第2話 壊れゆく日常

 九月の西陽が沈みかけた薄暗い夕暮れ、金浦兼子かねうらかねこは古びたアパートの階段を竹箒ほうきで掃いていた。


 木造の二階建は軋み、塗装が剥がれた手すりからは錆びた鉄の匂いが漂う。


 夫が死に、息子が隣県に世帯をもって以来この寂れた建物が彼女の全てだ。入居者は少なく、空室が目立つが、家賃さえ払えば文句はない。


 そんな店子のひとり、磯本広大いそもとこうだいは冴えない中年男だった。


 体重は三桁を超え、脂でテカる薄い髪、背脂ラーメンとコンビニ弁当で膨らんだ腹。

 その姿は信楽焼のタヌキを思わせる、よくいえば愛嬌のある風体をしていた。


 定職に就かず、日雇いの警備員やコンビニバイトで糊口を凌ぐ。

 だが、挨拶はきちんとし、ゴミ出しのルールも守る。兼子にとっては「まぁ及第点」の店子だ。


 兼子の知ることではないが、磯本には密かな趣味があった。

 それは部屋に籠もり、AVを観ること。

 若い頃から異性に縁がなく、画面の中の美人に憧れを抱き「いつかこんな人に愛されたい」と現実逃避していた。


 鏡に映る脂ぎった姿とのギャップに苛立ちながらも、彼は孤独を紛らわすようにその習慣を続けていた。


 まぁもっとも、そのくらいの事をしていても不思議はないと思ってはいたが。


 一週間前、その磯本に異変が起きた。


 国道の交通整理から帰ってきた彼の制服は汗でビチョ濡れで黒ずんでいた。まぁそれはいつも通りだ。


 だがその日は決定的に異なることがひとつあった。


 すれ違うとき、異様に甘ったるい香水の匂いが漂ったのだ。


 階段で出くわした兼子が「お疲れさま」と声をかけると、いつもの慇懃な敬礼はなく太い太ももを擦り合わせ内股で手を振って通り過ぎた。


 薄暗い階段に響く足音は湿った肉の擦れる音のようで、背筋がぞくりとした。


「あんた…どうしちまったんだい?」


 兼子が箒を落とすと、磯本は「ふん」と鼻息を荒くし、闇に消えた。


 その瞬間、汗に混じったユリの腐ったような匂いが鼻を刺し、吐き気を催すほどの臭気に兼子はよろめいた。


「タチの悪い女にでも引っかかったのか」と老婆心を働かせたが、心の奥で何か不穏なものが蠢いた。


 翌日から、磯本は部屋に籠もり、仕事に出なくなった。


 たとえ雨だろうが雪だろうが、公休以外休むことのなかった磯本。

 彼ならたとえミサイルが降っても仕事に行くだろうと兼子は本気で思っていたのだ。そんな磯本が仕事を休み続けている。


 その代わりに、磯本の部屋からは昼夜問わず奇妙な喘ぎ声や叫び声が響くようになった。


「怖い」

「うるさい」

「不気味」

「気持ち悪い」


 アパートの薄い壁を震わせる騒音に、他の店子がひっきりなしに苦情を訴える。



 ある日、兼子が掃除をしていると、磯本のふたつ隣の部屋に住む大学生・里中が青ざめた顔で震えながら声をかけてきた。


「気持ち悪いんです…駅からずっと誰かに跡をつけられてるんです…」


 彼の話ではここ数日、暗い道を「太った女」が這うように追いかけてくるという。


 ムッチムチのボディコンに押し込まれたスライムのような崩れた体型。

 顔に塗りたくられた漆喰のような化粧が闇に浮かび、腐った花のような匂いが吐き気をもよおすらしい。


「里中くんそれ、本当かい」


 兼子の背筋に毒虫の這うような悪寒が走った。


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