7 人間離れ
樹上狼は猪なんかを喰っている場合じゃない、こいつは危険だ、と咄嗟に判断し、僕へ向き直り、唸りをあげる。
「グルルル……」
瞬間、狼は近くの茂みに入り込み、そこから伸びる幹を駆け上がり、枝と枝を駆け渡り、僕をめがけて飛び降りる。
「よっ――と」
僕はバッグから麻袋を取り出し、そいつの顔面に真っ直ぐ放り投げた。直後、地面を思い切り蹴って、右側の地面へ勢いよく滑り込む。元いた位置に狼が着地したかと思えば、狼は粉まみれの顔をぶんぶんと振り、もがいた。
「フェアリーバタフライの鱗粉とシビレアカユリの花粉だよ。相当ムズムズするんじゃないかな」
狼は混乱しながらも、聴覚を頼りに僕へと走ってくる。麻袋の粉のせいで前は見えていないらしい。向かってくる勢いに沿わすように、狼の目へ小刀を叩き込む。
「オオオッ――!」
狼は痛みにもがき、地面へ倒れ込んだ。走れなくするために、すかさず狼の腱を切る。そして最後に首の動脈へと刃を立て、意識を失うのを見届けた。
さて、次は――。
「おい! 急にどっか行くなって!」
先ほどまで一緒に話していた青年が、息をゼエゼエと切らしながらこちらへ走って来る。
「あー、ごめん。……そうだ、君って革細工やるんだよね?」
「あぁ!? そ、それがどうしたんだよ」
「猪を診てくれないかな。動物に触れる機会は多いでしょ」
わかった、と一言だけ残して猪のほうへと駆け寄ってくれた。僕はとりあえず、樹上狼をざっくり血抜きして、一番近い客車へ乗せさせてもらう。乗客には悪いけど、このまま死体を置いているわけにはいかない。飢えた獣に街道を荒らされて今後通れなくなるくらいなら、アイドレールへ持っていって焼いて食べるつもりだ。
猪のほうを見やると青年が手を振っていた。急いで駆け寄る。
「こいつ、命に別状はなさそうだ。背中を大きく噛みつかれてるけど、心臓や脚、ほかの急所も無事。でもクソ痛ぇだろうな、歩くのも難しいだろ」
「痛みだけなら、うーん。賭けてみるしかないか」
取り急ぎカバンからボトルの水を取り出し、猪の傷口を洗った。構わずあふれ出る血を腰の布でざっくり拭う。カバンからガーゼを取り出し、耳裏に隠したアンプルをもう片方の手に取って、前歯でバキンと割った。
アンプル内の液体をガーゼに染み込ませ、まんべんなく傷へ塗っていく。心なしか、猪の表情が和らいだ気がした。最後にガーゼを広げて、傷口を覆うように乗せれば、さらに上から血を拭いた布で覆って、胴ごと縄で縛った。
「あの、車掌さん。半刻ほどこの子の上に乗っててもらえますか」
「お、おお……大丈夫、なのか?」
「ふつう、人間の重さに耐えられると思うのですが……要は、止血がしたいのです。あとかなり強力な麻酔を塗ったので、それくらい経てば、この子は歩けるようにはなると思います」
「まあ、普通の渡り猪なら人が乗っても潰れないし、大丈夫だ。任せてくれ」
「ありがとうございます」
礼を言うのはこちらだ、と車掌さんにすごく頭を下げられた。青年とアイコンタクトを取り、歩いてもとの客車へ戻る。
「しかしお前、よくあの狼を仕留めたなあ」
「樹上狼って、死角から飛び込んでくるから恐れられてるだけで、割と賢くはないんだよね。野良犬のほうが頭が良いかも」
「はー、そういうもんかよ」
「そういうものさ」
客車に乗り込み、一息つく。血のついた服を脱いで上裸になると、青年の目線がこちらへ注がれた。
「やっぱ、山暮らしだといい身体になるのかね」
「あまり見ないでよ、恥ずかしい」
「ちょっとだけ触らせてくんね?」
「えー」
拒否しきる前に青年の手が腹に触れる。くすぐったい。そういえば、手以外の部位を他人に触れられるのは久しぶりだな、とどこか冷静に考える。まして、ムウさん以外――人間に。
「……人の手ってあったかいんだね」
「人間離れしたことばっか言いやがって」
しばらくして、客車がギイと音を立てた。間もなくゆっくりと動き始める。
「治ったのか?」
「というより、誤魔化した、かな」
混乱していた乗客も、客車が動き出したことで幾分か冷静さを取り戻す。やがてだんだんと速度が上がり、事故前ほどではないにせよ、その7割程度の速度をキープして走る。車輪の音が響く中、僕は声を潜めて話す。
「あんまり大きい声で言えないんだけど。強力な麻酔って言ったけど、あれは人間用だし、なんなら毒の類なんだよね」
「えっ!? 大丈夫なのかよ、あの猪」
「わからない。もしかしたらこの後、脳に回ってダメになるかも。ただ、あのまま道に転がしておくのも良くないと思って」
「まぁ……アイドレールに行けば、腕の立つ獣医とかいるかもな。祈るだけ、か」
「そうだね。無事を祈ろう」
予定より二刻遅れて駅に着く。行商人から度数の高い酒を買い、そのアルコールで猪の傷口を消毒する。布やガーゼも新しいものを準備し、出発時刻までは傷口を外気にさらして乾燥させる。
傷を負った猪は、ほとんど元気そうに見えた。水も食事も十分に摂っている。だが、他の猪たちと比べると、どことなく酩酊しているような雰囲気があった。
他の乗客たちに手伝ってもらい、猪に新しいガーゼと布を巻き付け、替えの服に着替えて出発の準備を整える。アイドレールまでもう間もなくだ。
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