36 セド
「この本は、翻訳が終わっているのですか」
「あ、ああ。殆ど終えて、残すは著者のあとがきだけだ」
「内容は?」
「そこに積んである紙束だ。清書前の走り書きだが――」
ゼファ様の言葉を聞き終わる前に、指差された紙束を卓上からひったくる。軽妙な筆致で書かれた現代世語訳を食い入るように速読し、概要を掴む。
――それは、魂を砕き、その欠片に記憶を封じ込める術。
「……そのような芸当、人には出来ぬ。それらしく書いておるだけで、再現できるとは到底考えられぬよ」
人間では、だ。
だが、神なら?
悪寒がする。ムウさんはきっと、ずっと、ずっと前から。
訳を一通り読み終えて内容を把握すれば、次に原著に手を伸ばす。パラパラとめくって、著者あとがきの次のページ、その余白に、見慣れたセピア色のインクが目に飛び込む。
現代世語ではない、原文の古代語でもない、また別の言語。しかしやや癖のある字から、ムウさんの手書きのものだとわかる。
「ゼファ様っ!」
悲鳴に近い声で訳者の名を呼ぶ。冷静でないことくらい自覚している。それでも止められない。
「何と、これは何と書いてあるのですか」
「どうしたのだ、さっきから」
「ムウさんの字なんです」
縋るように原著を突き出した。ゼファ様は中を覗き込んで、少し考えた後、本棚からいくつか辞書を取り出した。
「
そうか、ムウさんは元々
「我が話していた古代西方語と文法は共通しておる。すぐ対訳出来る」
そうしてゼファ様は、辞書を開いて聞き慣れない言葉を話しながら、古い字体を空の紙へと書き連ねていった。線を引いたり、印を付けたりするのを暫く見ていると、別の紙へと現代世語を書き始めた。
「何の意だ? これは」
『日差しを守りたいなら、古い家を訪ねなさい』
「日差し……?」
「意味が通らぬな。暗号か?」
「何かを守りたいのに、どこに行けと言うのでしょう」
「まるで裏があるような……裏?」
ゼファ様がハッとして、また別の辞書を取り出す。
「古代
苦い顔をしながら、また新しい紙を取り出し、乱暴に書き付けていくのを見る。
「近代
ゼファ様のペンは複雑な文章を少しずつばらして、そのひとつひとつの単語をなぞる。知らない語彙を呟きながらメモが取られていく。
「ここは文法から推測すると……否定形。いや、強い禁止形だろう。……なれば、エディラ、でなくここは、エルドアイド。……日射し、も広義的に……陽光とすれば、セデアーテでなく……セ……」
ペン先の動きがピタリと止まる。ゼファ様がゆっくりとこちらを見、透き通る紅い双眸で捉えられる。
「……セ、ド」
『
急に名前を呼ばれ、どきりとする。
焦燥感がピークに達し、悩む間もなく、次の行動を決める。
このままでいい訳がない。ムウさんが己が魂を削って閉ざした何かがあるなら、ムウさんの一部が欠けたままなら、早く解き放たねばならない。その結果、僕が危険に晒されようとも構わない。誓ったのだ――ムウさんを幸せにする、と。
二度と、あのような寂しそうな顔をさせちゃだめだ。そのためなら僕はなんだってする。
「ゼファ様――ムウさんの先代、ニコ様はどちらにお住まいでしたか」
「行くなと書いてあるが」
「行かせてください」
「……小都ライエールの近く、シミエ村から見える海岸沿いの一軒家だ」
「ありがとうございます」
僕は書斎の窓を開け放ち、靴も履かずに窓枠に足をかけ、マナの波へと飛び込んだ。今までよりも遥かに速く、空を駆けていく。もう遠くなった窓から、ゼファ様がこちらを見上げているのが見えた。
・ ・ ・
一度自宅へ寄った。
戸を叩くこともせず、そのまま自室へ入る。行きに置いていった小刀と軽食と水、そして地図を携えなおし、耳裏のアンプルがまだあることを指先だけで確かめる。
靴紐を締め直していると、小さな足音がこちらへ近づいてきた。
「セド。帰っていたのか」
「……ムウさん」
10歳くらいの少女の姿をした神。深緑の髪から覗く長い耳。魂の変質の表れである一対の角。そのすべてで、何を抱えて、決断したのだろう。
「すみません、またすぐ出ます」
「忘れ物でも?」
「ええ。シミエ村に置いてきました」
コツコツと靴の先で床を叩けば、出発の準備が整えられる。ムウさんが僕の言葉の意味を理解すれば、穏やかな表情をひっくり返して、驚きと……怯えのような表情を浮かべた。
「……まさか、読んだのか!? 〝劇薬〟を」
「大丈夫です。ムウさんのこと、絶対幸せにしますから」
「おい話を逸らすな……逸らさないでくれ……!」
否定も肯定もしない。代わりに、挨拶だけを返す。
「行ってきます」
「待て――セド!」
ムウさんの叫ぶ声が聞こえる。止まっている暇はない。
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