第3話 悪魔の囁き
二人が静かな空気の中で話を続ける中、ふと渡邉は視線を横に流し、ゆっくりと髪をかき上げた。その仕草は、どこか色気すら感じさせ、普段の明るい顔立ちとは裏腹に、ほんの一瞬だけ不気味なオーラを放った。
瑛二はその瞬間、心臓が跳ね上がるのを感じた。整った顔立ちの男が、さりげなく放ったその仕草に、ただ戸惑いと不安を覚えるしかなかった。
「ねぇ、瑛二くんは…悪魔とかって信じてたりする?」
突然の問いに、瑛二は一瞬、何を言われたのか理解できず、目を見開いた。
「え…悪魔?ですか?」
渡邉はにっこりと、どこか楽しげな笑みを浮かべながら、声を低くして続けた。
「実は、僕…悪魔…なんだよね。本当だよ? 信じてもらえないよねー…だよねぇ。まあ、簡単に言えば、僕は『取り引き』ができるタイプの悪魔なんだ。」
その言葉に、瑛二はため息すら漏らしながら呆然とした。
「すみません…俺、からかわれてますか?」
しかし、渡邉はすぐに首を横に振る。
「違う違う、全然そんなことじゃない。ちょっと待って。証拠を見せたいんだけど……実は、僕は病を付与する悪魔なんだ。だから、瑛二くんに何か病気を『処方』しないと、証拠は見せられない。もちろん、そのペナルティとしての報酬は用意してある。基本はお金に変換することが多いんだ。目に見えるものでしょ?」
その瞬間、瑛二の頭は混乱と恐怖でいっぱいになった。もしかして、頭のおかしいケースワーカーを引いてしまったのか? イケメンで、しかも妙に馴染みのある雰囲気をまとっているのに……。
「あの…『お金』に変換とかって言いましたけど、もしそれが本当なら、不正受給になるかもしれないですよね?なんの話をしてるのか全然わからないです…。」
「うん、そうなるね! でも、僕は何も言わないよ。そういう"契約"だからね。契約は絶対だ。たとえ不正受給だろうと、タンス貯金で『見えないところ』に隠してたら、誰も気付かないからOKだし!あ、そうだ、これを見て!」
渡邉は、革表紙のノートを取り出し、丁寧な文字で書かれた無数の病名を指差した。そこには、精神疾患、疫病、生活習慣病、感染症、がん、さらには聞いたこともないような希少な病が、次々と並んでいた。横には、各病に対する代償としての金額や、金銭以外の幸福(要相談)といった注釈が添えられている。
「え……なんですか…これ……」
瑛二の声は震えていた。彼の頭の中には、これまでの孤独や絶望が重なり合い、現実と非現実の境界が曖昧になっていくのを感じた。
「言ったでしょ、僕は病を処方する"悪魔人間"だよ。こっちの世界に来て間もないころ、ケースワーカーとして働いていたイケメンくんとの"契約"で、いろいろあって、体を乗っ取っらせてもらったんだ。」
その言葉に、瑛二の心は完全に凍りついた。恐怖と混乱が交錯し、彼はもう耳を貸す余裕もなかった。
「渡邉さん…正気ですか? あのすごく…怖いのですが…。」
渡邉は一瞬目を伏せ、腕を組んで静かに呟くと、再び口を開いた。
「わかった。こうしよう。期限は24時間まで……それまでに、インフルエンザにかかってもらえないかな? 報酬は3万円。信じてもらえないなら、この話は信じなくてもいいし、終わりで構わないよ。」
瑛二は、必死に理屈を並べるように口ごもる。
「インフルエンザ…って? そんな病気、かかりたくないですし…さっきから何を言っているんですか? 今からインフルエンザにかかれるはずが…」
しかし、渡邉はさらに追い打ちをかけるように問いかけた。
「じゃあ、了承ってことでいいのかな? できるもんなら、やってみろってことだよね?」
瑛二は苦々しい顔をしながら、ようやく口を開いた。
「……まあ、よくわかりませんが、とにかく今日はもう帰ってください。」
「わかった。けれど、了承するって言って欲しいんだ。それなら、3万円を置いて帰るので、それでいいだろう?」
深いため息とともに、瑛二は小さく答えた。
「はい…それで帰ってくれるなら、これっきりにしてください。こんな話は、二度と…」
「よし!契約成立だ!」
シーーーーーーン…。
その瞬間、瑛二の体に突然の変調が走った。じわじわと体を蝕む倦怠感が襲い、頭はドクドクと血管が脈打つような激しい痛みに満たされ、関節は悲鳴を上げる。彼の体は、まるで力を失ったかのように、崩れ落ちかけていた。咳が止まらず、喉の奥で何かが詰まったような不快感に苛まれる。
「ほらね?その症状は24時間後には治まるから、頑張って。じゃあ、僕はこれで失礼するね。」
渡邉は、軽やかな足取りで部屋を後にした。その背中を見送りながら、瑛二は震える声で問いかける。
「まって……さっきの話、本当だったんですか? 本当にこんなことが…あり得るんですか?」
渡邉は振り返ることもなく、低く柔らかな声で答えた。
「ええ、言ったでしょう?他言は無用でお願いします。そして、僕は、本当に契約したい人だけと契約する。僕にとって、病を処方することは人間にとっての食事と同じようなものなんだ。食の在処にたどり着けた喜び…これこそが、いい契約だと感じる。今日はこれでお腹いっぱい。ではまた、瑛二くん!ひとりで辛いと思うかもしれないけど、頑張ってくださいね!」
その言葉とともに、渡邉はまたどこか弾けるような、しかしどこか冷酷な笑顔を残しながら去っていった。
残された瑛二は、体中に広がる不快感と、何とも言い難い恐怖感に呑まれながらも、虚ろな目で天井を見上げるしかなかった。彼の中で、かすかに燃える狂気すら、遠い過去の記憶のように感じられた。
気だるい沈黙の中、蝉の声は相変わらず窓の外で鳴り続け、夏の熱気とともに、瑛二の孤独と苦悩をさらっと包み込んでいた。
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