初めての授業、初めての依頼

「じゃあ今日は、錬金術の基本的な知識から説明するね」

 明くる日の、朝。


 爽やかな日差しの差し込む窓辺で、アルテはそう前置きしてから、目の前に座る弟子に話し始めた。


「まず、そもそも錬金術とは何なのかっていうと、個々の素材のもつ“要素“をエーテルで一度分解して、それから作りたい物の形になるように再構成する技術のことなの。……っていうのはもう、本で読んで知ってるかな?」


「はい、教本にもそのような記述があったのを覚えています」

「うんうん、やっぱりそうだよね。じゃあ今言った“要素”っていうのは、具体的に何のことか、わかるかな?」


 アルテが尋ねると、グラスはうーんと少し唸ってから、こう答える。


「錬金術で“要素”という言葉を使う際は、素材のもつ性質全般を指す、と本に書かれていたような気がします。例えば、素材の有する魔力ですとか」

「そう、正解! よく覚えてたね!」


 と、口では褒めるものの、内心では少し複雑だった。ここまで知っている彼女に対し、もはや自分が何か教えられることはあるのだろうか、と。


 けれど、自分のことを食い入るように見つめ、一言も聞き漏らさないと言わんばかりの真剣な態度を見せてくる弟子を見ていれば、こちらもここで諦めず、教えられる限りのことを教えねばならないという気が俄然湧いてくる。


「中でも錬金術で特に重要視する“要素”は、【熱・冷】と【湿・乾】の二組のうちの一つずつが合わさった“素材の性質”と、そこから決まる素材の魔力の“元素”なの」


「そ、そうなのですね! それは存じ上げませんでした!」

 そう言いながら、グラスは手元のノートにメモを取り始める。


 その姿に、アルテはにわかに軽い安堵を覚えた。どうやら彼女に教えられることは、まだまだたくさんあるようだった。


「元素というのは、魔力のもつ性質のことですよね? ですが二組の“性質”によって元素が決まるというのは、一体どういうことなのでしょう?」


「ええっと、そんなに難しく考えなくて大丈夫。“性質”っていうのは元素の偏りみたいなものだから。例えば、【熱】と【乾】の性質に偏っていれば炎元素、【冷】と【湿】の性質に偏っていれば水元素の魔力を持つ、みたいな感じで、すごく簡単だから」


「そうなのですね……確かに、案外分かりやすいですね」

 アルテの説明に、グラスは神妙な面持ちで頷く。「そうでしょ」と言って、アルテはさらに説明を続ける。


「でね、これはのちのち覚えていけばいいんだけど、対になっている“性質”を持つ素材、つまりは相反する元素を持つ素材は一緒に錬成しちゃいけないっていう決まりがあるの」

「そうなのですか? それは、一体どうしてでしょう?」


「例えば、魔術でも炎元素と水元素の魔力を一緒に操作したら大変なことになっちゃうでしょ? それと同じように、錬金術でも素材同士の“要素”や特性を打ち消しあっちゃったり、それから大がかりな錬成の場合は事故が起きたりするの」


「そ、それはものすごく重要なことですね……どの素材がどの元素をもっているのか、しっかり覚えなくては」


「そんなに焦らなくても大丈夫。この辺りのことはこれからゆっくり覚えていこうね」

「はいっ、頑張ります!」


 グラスは殊勝な態度でそう返事しつつ、メモを取る手を休めようとはしない。


 このように誰かに授業をすることなど全くもって初めてであったが、ここまで熱心に聞いてくれると嬉しいものなのだなとアルテは感じた。


「でね、話が少し戻るんだけど……グラス、あなたが読んでたレシピの本の中に、全く同じ素材を使っているのに、完成品が全く別の物になるレシピが何個かあったんじゃない?」


「あっ、ありました! 私、あれがどうしてああなるのかずっと不思議で……」


 グラスの瞳に、知的好奇心の輝きがみるみるうちに宿り始める。

 そんな彼女の眼差しにアルテは微笑ましさを覚えつつ、こう続けた。


「実はね、同じ素材……つまり、同じ“要素”を用意しても、その並べ方や組み合わせ方によって、全く別の物が出来上がるの。不思議だよね?」

「はいっ! とっても不思議です!」


 グラスはペンを動かしながらも目を合わせ、こくこくと頷いてくる。


「どうしてそうなってしまうのでしょう、全く同じ素材を使っているはずなのに……」

「ふふっ。それは、もう少しお勉強が進んだら説明しようかな」


「まぁ、とっても楽しみです! 頑張ってたくさんお勉強しなくちゃ……!」

 そう言った少女の瞳は、夜の星を閉じ込めたかのようにきらきらと輝いている。まるで、特別な自分だけの宝物を見つけた子供のように。


 自分の説明を聞きながらここまで楽しそうにされると、教え甲斐もあるものだ。


「これで、錬金術における“要素”については、だいたいわかってくれたかな?」

 グラスが元気よく返事をすると、アルテは笑みを浮かべながらこくりと頷いて。


「それじゃあ、最後は錬金術において必要不可欠なエーテルについて、簡単に説明していくね」

「はいっ、お願いします!」


 グラスのはきはきとした返事に微笑みを返すと、アルテは説明を始めていく。


「エーテルには“天界の元素”っていう別名があるんだけどね、それはエーテルが天界、つまり神様の住む世界を満たしている特別な元素といわれているからなの。実際、エーテルは空からしか降り注いでこないし、基本の四元素——炎、水、風、土とは違って、生物の体内からは生まれない特別な元素なんだ。だからこそ、操作するのも普通の魔力とは違って少し難しいんだけど……でも、あなたはもう、そこに関しては大丈夫なんだよね」


 そう。グラスはすでに、錬金術の第一関門ともいえるエーテル操作と、錬成の作業は覚えてしまっているのだ。


「そうね、今日覚えておいてもらいたいのはこれぐらいかな」


 見習いになりたての新人錬金術師が最低限覚えておかなくてはいけない知識は、これであらかた話すことができた。


 アルテはふぅと一息ついて、テーブルに置いていた紅茶を口にする。これだけ長く喋り続けたのは久しぶりなので、少し喉が渇いた。


「ここまでで何か、質問はあるかな?」

「うぅ……知りたいことが多すぎて、何から質問したらよいのでしょう」


 アルテの問いかけに、グラスは悩ましげに首を捻る。

「そ、そんなに分からない所があるの? もしかしてわたしの説明、分かりにくかった?」


「い、いえ、そんな、滅相もございません! とっても分かりやすくて、私、ついつい聞き入ってしまいましたもの!

 分かりやすかったですし、それに聞いていてとっても楽しかったです! 興味深いことが多すぎて、さらに知りたいことがどんどん浮かんできてしまって……」


「そ、そうなの? 分かりにくかったわけじゃなくて?」

「はいっ!」

 

 グラスの元気な返事と、きらきらと輝く笑顔。それがアルテの胸に、じんわりと染み入っていく。


 初めての授業だったというのに、そこまで言ってもらえるなんて。なんて嬉しいことなのだろう。


 そんな風に言ってもらえたら、昨日の夜中に入門者向けの本を読み漁って授業の参考にした甲斐もあったというものだ。


 それに、当初抱いていた懸念もこれで晴れたような気がする。


 自分の授業をこれだけ楽しそうに聞いてくれたのなら、『自分が教えることによって彼女に悪影響を与えてしまわないか』というのも杞憂だったのだろうか。


「錬金術って、とっても面白いのですね!」

 そう言って、グラスはアルテに溢れんばかりの輝きを宿した瞳を向けてくる。


 そんな彼女に、アルテはにこりと優しい笑みを返した。


 こんな風に、彼女が錬金術に対しての興味を膨らませ、楽しむ気持ちを抱いてくれているのはとても嬉しいことだ。


 その気持ちは、錬金術師になるには必要不可欠な、一番大切なものだから。


「それにお師匠様のお授業を聞いていますと、錬金術をやってみたくてたまらなくなってきてしまいます……!」


「あら。それじゃあ、今からさっそく何か作ってみる?」

「はいっ、そうしたいです!」


 アルテの問いかけに、グラスはぱぁっと瞳を輝かせて頷いた。


 その表情からは、彼女の錬金術に対してのまっすぐで、ひたむきで、そして純粋な憧れの気持ちが溢れんばかりに伝わってくる。


 そんな気持ちを、彼女が抱いてくれたことがアルテは嬉しかった。

 そして同時に、少し羨ましくもあった。





 その後、アルテはグラスを連れて地下工房へと降りていき。そこで、何度か錬成作業を行わせてみたのだが。


「ど、どうして全部こうなってしまうのでしょう……?」

 どういうわけか、グラスの作るものは全てが毒物になってしまうのだ。


 薬品、小物、その他彼女の錬成したありとあらゆるものが、どういうわけか毒性を有している。


「お、お師匠様、いったいどうすれば良いのでしょうか……!?」

「どうすれば……う~ん……」


 涙目で問いかけてくるグラスに対し、アルテは何か解決策を提示してあげたかった。


 だが、それは無理なことだった。なぜなら、グラスの錬成の工程には一見、目立った問題は何もなかったのだから。


 材料の下準備の段階から間近で見ていたのだから、それは間違いない。それなのにどういうわけか、完成品は毒物になってしまうのだ。


「いっぱい練習していけば、なんとかなるんじゃないかな!」

「そ、そう、でしょうか……?」


 不安そうな色をたたえて自分を見下ろす瞳に、アルテは優しく微笑みかける。初心者に失敗はつきものなのだから。


「ですが、作った物がこうも全て毒物になってしまうのは、やっぱり少しおかしいのでは……?」

「大丈夫よ。これからたくさん練習していきましょ?」


 不安そうなグラスを安心させるように、アルテは彼女の両肩に優しく手を添えてそう言った。


「は……はいっ! 精進します!」

 彼女の言葉に、健気に頷くグラス。アルテは「うん、頑張ろうね」と優しく彼女に返した。


 口ではそう言ったものの、実を言うと、錬成したもの全てが毒物になってしまうというのは少し妙なことだ。


 術師のもつ魔力の特性の偏りによって、錬成物の特性が想定されているものと異なってしまったりだとか、錬成する物の系統によって得意不得意が現れたりだとか、そういった話は聞いたことがある。


 グラスの場合はそれが顕著に表れただけなのかもしれない。……そう言い切ってしまえる自信も無かったので、それは口にはしなかったが。


 というのも、グラスの錬成を見ていると、どうも不思議なことが起こるのだ。


 途中までは問題ないのに、操作を行っていくにつれ、彼女の魔力は何というか、だんだんと濁っていってしまうのだ。


 彼女の本来の魔力は、とても澄んでいて綺麗なはずなのに。


 それが、出来上がった錬成物にも影響を与えてしまっているのかもしれない。


 だが、それならば何が原因でそんなことが起こるのか。それは全くもって見当がつかなかった。


 それにこんなケースは、今までに一度も聞いたことがない。


 けれど、これから師弟として彼女と関わっていくうちに、もしかしたらその原因も明らかになっていくかもしれない。


 あるいは経験を積むうちにいつの間にか、嘘のように治っているかもしれないではないか。


 錬金術に対するセンスなら、グラスは間違いなく抜群だ。それは自信をもって言えた。


 だからこそ実に不可解な現象だが、原因が分かっていない以上、解決策を示すこともできない。


 そんなに心配しなくても、きっとグラスは大丈夫だろう。だって彼女の才能は本物なのだから。


 アルテは自分の心にそう言い聞かせ、ひとまずこの問題は置いておくことにした。

 ……だが。


「はぁ、どうしたらいいんだろう……」

 あれから一週間後。今度は彼女自身が、重いため息をこぼすほどに悩んでしまっていたのだった。


 そのわけは言うまでもなく、グラスについてのことである。


 彼女の不思議な特性は、いくら鍛錬を繰り返しても一向に改善の気配を見せないのだ。


 錬成の際のエーテル操作の手際や、素材の処理などの腕は回を増すごとに上達していくというのに。ここだけが、どういうわけか治らない。


 そのせいで、グラスはどんどんと自信を失っていってしまうのだ。今日の授業のときだって。


『うぅ、またお薬が毒になってしまいました……』

『そ、そんな顔しなくても大丈夫だよ! えぇと、この成分だったら……見て、これとこれを使ってこうすれば毒抜きできるから! 作ったものが毒になっちゃっても、こうやって対処方法を勉強すれば……』


『で、ですがっ! レシピ通りのものをひとつも作れないなんて、その時点で錬金術師として失格じゃですか!』

『そ、そんなことないよ! 大丈夫よ、世の中にはいろんな錬金術師がいるんだから……』


『お師匠様はお優しいのですね、ですが自分でも分かっているのです、私は錬金術師になれる器じゃないって……これまでのお礼として、少ないですが手持ちの金品を置いて故郷に帰ります、これ以上お師匠様の貴重なお時間を無駄にさせるのは申し訳ありませんので……』


『そっ、そんな! 待って、そんなこと言わないで!』

 ——といったような調子の問答が、三十分は続いただろうか。


 そのときは結局、アルテがグラスの良い所を延々と言い続けることによってなんとか引き留めた。


 今日はなんとかなったが、彼女はまたいつか、自分の変わった特性のせいで落ち込んでしまうかもしれない。


 問題は、彼女の悩みに対し、師匠としてどう接してあげるかということだった。


 彼女の手によって生まれた錬成物が何もかもああなってしまう理由は、未だに見当すらついていなかった。


 グラスの澄んだ魔力が、じわじわと変容を遂げ、濁ったどす黒い魔力になっていく。


 その瞬間をいつも間近で見ているはずなのに、どうしてそんなことが起こってしまうのかは全くもって見えてこないのだ。


 術者から放出される魔力の質は術者自身の精神状態と密接にかかわっている、というのはよく聞くが、錬成時の彼女は至っていつも通りに見える。


 エーテルや素材と妙な反応を起こしてしまっているというわけでもないようだったし、普通の魔術は一定の魔力の質を保ったままできているのだから、徐々に変容していくという性質が彼女自身の魔力にあるわけでもなさそうだった。


 原因も見当たらない以上、逆にあの特性を利点と捉えてみるのはどうだろうか。毒を使って魔物を狩る冒険者や猟師は少なくない。


 毒性を持たない素材から容易に毒物を作れるのなら、その分安価に、かつ大量に毒を提供することも可能だ。


 毒専門の錬金術師というのも、需要はそれなりに高いのではないだろうか。


 それに、毒以外のものを作りたいときには、一度錬成したものから毒の成分を抜く処理を行えるようになればいい。


 ——問題は、その提案をグラスが受け入れてくれるかどうか、だ。


 錬金術師は十人十色といえど、グラスのようなケースはさすがに希少が過ぎる。


 それは錬金術の世界に入りたての彼女自身もとっくに分かっていることだろう。自分と師匠以外の錬金術師を知らなくても容易に想像のつくことだ。


 だから、劣等感を抱いてしまうのだろう。自分の努力と才能が足りていないのだと、自分を責めてしまうのだろう。


 そんな気持ちでい続ければ、そのうち潰れてしまう。そうならないようにするにはどうするべきか。

「う~ん、グラスにはもう少し自分に自信をもってもらいたいんだけどなぁ……」


 魔石の卓上ランプの明かりのみに照らされた屋根裏部屋の中、アルテはため息をひとつつくと机に突っ伏し、考え疲れた頭を両腕の間にすっぽりとおさめてしまった。


 自信をつけるには何が必要か。……褒められる体験?

 だがアルテはいつもグラスをよく褒めている。そうするように心がけているのだ。


 だがそれだけでは解決させられない問題もある。現にグラスは自分に自信を失いかけてしまっているのだから。


 師匠と弟子、二人きりの閉じられた空間だけでなく、外部の人にも褒められる経験が彼女には必要なのかもしれない。そのためには当然だが、彼女の力を外部の人間に示さなくてはいけないのだが。


「う~ん……どうしたら、いいのかなぁ」

 生まれて初めて師匠になったアルテは今、生まれて初めての種類の悩みに直面している。


 若者の成長を担うというのは、なんて責任重大なのだろう。


 “授業が分かりやすい”だとか、“聞いていて楽しい”だとか言われて、何かを説明するたびに弟子のきらきらした瞳に見つめられて、「案外いけるかも」なんて思いはじめていた彼女の淡い自信の芽までもが今、潰えそうになっていた。


「やっぱりわたしには、師匠なんて向いてないんだ……」


 呟き、そして腕の中に顔を埋めてしまった彼女には、夜空に一本の流れ星が瞬いて去っていったことにも当然気づかなかった。




 その、次の日のことだった。悩める新米師匠に、救いの一手が差し伸べられたのは。




 それは、以前おすそ分けしてもらった野菜で作ったお菓子を渡しに、街の薬屋へと赴いたときのこと。


「えっ、この子に依頼を?」


「はいっ! 今ちょうど、毒使いの冒険者パーティーさんが町に滞在していまして。毒薬の注文をしたいとおっしゃっていたのですが、うちだけでは満足のいく量を用意しきれなさそうでしたので、お手伝いいただけたらな~と……」


 そう言うと、店のカウンターに立つ薬屋の娘は、グラスを上目遣いで見つめる。


「毒薬、お得意なんですよね?」

「と、得意といいますか……それ以外作れない、といいますか……」


「まぁ! それってつまり、自分には毒を極める道以外ない、ということですね!? まだお若いのに自分の進む道がしっかり定まっているなんて、かっこいいです!」


「い、いえ、決してそういうわけでは……」

「またまたぁ、そう謙遜しないでくださいよ! そして、どうかうちに力をお貸しください!」


 薬屋の少女はつい一言前の様子から一変、突然ぺこりと頭を下げてグラスに願い出る。


 戸惑いの表情を浮かべ、言葉に詰まってしまうグラス。だが、メリーナは元からこういう子なのだから、慣れてもらう他ない。


「えぇと、私がお力になれることなら、何でもいたしますが……ですが私はまだ見習いで、」

「手伝ってくださるんですかっ!? ありがとうございます!」


 カウンターから身を乗り出し、唐突に手を握ってきた少女を前に、グラスのみならずアルテも思わず目を見張る。


「大陸一の錬金術師さんのお弟子さんが味方なら、当店もとても心強いです! お礼はめいっぱい弾んじゃいますから!」


「も、もう、わたしは大陸一なんかじゃ……」

 能天気なメリーナの発した言葉の一端に、今度はアルテが辟易する。自分がそのような認識をもたれる理由は容易に想像がつくが、彼女はとても自分自身がそうだとは思えない。


「うふふっ、この師匠にしてこの弟子ありって感じですね! それでグラスさん、さっそくお願いしたいお薬のお話なんですが……」


 と、こういった経緯を経て、グラスに思いがけず、初めての依頼が舞い込んでくることとなった。

 後々考えてみればこれは、アルテにとって願ってもないことだった。


 なぜなら、おかげで彼女がグラスにさせてあげたかった、とある“経験”をさせてやれそうだからだ。

 毒を作り出すことにかけては、グラスの実力は申し分ない。


 彼女の作った毒薬は必ずや依頼主に喜ばれることだろう。そうなれば、彼女に“外部の人間に褒められる”経験をさせてやれるではないか。


 流れ星に祈りを捧げたわけでもないのに、願いが叶ってしまったアルテの表情は、帰宅した頃にはすっかり明るくなっていた。不安そうな表情を見せる、彼女の弟子とは裏腹に。


「うぅっ、どうしましょうお師匠様……!」

「もう、そんな顔してどうしたの?」


「つい断れずに依頼を受けてしまいましたが、やっぱりちゃんとできる自信がありません……!」


 弱々しい声で、アルテにそう訴えかけるグラス。先ほどから部屋の中を落ち着かない様子で行ったり来たりしているあたり、本当に不安で仕方がないようだった。


「どうしましょう、ご依頼者様のご期待に添えるものを期限までにちゃんと作れなかったら……」

「ふふっ。グラスなら大丈夫よ、ぜったい」


 瞳に涙を浮かべる少女に、アルテは微笑んでそう返す。


「あなたならできるわ。ね、わたしが保証するから」

「お、お師匠様……」


 アルテの言葉に、少女の潤んだ瞳が揺らぐ。

「そ、そこまでお師匠様が言ってくださるのなら私、この依頼に精一杯を尽くします!」


 そうして、やけに気合いの入った調子で、彼女はそう言った。


 そこまで肩に力を入れることもないと思うのだが、不安のあまりずっと暗い顔をしているのよりはずっといい。


 彼女が元気を取り戻してくれたことに、安堵を覚えたのも束の間。


「ではさっそく、ご依頼の品を錬成するための準備に取り掛かろうと思います! お師匠様、毒薬のレシピが載っている本はありますでしょうか!?」


「えぇっと、確か地下のどこかに……あっ、待ってよグラス!」

 駆け足で地下室へと下っていく弟子の背中を、アルテは慌てて追いかける。


 責任感が強く、頑張り屋な彼女が根を詰めすぎてしまわないか、今度はそれが心配になり始めてくるのだった。

 

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