第42話 「私は幸せ」
――恋人。
昨日までは、そんな言葉が自分に関係あるなんて思っていなかった。
私は周りから見て“茨姫”だったし、友達も作らないし、ましてや誰かを「好きになる」なんて、縁のない感情だと思ってた。
けど、昨日——
『……俺、お前のことが好きだ』
『私も、あなたのことが好き』
あのとき交わした言葉が、ずっと胸の奥に残っている。
しばらくの間モヤモヤしていた二人の関係にちゃんとした名前がついた。
それなのに今日の朝から、私はどうにも落ち着かなくて、制服のリボンを結ぶ手も微妙に震えていた。
恋人って、どんな顔して会えばいいの?
どうやって話せばいいの?
友達とは、何が違うの?
スマホを手に持って、何度も画面を開いては閉じる。
(“おはよう”って、送ったほうがいいのかしら……)
そんなことを考えている自分が、なんだかちょっとおかしくて。
でも、昨日までの私とは確かに、何かが違っていた。
御影学園の授業が終わって、下校の準備をしながら、ふと窓の外を見る。
もうすぐ会える。
その事実が、胸の奥を温かく揺らした。
待ち合わせ場所は、いつもの公園のベンチ。
少しだけ、早めに着いた。けれどベンチに座る気にはなれなくて、私は近くの電柱にもたれかかって、遠くを眺めるふりをしていた。
5分。
10分。
スマホを取り出しては時刻を確認し、そのたびに胸がざわざわと波立った。
(早く来ないかな……)
そう思っていたら、ふと、視界の中に見慣れたシルエットが入ってくる。
リュックを肩にかけて、少しだけくたっとした制服。無造作に風に揺れる前髪。
風間悠斗が、そこにいた。
彼と目が合った瞬間、私はほんの少しだけ息を飲んだ。
「よっ、待った?」
「ううん、私が早く着いただけよ」
そう返したつもりだったけれど、思ったより声が高くなってしまって、私は一瞬だけ視線を逸らした。
悠斗は、笑っていた。
「じゃあ行くか」
「ええ」
そのあと、駅前のカフェで他愛もない話をした。いつもなら、気軽に笑って返せるはずの冗談に、今日は少しだけ表情を作るのが遅れる。
会話の合間、ふと、悠斗が真顔になった。
「なあ、透華」
「なに?」
そう答えると、彼は少し間を置いて——
「手、つないでみる?」
そう言った。
……一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「……え?」
「いや、なんか。付き合ってるなら、そういうのも、まあ……普通?」
彼の手が、ゆっくりと私の前に差し出される。
白くて、少し節のある手。
しばらく私は、その手を見つめていた。
(手をつなぐだけ——それだけのことなのに)
なのに、胸がバクバクと音を立てている。
でも、私は勇気を出して、自分の手を差し出した。
指先が触れ合い、彼の手のひらが私の手を包み込む。
その瞬間、電流が走るように心臓が跳ねた。
「……変な感じね」
「まあな。俺も慣れてないし」
「でも……あたたかい」
思わず漏れた言葉に、悠斗はふっと笑ってくれた。
(ああ、この人の隣にいると、やっぱり落ち着く)
そのまま二人で駅へ向かう帰り道、さっきよりも自然に並んで歩けていた気がする。
手の温もりが、何よりの証拠だった。
「……ねえ、悠斗」
「ん?」
「また……明日も、会いたい」
私の口から出たその言葉は、まるで息をするように自然だった。
悠斗は一瞬きょとんとした後、笑った。
「おう、俺も」
私たちは、ゆっくりと歩いた。
何が変わったのか、まだちゃんとは分からない。
でもきっとこれは、“恋人”という関係のはじまり。
まだ、よちよち歩きのようにぎこちない。
けれど、この人と一緒なら、少しずつ前に進んでいける気がした。
(明日も、明後日も——きっと、もっと)
心の奥が、少しだけ甘く、暖かくなった。
(彼氏って、こういうもの?)
まだ分からない。
(カップルって、こういうもの?)
まだ分からない。
――でも、今の私は、すごく幸せだ。
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