真紀さんは背が高く、無駄な肉がほとんどなく、引き締まった体をしている。

 昔水泳をやっていて、今でもストレス解消に適度にプールに通っているそうだ。


 顔はキツネと表すのが最も近いほどシャープなイメージ。

 やや吊り上がった眼、高い鼻、そしてすっきりとした顎回り。

 泉も美人であるが、泉よりも冷たい感じの美人といった方がしっくりくるだろう。


 勉強もスポーツも、美貌すら持ち合わせる彼女を皆は陰で女帝と呼ぶ。

 そう呼ばれてもおかしくない彼女の性格は冷たく、キツイ。

 専門学校在学中に何人泣かされたかわからないほどとの噂も聞いている。まさに女帝。

 そんな人が指導教官につくとは、スタートからツイていない。



 真紀さんの判断と行動は早く、的確だ。

 そして私への教育やアドバイスは短く、だが的を射たものばかり。

 これまで江国の能力をすごいと思ってきていたが、まるで別格だ。

 仕事ができるというのはこういうことをいうのだろう。


 次々に患者さんに対応していく。

 かといって冷たい対応やぞんざいな態度を取るというものではない。

 常に話す相手と目線の高さを合わせ、覗きこむように顔を近づけ話す。

 専門学校で基本として教えられたことだが、なかなかに実践できるものではない。

 言葉遣いも丁寧で、優しく、温かい。

 しかし、言うところはピシャリといい、決して受け付けない。


 これでもかと見せつけられる彼女の完璧さ加減に私はついていくのがやっとだった。

 試験を受け、免許を取っただけでは、看護婦ではない。

 そんな当たり前なことに今更ながら肌をとおして感じる。

 私はまだ、看護婦ではない。


―――――――――――――――――――――――――――


「久、こっち」

 女帝に呼ばれる。

 入社してから五年が経過した。

 それなりに仕事にも、この生活にも慣れてきたところだった。

 この仕事もなれてしまえば、結構自由にやれることがわかってきた。

 ハードな仕事であるということは、事務局も理解しているため、給料はそこそこ高く、休みも取りやすい。

 大まかに職業を分けるのでれば、扱いは地方公務員という扱いのため、かなり自由度が高い。

 そして、給料をもらったところで、使う時間もあまりないのだ。

 もちろん、有り余るお金で買い物をし、ストレス解消を行うものもいるのだが、私はあまりモノに興味がない。



 六月のある日、久しぶりの休暇を申請し、江国たちと食事に行く予定だった。

 そこで女帝に捕まったのだ。


 女帝は私のことをファーストネームで呼ぶ。

 江国や泉、井田は昔からの習慣でお互いを名字で呼ぶのが普通。

 

 この業界では、名前の聞き間違いや取り違えがあってはいけないということから、フルネームで呼び合うか、ファーストネームで呼ぶ。


 そのため、御多分にもれず女帝は指導教官の頃から私を久と呼ぶのだ。

 指導教官から外れた後も私のことを気にかけてくれ、ことあるごとに私を呼び止めた。


 今回もタイミング悪く呼び出されてしまった。

 女帝は、看護婦では異例のスピードで出世し、歴代最年少で婦長に昇進した。

 自他ともに認めるその仕事っぷりからも異論のようなものはなかったと聞く。



 呼び出されたのは、海が見えるカフェ。

 テラス席からは、氷川丸が見える。


「相変わらず、忙しそうね。久」

 半袖の白いサマーセーターに、スキニータイプのジーンズ。

 まるで女優かと思わせるようなそのスタイルは、このカフェによくなじむ。

 少しばかりどんよりした空を彼女の凛とした声が切り裂いていくようだ。


「あ、はい。

 どうにかやらせていただいています。

 一応、真紀さんの名前を汚さないように、日々精進しています」

 やはり緊張感が違う。指導教官であったのは四年前。

 だけど、どうやったって真紀さんに対する姿勢は変えられない。


「そう。

 よろしい。

 私もあなたの活躍は聞いているわ。

 日々の勉強も欠かしていないようね」

 なぜ、知っている?

