第20話 豹

 ――今思えば、真矢ちゃんと美舞ちゃんは、似てたんだと思う。


 真矢ちゃんは、昔の美舞ちゃんにそっくりだった。鋭い目つきも、他人を全て拒絶しているような言動も、だんだんと――クラスのみんなと打ち解けていく姿も。


 けれども現在わたしの目の前で、わたしを見下ろしている彼女は、真矢ちゃんに似ているとはとても思えなかった。今の彼女はわたしには別人のように見えるから。

 黒い瞳からは何も読み取れない。普段話してる時に、わたしに向けてくれる微笑みもなく、無表情を貫いている。


 怖い。すごく、美舞ちゃんが怖い。


「ねぇ、公子さん」


 ただ名前を呼ばれただけなのに、びくりと体が跳ねてしまった。それを見て一瞬、美舞ちゃんの眉が下がる。


「あなたが好きよ。ずっと好きなの」


 うわごとのように呟きながら近づいてきて、座り込んでいるわたしに目線を合わせるようにしゃがんだ。何かに縋るような、懇願するような表情で、わたしをじっと見つめてくる。

 わたしは目を逸らしてはいけないような気持ちになって、その瞳を見つめ続けた。


「……なのに、なんであの子なの?」

「あのこ、って」

「豹辻さんのことが好きなんでしょう?」

「み、む、ちゃん」

「ねぇ、なんで私じゃないの? ずっと一緒にいたのに。幼馴染なんて知らない。例えあいつが昔の公子さんとどれだけ仲が良かったとしても、そんなの知ったこっちゃない。私の方があなたのことをわかってる。昔の公子さんじゃない、今の公子さんのことをわかってるのは、私」


「そうでしょ?」と、わたしの肩を両手で掴む美舞ちゃん。もういつ泣き出してもおかしくないような顔を向けられ、今まで美舞ちゃんのことを深く傷つけてしまっていたのだという事実に胸がズキズキと痛んだ。


 わたしが美舞ちゃんの気持ちに、もっと早く気づいていたら。わたしが真矢ちゃんに恋をしていると知ったとき、美舞ちゃんはどう思ったのか。


 ……けれども、もうどうしようもない。美舞ちゃんがわたしなんかのことを好きになってくれたことも、わたしが真矢ちゃんを好きになってしまったことも、変えることはできないから。


「美舞ちゃん、わたしは――」


 しかしわたしの言いかけた言葉に被さるように、美舞ちゃんが声を荒げる。


「――だから、こうするしかなかった!」

「…………え?」


 ……? なんのことだろうと理解しかねていたわたしに、美舞ちゃんは続けて言う。


「こうして、こうやって――あいつを誘き出すことしか……」

「……誘き出す? ……待って、美舞ちゃん、それ、って」


 その言葉でハッとした。今わたしの置かれている状況。なんで今この場で、美舞ちゃんはわたしへの想いを告白したのか。

 そして今、この場で一番の不吉な存在が、美舞ちゃんのすぐ後ろで、ぞわぞわするくらい気持ちの悪い笑みを浮かべているのだ。淀んだ緑色の瞳の、彼。

 そんな彼と目が合った。彼の頭には獣人種特有の、黒い毛で覆われたものが生えていた。ビタンッとコンクリートに何かが打ち付けられたような音が響く。尻尾が地面に打ち付けられたのだ。


