32 砕く

 二刻くらい大人しくしていれば、まだ全身にチクチクとした痛みが残ってはいるものの、ある程度動けるようにはなった。不慣れな体の異常があると、思わずじっくりと考え込んでしまう。僕の身体の何がどう痛みに作用しているのだろうか、この痛みを抑えるにはどの薬が有効なのだろうか、と。職業病みたいなものだ。


 用を足しにそろそろとベッドから降りて、板張りの床の上を素足で歩く。足裏から伝わるひんやりとした感触によって、あのマナの熱さが思い出される。


 あれはなんだったのだろう。夢と呼ぶには生々しく、鮮烈な記憶。


 厠の中で、僕はそっと自分のみぞおちのあたりを撫でた。ここに皆、魂が宿っている。僕も他の人も、あらゆる生き物も、神も。そして多分、あの竜も。


 僕たちは姿かたち以外、何が違うのだろう。肉体とともに何を宿し、背負わされるのか。神となるとき、肉体とともに何を手放すのだろうか。



 手を洗って書斎に向かい、ノックして戸の向こうのゼファ様に声を掛ける。


「あの、動けるようになりました。ご心配をおかけしました」


 奥から聞こえるペンの音が止まり、しばらく待てば戸が開けられる。ゼファ様が僕の表情をまじまじと見下ろしたあと、目元を緩めて、良かった、と呟いた。……あれ、こんな笑い方をする方だっただろうか?


「ゼファ様は、翻訳のお仕事中でいらっしゃいましたか」

「いや――記録を」

「記録?」


 書斎の机の上を見ると、ゼファ様の手記が開かれていた。視線が外され、紅い瞳が揺れるのが見えた。


「……ケルクは氷の中位神だったのだ。十年に一度程しか会わんかったが、妙に馴れ馴れしく、我に会う度、聞いたこともない娯楽に連れ出しおる。困った奴だった」


 のしりと僕の横を通り過ぎ、そのまま居間へと向かうのでついて行った。氷の中位神と聞いて、あの巨大な竜が吐き出していた冷気を思い出す。あれは、ゼファ様のご友人でいらっしゃったのか。どんな気持ちであの竜と向き合っていたのだろう、と思いを巡らせれば、胸がぎゅっとなる。居間で向かい合って座り直せば、ゼファ様がかすかに口を開いた。


「話を、聴いてくれるか?」


 断る理由などどこにもなかった。



 ――数日前、ゼファ様のもとをケルク様が訪れた。その時には既に体の形が変わるほど変質が進んでいた。何故ここまで放置したのかとゼファ様が問えば、ケルク様はもう人の言葉を話せなくなっており、代わりに鳴き声で返された。


 ゼファ様は、人のいない開けた草原へとケルク様を直ちに送り、届かないと分かっていながらも想い出と感謝を語り続けた。世界各地でともに参加した競技や祭り、一緒に埋めた果樹の種が今どうなっているかや、ケルク様のしていた天文の研究内容など、一睡もせずにただ言って聴かせた。


 数度ともに夜を越した頃、とうとうケルク様はその体を破るようにして、はぐれた神の末路――竜化を辿る。人に戻す手段はもうなく、あとは魂を砕くのみ。どのように手を下すか考えあぐねていたところ、僕が現れた。……といったところだ。


 ゼファ様は友人を喪って弱っているのだろうか、表情を柔らかくしたり悲痛そうにしたり、ころころとその色を変えた。今まで見てきたゼファ様よりずっと表情が豊かで、もしかしたらこれが本来のゼファ様の性格なのかもしれない、と思えるほど自然で、そして痛々しかった。


「大事な方、だったのですね」

「魂が砕かれれば、死者の国でも会えぬと思うと……虚しいな」

「はい」

「誰も彼も我を頼って、先に逝ったり狂ったりしおって」

「……はい」


 きっと、長く生きる中で数多くの友人を喪ってきたのだろう。そしてゼファ様はその多くを抱えてきた。永久に近い時間の中、たった、たった一人で。


 何が人嫌いなんだ。こんなにも誰かを想い、その記憶を大切にしてきた人が、本当に人嫌いなわけがない。


 僕はそっと、ゼファ様の手へ自分の手を重ねていた。僕が悲しみに暮れていたとき、ムウさんがしてくれたことの真似事だ。ゼファ様は目を見開いて驚いたが、しばらくしてゆっくりと握り返される。


「せめて我も、気でも狂えたら楽であろうのにな」


 ゼファ様の長い袖の隙間から、逆立つ鱗が見えた。か細く、頼りない声が静かな居間にこだまする。


「本当に……神になどなるべきでない」

「……神であることを、辞めたいですか?」


 何気ない僕の問いに、ゼファ様がはっと目を見開く。

 今この世界でおそらく唯一、僕の存在だけがそれを成し得る。僕に神を継がせれば、ゼファ様は人の肉体を取り戻し、有限でごく短い時間を過ごせば、ゼファ様も死者の国で亡き友人たちに会える。これ以上誰かを見送り続けることはしなくていい。


「絶対にならぬ」


 ゼファ様は歯を食いしばって俯いた。握られた手に力が込められる。


「お主が望まぬのに、神を継がせるなど。ならぬことだ」


 僕が、望めば。

 けれど今の僕には、神になるための理由は――ゼファ様を説得できるだけの材料は、なかった。

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