3 気丈なふり
僕の成人の誕生日から2週間。何だかよくわからないが、このところムウさんが上の空であることが増えた。研究に没頭しているときの様子とよく似ているが、それにしては初歩的な操作を間違えるし、薬瓶の蓋は閉めないし、まったく僕がいなければいよいよ生活できないのではないか。とはいえ、神の体はマナでできており、食事や睡眠、病気とは無縁なので、最悪どうとでも生きていけるのだが。
それに、夜一人で外出されることが増えた。どこへ行っていたか訊いても「その辺で薬草を採っていただけだ」としょうもない嘘をつく。隠し事をしたくなる時だって誰でもあるだろうから、笑顔でそうですか、とだけ返している。第一、採取に行くときのムウさんは、わざわざふもとの村でパイや干し肉を買いに寄るなどしない。明らかに僕に対するご機嫌取りや誤魔化しの類である。
今日は珍しく真っ昼間から僕に隠れて出かけようとしていたので、このあと寒くなるので、羽織を忘れないでくださいね、と声を掛けた。ムウさんは無言の外出がバレてばつが悪そうにしていたが、何か突然に思い立ったように顔をあげ、有難う、と告げ家を飛び出していった。
どこに行くのかと窓から顔を出すと、すでにムウさんの輪郭が崩れて光る粒子となり空に溶けていた。御神体がマナ構成体だからできることだ。ひときわ強い光を放ちながら魂が高速で地を駆けていき、微粒子のマナの光たちが追従する。それも一瞬のことで、あっという間に光が見えなくなってしまった。
あの様子だと暫く家に戻らないだろうな、と思う。
(……掃除でもしようかな)
窓の外はぴかぴか明るい。まずは布団を干そう。それから家中の窓を開けて、見えないところの埃を取って、掃き掃除と拭き掃除。それが終われば窓を閉めて虫除けの香を焚きしめよう。よし。
ムウさんが家に戻ったのは、5日後だった。
しばらく帰らないと思っていたが、まさかここまで遅くなるとは。黙って出掛けてもいつも次の日の夕方には帰ってくるのに。
音を立てないように玄関の戸を開け、忍び足で自室へ戻ろうとするムウさんへ、おかえりなさいと声をかけた。相当びっくりしていたし、何だかムウさんが小さく見える。いや、見た目は少女なのでもとから相当に小さいが。これではまるで、母親に怒られるのが分かっている悪戯っ子みたいじゃないか。
ぎこちなくムウさんはこちらへと振り返り、目を合わせないまま、手をもぞもぞさせて俯いた。
「その……わ、悪かった」
「ご無事でなによりです」
本心ではある。ただ、聞きたいことはたくさんある。しかしムウさんが自発的に謝ったり、反省の色を見せたりするのは大変稀有なことだ。たぶんムウさんは叱ってほしいのだろうが、僕の僅かな反抗心が、叱責を喉に留め置く。もう成人したのだから、大人としての余裕というものを見せてやらねばならない。にこり、と微笑んで、あえて何も言わないでいた。
「……怒るのも無理はない、な……きょ、今日は掃除を手伝うよ……」
「もう済ませてあります」
「……あ、じゃ……飯の準備……」
「下ごしらえは終わっているので、あとは火を通せば出来ますよ。お腹空きました?」
「あ……あ……」
神の体は空腹を感じないので、訊くだけ無駄である。ただニコニコして、償う機会はないぞと言外に示してみせる。それにしても、主人の不在に炊事と洗濯を終えて笑顔で帰りを待っているなんて、ああなんて健気なのだろう。女の子なら引く手数多だろうなあ、僕。
ムウさんはうろうろと視線を彷徨わせたあと、急に気丈なふりをして、ずんずん食卓のある部屋へ向かう。力強くドアを開け、そのまま椅子へドカッと座った。せわしないな、と思いつつも、僕はゆっくりあとをついていく。ムウさんが、床に届かない足をぷらぷら揺らしながら僕に問う。
「……あ、明後日。から、しばらく暇か?」
頭の後ろをわしゃわしゃと混ぜながら、ムウさんは僕に尋ねた。
「まあ、仕事の手伝いがなければ暇ではありますが……」
「じゃあ、暫く家を開けていい。ここへ行くんだ」
手渡されたのは雑にたたまれた藁半紙。開いてみると、このあたりで一番都会の街の地図が描かれていた。その上に赤丸で示されていたのは、大通りから幾分も離れた路地の隙間だった。
「……明後日の夜、ふもとのコフ村へ馬車を手配した。そいつに半刻乗れば駅があるから、そこで降ろしてもらって、渡り大猪の急行車を拾え。丸2日経てば終点の――地図の、小都アイドレールに着く」
「えっ、と……?」
急に饒舌に、いつもの調子で話し始めるものだから面食らってしまった。
「……待ってください。急にいろいろ言われても、何がなんだか。第一、ムウさんは来られないのですか? それと、何のお使いですか」
「そこにはゼファという男がいる。会ってこい」
「ムウさんも――」
「いいから会ってこい。一人で」
「ええ〜……」
流石の僕も、この時ばかりは露骨に面倒そうな顔をしていただろう。しかも急な話の割に、あらゆる準備が済んでいるという。この5日間、一体何をしていたんだ?
ムウさんはイタズラがうまくいった子どものように、クツクツと声を殺して笑うと、テーブルへ包みを置いた。
「通行証と、交通費だ。もう文句はないな」
「えっ、と。ありがとうございます。いち、に……あれ? これ、片道分しかないですよ」
「フ、帰りはなんとかなる」
どこから来るんだその自信は。僕はなけなしのへそくりを持っていくことにした。
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