第45話 「溢れる気持ち」

 放課後、俺たちはいつもより少し遠回りの帰り道を歩いていた。

 駅から伸びる静かな通り。人通りはない。

 夕日がオレンジ色の影を地面に落とし、透華の黒髪に柔らかく光を落としていた。


 手のひらの中には、彼女の細くて白い手。繋いでから少し経つのに、いまだにその感触に慣れない。

 けれど、不思議と心地いい。鼓動が少し速くなる。


「……あったかいわね」


 透華がそう呟いた。


「ん?」


「手。こんなにあたたかいものだって、知らなかった」


 そう言って、彼女は小さく俺のほうを見た。表情はいつもより穏やかで、どこか恥ずかしそうでもあった。


「そりゃ、な。……まぁ冷え性の俺が言うのもなんだけどな」


「……ふふ」


 透華が笑う。


 彼女の笑顔は、まだ時々不意に現れる。けれどそれが現れるたび、俺の中の何かがじんわりとほどけていく。


 しばらく歩いたあと、透華がふと立ち止まった。


「ねえ、悠斗」


「ん?」


「私……あなたといると、自分じゃなくなるみたい」


 その言葉に、俺の心臓がドクンと跳ねた。


「自分じゃなくなるって……どういう意味だ?」


「うまく言えない。でも、あなたといると、ふっと力が抜けて。自分でも、こんな顔するんだって思うの」


 透華は、ほんの少しうつむいた。


「……悪い意味じゃないのよ?」


「わかってるよ」


 俺は苦笑したあと、少しだけ悪戯っぽく言った。


「じゃあ、もう少し“自分じゃなくなること”、してみる?」


 透華が顔を上げる。


「それって……たとえば?」


 俺は言葉に詰まった。


 その顔が、思ったよりも近くて、綺麗で。冗談のつもりだったのに、喉の奥で言葉が止まった。


「……たとえば、」


 俺はゆっくりと息を吸い込んだ。


「キスとか」


 空気が静かになる。


 俺たちの間を吹き抜ける風だけが、頬を撫でた。


 透華は驚いたような顔をして、それから少しだけ笑った。


「大胆ね」


「冗談のつもりだったけど……たぶん、もう本気だ」


 俺は手の中の透華の指を、少しだけ強く握った。


「……キス、してもいい?」


 何度も何度も考えて、たぶんそれしか言えなかった。


 透華は、少しだけ戸惑ったように瞬きをして、それから——ゆっくりとうなずいた。


「……いいわよ」


 たったその一言で、世界が少し変わったような気がした。


 俺は透華の顔を見つめながら、ゆっくりと距離を詰めた。彼女も逃げない。ただまっすぐ俺を見ていた。


 静かな街角、夕日の下——俺たちは、はじめてのキスを交わした。


 それはほんの一瞬で、けれど確かに、心の奥に刻まれるような感覚だった。




 


 ***




 


 透華は、キスを終えたあともしばらく目を閉じたままだった。


 胸が、ぎゅっとなっていた。どこかくすぐったいような、でも確かにあたたかいものが胸の奥で渦を巻いていた。


(これが……キス)


 手のひらがまだ少し震えている。けれど、嫌じゃなかった。


(怖いわけでも、不安なわけでもない)


 ただ——


(好きって気持ちが、これ以上ないくらいに、あふれそう)


「……透華」


「……なに?」


「ありがとな」


「……お礼を言うのは、私のほうかもしれない」


 そう呟いた彼女の声は、どこか潤んでいた。


「私……ずっと、“茨姫”って呼ばれてきた。完璧で、冷たくて、誰にも心を開かない存在で。……それでいいって思ってたのに」


 言いながら、透華は前を向いた。


「今は、違うの。誰かと手をつないで、笑って、その……キスまでして。そんなふうに変わっていく自分が……少し怖いけど、でも、嫌じゃない」


「透華……」


「だから、ありがとう。私を見てくれて」


 その言葉に、俺はもう一度、彼女の手を握った。


「これからも、ちゃんと見るよ。透華のこと」


 彼女はこくんと頷いた。


 ——こんなふうに気持ちが通じ合って、手をつなぐことも、キスをすることも。


 全部が、信じられないくらい自然に感じられる。


 まるで、最初からそうだったみたいに。



 


 ******




 


 夜道を歩きながら、透華は何度も何度も、自分の唇をそっと指先でなぞった。


(これが、恋)


 自分が誰かの隣にいて、当たり前のように気持ちを交わし合っている——そんな日が来るなんて、きっと少し前の自分なら想像もできなかった。


 でも、今は。


(……あなたといる私は、嫌いじゃない)


 透華は、頬にかかる髪を指で払った。


「また、明日も……会いたいな」


 その小さな呟きは、夜の風にさらわれて消えていったけれど、確かに、心の底からの本音だった。

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