 半獣人化したオニキスは、クツクツと大変愉快そうに笑った。


「俺はこの嬢ちゃんの手助けをしてんだ」

「手助け……?」

「簡単なことさァ。まず俺がテメェをあのボロい探偵事務所から連れ去り、ここに監禁する。そして嬢ちゃんはテメェに対して“教育”をする。その間俺はァ――」


 ――テメェを連れ戻しに来た“アイツ”を、仕留める


 そう言って舌なめずりをしたオニキスに、全身から血の気が引いた。彼の言う“アイツ”とは、おそらく彼女――真矢ちゃんのことだ。


 でも、彼女は本当に来るのだろうか? だってさっきまで、わたしは真矢ちゃんにひどいことを言って、傷つけてしまっていた。

 それにあの状況では、あのあと真矢ちゃんが事務所に戻ってきても、わたしはもう家に帰ったと思うのではないか。必ず来てくれるという保証はないはずだ。


「……助けに来ないんじゃァないかって思ってんのか? 心配すんな。アイツは絶対来るからよォ」

「っ、何を根拠に」

「ちゃあんと手紙を置いてきたからなァ。『コイツの命が惜しければ、この元孤児院までひとりで来い』ってな」


 この男はなんて用意周到なんだろうと思って、美舞ちゃんが考えたのではないかとも思った。しかしそんなこと信じたくない。

 オニキスがまともに話せる男ではないとわかっていたので、わたしは美舞ちゃんに訴えかける。


「美舞ちゃん、やめよう、こんなこと。こんなことしても、何もならないよ」


 そう呼びかけても、美舞ちゃんは何も返してはくれなかった。ただわたしを見つめ、ふと肩を掴んでいた両手を離した。

 その離された右手が、わたしの頬に触れる。そっと撫でるように触られ、ゾワゾワとした感覚がわたしを襲った。


「っ、みむちゃん、やめて……」

「今からちゃんと教えてあげるから。あいつのそばにいちゃいけないってこと。私の方があなたを幸せにできるってことを」

「みむ、ちゃんっ」


 何度呼びかけても、彼女には届かない。わたしの言葉は、もう美舞ちゃんには響かない。

 どうしたらいいのか、どんな言葉をかければ彼女に届くのか、必死に考えて、考えて――突然、わたしの頭上から、悪魔のような声が降りてきた。



「――――なぁんてなァ」



 今までとは違う、どこか感情の籠っていない声に顔をあげると、オニキスが――拳を振り上げ――



「っ、危ない美舞ちゃんっ!」

「――え?」



 ――美舞ちゃん目掛けて振り下ろした。



 ――――背中に強い衝撃を受け、は肌の裂けるような痛みにくぐもった声を漏らす。


「ッチ!」


 舌打ちが何故か遠くから聞こえてきたような気がした。思わず閉じてしまっていた目を開くと、わたしの下で、真っ青な顔の美舞ちゃんと目が合う。

 突然美舞ちゃんに向けられた攻撃をわたしは受けた。咄嗟に彼女の背後に回り、自分で隠すようにして守った。ほぼ反射だ。美舞ちゃんに当たるはずだったオニキスの爪はわたしの背中を掠めたのだ。服と肌が切れたのがわかる。


「き、公子さ」


 ついに彼女の瞳から流れた涙を、わたしは拭おうとしたけれど、手を縛られていることに気づいて諦めた。振り返って彼をキッと目を睨みつける。


「どういうつもりなの!? なんで、美舞ちゃんを」


 叫ぶと背中の痛みが強くなる。けれど、問いたださずにはいられなかった。

 オニキスは声をあげて笑ってから、足を上げた。気づけば彼の足は半獣人化して黒豹のように毛むくじゃらになっている。そこから見える、鋭く尖った爪。わたしはまた目を瞑り、体を強張らせて美舞ちゃんの方に向き直る。

 ――そして、また来た背中への衝撃と痛みに、顔を引き攣らせた。


「俺は最初っからこうするつもりだったぜ? そこの嬢ちゃんが勝手に俺を信用したんだ。……まぁ嬢ちゃんはともかく、テメェはまだ生かしておくけどな。テメェを餌にして、アイツ――豹辻に交渉するんだ」


 交渉……。交渉、って、もしかして……。

 わたしは最初にオニキスと会って、連れ去られた真矢ちゃんに彼が言っていたことを、あの“提案”を思い出した。


 ――なぁアンタ。俺たちと一緒に来ないか?


 もしかしてオニキスはまだ、真矢ちゃんを仲間に引き入れようとしてるの……?


「テメェは生かしてやるっつってんだからさァ……早く退けや、死にたくねぇだろ」


 そう言われたと同時に、また背中から伝って走る激痛。そのままぐりっと抉るように爪を背中に立てられ、声も出せずに口の中で悲鳴を押し殺した。


「っ――公子さん、どいて、」

「だめ、だよ……っ、どいたら美舞ちゃん、殺されちゃう」


 わたしは守らなくちゃいけない。ここで退いたらダメだ。絶対にここから動かない。

 けれどもこれをどうやって切り抜けたらいいのかわからない。考えようにもオニキスから与えられる痛みで思考が全て掻き消されてしまう。

 ただ耐えるしかないのか。一体いつまで? どこまでわたしの体が保つんだろう。もう気を抜けば意識は闇に消えそうだ。


「……もう面倒になってきたなァ」


 彼が足を振り上げたのがわかった。今度こそ死んでしまうんじゃないか。死ななくても、もし意識がなくなったら? そしたら美舞ちゃんはどうなる? 真矢ちゃんは――




 ――頭の中に浮かぶ、真矢ちゃんの顔。最初の頃はずっとしかめっ面で、でも徐々にいろんな表情を見せてくれるようになった真矢ちゃん。一緒にいられて、探偵がやれて、楽しかった。そのことを素直に言えば良かったな、なんてことを、今思うなんて。



「――恨むならその嬢ちゃんを恨めよ、クソガキ」

「公子さんッ! ダメっ!」


 ぎゅっと目を瞑り、美舞ちゃんを庇って身構える。その一瞬、わたしは心の中で、あの子の名前を叫んでいた。




 ――――真矢ちゃん!










「――――ハム子!」


 ――わたしの求めていた声が、聞こえた。

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