第6話

道を歩き始めて、数時間――。


そろそろ涼しい風だとか、小鳥のさえずりだとかが、癒し系の背景音から、不愉快極まりないノイズに変わってきたころだった。


「……そろそろ疲れました」


ぽつりと呟いたのは、詞音だ。


ちらりと視線を送ると、額に汗が滲んでいる。

露骨に疲れている感じはないが、いつもよりわずかに歩幅が狭い。


「大丈夫か?」


「正直、足が痛いです。でも、歩けなくはないです」


気丈に返すが、語尾は若干怪しい。

つまり無理をしているわけだ。

まあ、俺としてはまだ余裕があった。


異世界に飛ばされて以来、不思議なほど疲れを感じない。

体力にはそれなりの自信があったが、それを差し引いても快調そのもの。


となれば当然、思うことは一つだ。


俺はいいけど、詞音がつらそうだな。もうちょい楽に移動できればなあ……。


そんな俺の内心は、いつだって容赦なく言葉になる。


「もっと楽な移動方法があればいいのにな」


しまった。思いっきり口にしてしまった。


瞬間――


「えっ……ちょっと!?」


詞音が俺に抱きついていた。


いや、抱きつくなんて生易しい表現じゃない。

彼女は俺の腕の中、いわゆる『お姫様抱っこ』を受動的に実践中だった。


「なっ、何してるんですかあなたは!?」


「はぁ!?いやいやいや、お前が勝手にしがみついてきたんだろうが!」


「違います! これ私の意思じゃないです!」


「俺の意思でもねーよ!」


混乱した詞音の叫びと俺の絶叫が不毛に交錯する。

そこで、呑気極まりない第三者の声が響いた。


「ああ、『楽な移動方法』って言ったから、強制的にその言葉が実現されたわけだね」


「納得できるかああああ!!!」


俺は盛大にツッコんだ。

しかし、詞音はツッコミどころではない。

普段の冷静さを完璧に喪失して、顔面は真っ赤に茹で上がり、瞳は激しく動揺して泳ぎ回っている。


そのくせ腕の力は緩まない。

つまりまだ抱きついている。


「い、いいから解除してください!今すぐに!」


「俺だって解除したいわ!」


「あの、詞音は自力で立った――!」


無理やり文をひねり出すと、詞音の体がふわりと俺から離れて地面に着地した。


「あ、よかった……」


安堵した次の瞬間。


バシィッ!!


俺の頬に詞音の平手が炸裂した。


「言葉に気をつけろって、いつも言ってるでしょう!」


「俺のせいかよ!?」


「そりゃそうでしょう!?」


「俺だって迷惑なんだよ、この世界の言葉の仕組み!」


叫び声は虚しく森に吸い込まれた。


ひとしきり怒鳴り合って、やや冷静さを取り戻したのか、詞音がふっと微笑む。


「ねえ、一騎くん。あなた、結局この世界で何がしたいんですか?」


その問いは奇妙に冷静だった。


俺は少し考えてしまう。

この世界に来た理由なんてない。

事故って死んだら、なんとなく転生されて、気づけばこんな面倒な世界に投げ込まれていた。

言葉が強制力を持ち、口にした瞬間それが現実になる。

うっかりした独り言も許されない、そんな不自由な世界――。


「俺は……」


答えはすぐには出ない。

けど、口は勝手に動き続ける。


「この世界の言葉のルールを解き明かす」


思いがけない宣言に、詞音が目を細める。


「そして、俺は――黙りたいんだ」


「喋ることが宿命のあなたが?」


結局のところ、望むのは静かな生活だ。

だが、この世界のルールがそれを許さない。

だったら、やるべきことはただ一つ。


「沈黙するために、俺はこの世界の言葉を知り尽くす」


それは皮肉なことだった。

沈黙するために言葉を重ねるなんて、火を消すために燃料を放り込むようなものだ。

でも、それ以外に方法がない。


知れば知るほど、言葉は増え、ますます俺を縛り付ける。

これは呪いだ。あるいは、責務という名の宿命だ。


詞音は小さく、呟くように語った。


「言葉がすべてを決定する世界。それが、この世界です。迂闊な発言も、軽はずみな願望も、すべて言葉が現実にしてしまう。だからこそ、言葉は重くて怖い。あなたのその力は――最大級に最悪ですよ」


そう。最大級に最悪だ。

だから俺は、この呪縛から逃れる方法を探す。


沈黙するために、俺は饒舌になる。

言葉を封じるために、誰よりも言葉を尽くす。


そうして俺は、矛盾にまみれたこの世界を、生きていくしかないのだった。

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