 『ようね」ということは、昨年度末に取得したあの資格のことも知っているということだ。

 

 やはり……。

 この人は怖い……。


「今日はあなたの意志を聞いておきたくてここに誘ったの」

 そういうと女帝は、テーブルに右ひじをつき、その手の甲にきれいにとがった顎を乗せ、私の瞳の奥を覗きこむ。


 こうされると心の深いところまで、覗かれているような気がする。

 蒸し暑さからか、頬を汗がツゥと流れ落ちる。

 いや、暑さからだけではない。


「久、今すぐではなくてよろしくてよ。

 私の後の婦長になりなさい」

 は?

 なんといった?

 婦長? と、言ったの?

 まだ私は、二十四歳だ。

 史上最年少といわれた目の前に座る女帝でさえ、二十九歳で婦長になったのだ。


「え?

 あ、あれ?

 私にはまだ、無理です。

 そんな力量、ありません。

 それに、真紀さんはどうするってことですか?」

 目の前の女帝は、鼻をフフンと鳴らし、続ける。


「私は他の診療科の婦長になるわ。

 そして産婦人科はあなたに任せる。

 数年後を見越して、考えてほしいの。

 そして私はもう一段階、上がっていくつもりよ」

 聞いていて、またアタマが凍り付く。


 私だけでなく、女帝もさらに上を目指していくというの?

 そのために女帝の後釜には、私が座る?

 この人のこの計画はどれくらい前から練られていたのだろうか?

 そして、これから何年先までを計画しているのだろうか?

 あくまで私は、彼女のコマの一つでしかないのだろうか?


 考えれば、考えるほど、彼女の思考の渦に入りこんでいく。

 私は、

「結構なお話、ありがとうございます。

 少しお時間をいただいて、考えさせていただきます」

 と、力なく答えることしかできなかった。


―――――――――――――――――――――――――――


「というか、すでにそれって事実上の内示じゃない?

 そんなことしていいわけ?」

 江国が大きな声でわめき散らかす。

 女帝とのカフェでの話し合いの後、急いで帰り江国に電話をかけ、自宅にいることを確認し、彼女の家に殴りこんだ。

 そして女帝から言われた内容を江国に対して事細かに話したのだ。


「マジで意味がわからない。

 それってマジで病院を支配していくつもりってことじゃん。

 ここ十年くらいかけてじっくりと自分の地盤を固めていくってことじゃない。

 その一枚の瓦に山中は、なれって言われているってことなんだよ。

 まじでそんなことって許されるの?」

 江国はイライラを隠さない。

 相当にアタマにきているらしく、握っているタオルがきつく絞られる。


「江国、ちょっと落ち着いて。

 まだ、しっかり回答はしてないよ。

 それに私だって、婦長なんかにはなりたくない。

 もう少しスタッフとして勉強もしたいし、プライベートの時間も欲しい」

 本心だ。

 私はまだその立場になるために必要な経験も知識も不足している。

 だからこそ、この誘いは断ろうかと思っていた。

 それに私だって、江国だってすでに二十九歳だ。


 世間ではすでにこの年齢はいわゆる行き遅れの年齢だ。

 初産の年齢を考えれば、そろそろ特定の相手がいないと、とてもまずい。

 

 私は、四人兄妹の中で育ったため、兄妹がいる家族が欲しい。

 父と母のように仕事に邁進するのもイイが、子どもたちとの時間もしっかりと確保したそんな家族での生活を送りたいのだ。

 そのためには、まず、相手だ。そして、時間が必要だ。



 周りを見渡すと看護婦には単身者が多い。

 多くの仕事をこなし、続けていくことで、その大事な時間を失っていく。

 そういった状況であるが、私は結婚や子どもを作ることを諦めていない。

 

 仕事も大切であるが、やはりそこは自分の人生。

 どうにかして時間を作り出していきたいのが正直なところだ。


「私は譲りたくないし、仕事に染まりたくない」

 江国は強い言葉でいう。

 その目が真剣だ。


「私も諦めたくない」

 テーブルに身を乗り出し、江国に顔を寄せる。

 私たちは、仕事でもプライベートでも同士だ。

 すでに同じ時間を十年近く過ごしてきた。

 もはや家族といっても過言ではないだろう。

 そう。

 私たちはまだ終わっていない。

 

「まずは、宮本君あたりから話をはじめてみようか!」

 江国が気合を入れる。

 すでに女帝の話はアタマから吹き飛んだようだ。

 江国のこういうところが気持ちいい。

 私たちは仕事だけで人生を潰したりしない。

 

 やりたいことをそして、自分らしく生きていくことが私たちの「生きる」なのだろう。


 そう。

 生きるために、生きるのだ。

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