枝の上の子猫

宙灯花

1 枝の上の子猫

 小学校からの帰り道、私は何かの気配を感じて立ち止まった。そこには、みんなが御神木と呼んでいる木が立っていた。

 でも近くに神社はない。ヒラヒラとした紙の飾りはないし、太い綱も巻かれてはいなかった。

 声が聞こえた。空気が漏れているような、力のない叫びだった。

 見上げると、つま先で立ってようやく手が届く枝の上に、黒い毛の塊がうずくまっていた。子猫だ。

 自分でそこに上がったとは思えない。震えている小さな足に、そんな力があるようには見えなかった。

 くすぐったくて温かかった。宝物を見つけた気分で抱き締めて、白い息を吐きながら走って帰った。

 マンションのドアを開けると、母が怖い顔をした。

 もうすぐ二年生なんだから。

 ことある毎に、母はうんざりしたようにそう言って私を責めた。

 負けるものか、と思った。だから一言も言い返さずに家を出た。

 うつむいて歩くうちに御神木の前を通り過ぎて土手に出た。

 腕の中の大切なものを、どうしていいのか分からなかった。このままどこまでも歩いていくのだ。そんな暗い高揚感だけが私を支えていた。

 冷たい水滴が頬に当たった。傘はない。風が耳を痛くする。

 急に心細くなって、涙を抑えきれなかった。足の力が抜けた。湿り始めた土手の枯れ草の上に座るとお尻が濡れた。でも、もう立ち上がることはできそうにない。

 日の暮れた川は、ただの黒い帯だった。暗くて怖い。電球にブリキの傘が付いた電灯が遠くに見えているけれど、そこまででさえ、歩ける気がしなかった。

 私は薄闇の中で、膝の上に抱いた子猫をなでながらため息をついた。寒さに肩が震えた。

 ふいに、薄い影が差した。

 何やってるんだ、千尋ちひろ

 顔を上げるとしょうくんが立っていた。

 もう夜だぞ。それに雨だ。

 猫の話をしているうちに、だんだん鼻の奥が痛くなってきて、また涙が出た。

 要するに、だ。

 翔くんは私と一緒に凍るような雨に濡れながら、大人みたいな話し方をした。

 そいつをなんとかすればいいんだろ。

 私は子猫を取られまいと、翔くんから隠すように抱き締めた。

 翔くんは笑った。

 うちはマンションじゃないから。

 そう言って差し出された手に、今にも壊れそうな宝物をそっと乗せた。

 任せろ。

 まだ乾いていない目で翔くんを見上げた。

 今、ここにいるのは、私の願いを叶えてくれる人なんだ。そう思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る