第10話 揺れる心
夜の帳が降りた街を歩きながら、優理香は自分の胸の内に広がる波紋を抑えようとしていた。指定された待ち合わせの喫茶店は、幸樹の会社からほど近い場所で、よく待ち合わせに使っていたので優理香は迷うことなく進んだ。ただ僅かな戸惑いもあった。その場所は、昨晩彼が白木芽衣と共に消えたラブホテルの近くでもあったのだ。どうしても二人のことが頭をよぎる。
そして、喫茶店の扉の前で立ち止まる。硝子越しに見える暖かな店内の明かりが、優理香の足を鈍らせた。胸の奥が妙にざわつく。
彼は知らないが、私は知ってしまった、彼の裏切りを。
どんな顔をして彼に会えばいい――?
平静を保てるの?
深く息を吐き、意を決して優理香は店内へと歩を進めた。
ドアが開く音に気づいたのか、幸樹はすぐに顔を上げ、にこやかに手を振った。昨夜のことなどなかったかのような、いつもの笑顔。瞬間、優理香の中で怒りとも悲しみともつかない感情がふつふつと湧き上がった。
(どうしてそんな顔ができるの? 私を裏切っておいて……)
だが、その思いを表に出すことはできなかった。表情を繕い、静かに彼の待つ席へ向かう。
「やあ、優理香、突然呼び出して悪かったな?」
幸樹が軽い調子で言う。優理香は微笑みを作りながら、「いいえ」と短く返した。突然なのはいつものことだ。言った幸樹も悪いとは微塵も思っていないだろう。
メニューを広げるふりをしながら、彼の様子を探る。しかし、そこには何の違和感もない。昨晩、他の女とホテルに入った男には到底見えなかった。
「コーヒーをお願いします」
注文を終え、幸樹と向かい合う。テーブルを挟んで、いつものように交わされる何気ない会話。しかし、どこかぎこちなく、どれだけ言葉を並べても、心の奥底に渦巻く疑念は晴れなかった。
カップに手を伸ばし、コーヒーを半分ほど飲んだところで、幸樹がふと話題を変えた。
「そういえば、この間頼んだことなんだけど――」
その言葉に、優理香の指がぴくりと動いた。嫌な予感がする。目の前のカップの中で、液体がゆらゆらと揺れている。
「……何のこと?」
警戒心を隠すように、努めて穏やかな声を作る。だが、次の瞬間、彼が口にしたのは――
「ほら話しただろ、少し用立ててくれないかと……」
周囲を気にしてか、声を潜める幸樹。
そうだ、そのために自分は会社の帳簿をいじり――
あれが始まりだった。いま置かれた奇妙な状態の……
優理香は、こわばる指先を悟られないように、そっと膝の上で拳を握る。彼が何のために金を必要としているのか? 考えるまでもなく、その答えは頭の中で点と点をつなぎ、ひとつの線を描いた。
あの女のため――
唇が引き結ばれる。そんな優理香の反応を見逃すはずもなく、幸樹は周囲を見回しながら、
「ここじゃ何だから、もう少し静かなところに行こうか」
と提案した。
ここは、金はまだ用意できてない、と断り、帰るべきだった。それが正解だ。理性では分かっている。
でも……
「わかった……」
優理香は静かに頷いた。それを合図に席を立つ幸樹。優理香も黙ってそれに続いた。
街の光が滲む中、幸樹の背中を見つめながら歩く。どこへ向かうのか――優理香にはある予感があった。
だって、彼の歩む道の先には、昨夜自分も訪れた場所が――
「……ここ?」
昨晩彼と白木芽衣が消えたラブホテルを前に、優理香は思わず立ち止まり訊き返した。
全身の血が逆流するような感覚に襲われ、息が詰まり、喉がひりついてくる。
「ああ、ネットで面白そうな部屋を見つけたんだ。――ダメか?」
「……いえ」
嫌われたくない――
彼が望むなら、私の気持ちなんて……
優理香は、心の中に湧き上がる昏い情念を抑えつけ、何事もないかのように幸樹と共にホテルの中へと入っていった――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます