case1 異世界の勇者 ①

 美男美女が大多数を占める教室へ向かう足が重かった理由は、クラスメイト達が妙に余所余所しいという空気感もあったが、それ以上に篠村先生と対面するのが面倒だったということもある。

 だが、放課後までに回答を出せば良いか、と考えていた俺にとって、登校して自身の教室に入るよりも先に篠村先生に捕まったのは青天の霹靂というほかならない。

 仕方なくカバンを背負ったまま、言葉短く「ついて来い」とだけ指示した篠村先生の背中を追うと、今度は空き教室では無く校長室であった。

 昨日の話は校長までも噛んでいるのか、と考えていると、そこには佐伯の姿もあった。どうやら、俺より先に登校して、いの一番に捕まったらしい。

 来客用の上等そうなソファに座り、背もたれに深く体重を預けている。

「……さ、支倉。君も座って」

「はぁ……」

 佐伯の隣に腰掛ける。

 妹からは嗅いだことのない良い香りのシャンプーの匂いが鼻腔をつく。アイツは俺と同じの使ってるからなぁ……。

 と、現実逃避的に変態チックなことを考えていると、正面に座った篠村先生が校内だと言うのに堂々とタバコに火をつける。

「校舎内だとここしか灰皿無いんだよな……全く、どうにも世の中の嫌煙ムードは嫌になるねぇ」

「……まさか、校長室を喫煙所代わりにしてんの?」

 虚を突かれた俺は思わず敬語も忘れてしまう。

 篠村先生はカラカラと笑うと、スマホの画面を一瞬眺めてから、直ぐにポケットに仕舞い込んだ。

「ふむ……。口外はしていないようだな。結構結構」

「それって……。盗聴かなんかしてたってことか?」

「君達の想像もつかないような人数の大人が、固唾を飲んで今回のプロジェクトを見守っている。むしろこの程度の監視で済んでいるのは、私のおかげとでも言っていいくらいだ」

「勝手に金を押し付けて、勝手に監視して、それで感謝しろって?」

 佐伯がフン、と鼻を鳴らして反論すると、困った様な笑みを篠村先生は浮かべた。

「ははは。確かに、佐伯の言う通りだ。じゃあ、直球に言おう。——この世界の為に、ヒーローとなってくれる事、了承してくれるか?」

 この世界の為……。

 随分と大きく規模の話にしてきたな。まぁ、ヒーローという単語を考えると、妥当な表現なのかも知れない。

 暫し、沈黙の時間が流れる。廊下の方から聞こえて来ていた雑踏も話し声も、今は聞こえない。

 聞こえない、というよりも、そちらに意識を向ける余裕が無いと言ったほうが適切かも知れない。

 先延ばし癖は無いつもりだが、それでも昨日から引き延ばして来た問題に対して決断しなければならない時が来たからだ。

 心の何処かで、やっぱりこれは悪戯か何かじゃ無いだろうか、と疑う自分がいる。

 もし扉が勢いよく開かれて、ドッキリでした、なんて声高に告げられようものなら、俺は一生モノのトラウマを抱えることになるだろう。

 まさかこの歳になってヒーロー願望があるなんて全国のお茶の間に披露したくは無いからな。いや、もしかしたら個人レベルの動画配信とかだろうか。だとしても、恥ずかしいことには変わりない。

 いや、そもそも真剣に思い悩んでる時点で恥ずかしいんじゃないか?ここは予防線的にヘラヘラ笑いながら否定するべきか?

 いやいや、現実的に考えて俺みたいな一介の学生を対象にドッキリってコンプラ的にまずいだろ。

 だから、これは恥ずかしくとも非現実的であろうとも、篠村先生の使う言葉が過大であろうとも。

 紛れも無く、事実なんじゃないか?


「税金は?」

「安心安全の無課税だよ。税務署が君の家を訪ねることも、まぁあるまい」

「——それなら、私はやります」

 一人で色々な可能性——それも大半は自己保身に関連する——を考えていた自分が情け無くなる位に、ハッキリと佐伯は答えた。

「で、支倉の方は?」

 篠村先生が視線を移す。

 思わず口を開いたのは、決意を固めた訳じゃない、ということだけはここにハッキリと言っておこう。

 情けない話だが、ここでも俺は体面的な部分を気にしてしまった訳だ。

 まさか女子がここまできっぱりと爽快に決断したのに、俺がここでいつまでも思い悩んでモゴモゴしているのは、格好悪くないだろうか?

 果たして俺は誰に対して格好つけているんだろうな。

 そんな自問自答したところで、すでに時遅く。俺の開きかけた口は、俺の意思を全く勘案することなく、たった数文字の言葉を紡いでしまった。

 これまでの生涯で果たして俺はどれだけの言葉を喋って来たのだろうか。数万、いや、数百万にも及ぶだろう俺の放った言葉の数々のどれよりも、そのたった数文字は、俺の運命を大きく変えてしまった。

「……じゃあ、俺もやる、かな」

 もっと確固たる意思がある様に聞こえる言葉だったら格好もつくというのに。

 俺は言ってから、見当違いな後悔をする。

 もし行動から後悔までの速さを競うスプリントレースが存在するなら、今の俺なら良い結果を残せたんじゃないだろうか。

 そんな下らない妄想すら、慰めにはならなかった。



「晴れて私の可愛い愛すべき教え子がヒーロー、いや、英雄になる決意をしてくれたところで、具体的に何をすべきか、説明しようか」

「愛すべき教え子って……」

 まだ入学式しかしてないぞ。こちらの神経を、逆撫ですることしか言えないのかこの教師は。

 思わずツッコミが入るが、篠村先生は無視して言葉を続ける。

「そうだなぁ……。まずは初級編ってところで、宮村宗介の件から片付けることにしようか」

「あのー、センセ。具体的にやること言ってくれないと」

 佐伯の方は、やると決断した途端にピリついた空気を和らげていた。コイツも俺と同じようになるようになれ、としか思ってないんだろうか。

「うん……?じゃあ、やるべきことを伝えようか。えー、コホン。佐伯、支倉。君たち二人には、まず魔法を覚えてもらう」

 そんなメルヘンな単語に、俺達は思わず聞き返すことすらせず、二人で顔を見合わせた。

 言葉にこそ出さなかったが、困惑を通り越して呆れたような顔をしている佐伯の言いたいことは分かる。

 つまり、

「コイツ、本気で言ってんのか?」

 と。

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