第2話 職場は針の筵
「経営企画部の秋山雫、公衆の面前で彼氏に振られたんだって?」
「えー、彼氏って、あの自慢げに話してたお医者さんの? なんか惨め」
「おいおい、聞こえるぞ」
――ハイハイ。聞こえていますよー。
一体私がいつ自慢したというのか。
彼氏がいるか聞かれたからいると答えたら、何をやっている人だと答えるまでしつこく聞かれて仕方なく答えたことがあるだけなのに。
職場の私の席は、やっかいなことにフロアの一番奥にあって、他の部署をいくつか通り過ぎないとたどり着けない。
一番社長から期待されている部署だけに、フロアの奥の窓に囲まれたコーナーにあって、明るくて良いのだけれど。
普段でもこの道のりが苦痛だというのに、今日はなおさらだった。
誰もかれもが私が来るのを待ち構えていたかのようにして、チラチラと様子をうかがっているように感じてしまう。
無数の視線とわざとらしいひそひそ声の会話に気が付かない振りをしながら、気のせいだと言い聞かせながらひたすら前だけを向いて自分の席へと向かった。
ガチャリ
経営企画部のパーティションの扉を開ける。
「お、秋山さん。お帰りおつかれー」
「おつかれさまです。瓜生さん」
出迎えてくれたノー天気な声に、ホッとため息が出た。
いつもは私が一番に休憩を終えてお茶を淹れているのだけど、今日はすでに上司以外の同僚二人が揃っていた。
ノー天気に声を掛けてくれたのは、コネ入社の瓜生一颯くん。入社一年目の24歳。見た目はチャラ男。
短めのウルフカットに、キリリとした眉毛、大きなアーモンド形の瞳が格好いい。
わが社の重要な取引先企業の創業者一族の息子らしくて、そのコネを隠す様子もない。
いずれは家業の会社で役員になるらしく、それまでの社会勉強として、やり手の経営企画部の部長の下で働いている。
顔の広い彼は、私が先ほどガーデンテラスでこっぴどく振られたことを既に知っているかもしれない。
だけどそんなことどうでもいいというくらい、いつも通りの軽いノリで挨拶をしてくれた。
そしてもう一人の同僚が藤ヶ谷サクラさん。
私は心の中で、サクラ女史と呼んでいる。
高卒入社からの叩き上げで、私と同年代でここまで異例の出世した、根性と優秀さの塊みたいな人。
いつ何時も表情が変わらない冷静さ。肩にかかるかかからないかという長さのボブカットを、仕事中はアップにして纏めている。
入社もう7年目の大先輩だけど、年下の25歳だ
私みたいに、就活時にたまたま売り手市場だったわけでもない、瓜生君みたいにコネ入社でもない。
正真正銘実力で入社し、入社後も勉強して三か国語をマスターして、花形企画部の席を勝ち取った化け物。
私は彼女のことを尊敬しているけれど、同時に負い目も感じていた。
私なんて、英語が少し話せるだけ。しかも結婚までの腰掛け気分で働いていたから、そんなに必死になって勉強してこなかったから。
彼女もいつも通り、私のことなど眼中にないかのように、仕事に没頭している。
まるで何事もなかったかのように。
本当に噂なんて聞いていないかもしれない。
これはこれで、気が楽だった。
同じ部署の同僚が、何も考えてなさそうな瓜生さんと、噂なんて気にしなさそうな藤ヶ谷さんでよかった。
昼休みが終わるまで、まだ少し時間がある。
フロアの奥にある窓へと向かうと、少し開けて空気を入れ替え、深呼吸をした。
「はーっ。もう少し早く帰ってこればよかった」
そうすれば自分の席に着くまでに会う人の数も少なかっただろうに。
いつもはもう少し早く来て、ゆっくりとお茶をしながら仕事の準備をしているのだけど、今日は時間ギリギリになってしまった。
*****
私の勤めている会社は中堅どころの総合商社だ。
創業30年。少し前まで業績がパッとしなかったけれど、最近ぐんぐん成績を伸ばしている。
扱う商品の専門性が高く、品質が良いと評判で、お給料も良い優良企業。
そんな商社で、しかも少数精鋭と言われる経営企画部で、なんで私なんかが働いているのか。私だって知りたい。
そのせいだろうか。それともお医者さんの卵と付き合っていたのもあるのだろうか(もう別れたけれど)。
他の部署の人たちからの風当たりは強かった。
取引先企業の重要人物である瓜生君や、批判を一切寄せ付けないほどの実力を示す藤ヶ谷さん、そして会社の利益の為なら非情にもなる鬼上司とは大違い。
鬼上司――そう鬼上司だ。
少数精鋭の経営企画部をまとめる部長、その名も宮本大樹は、仕事は出来るけれど、血も涙もない鬼だと、すこぶる評判が悪い人物だ。
私に対する世間の風当たりが強いのは、この鬼上司の評判の悪さによる影響も、多少はある気がする。
……意外と私は、嫌いではないのだけど。
まあ確かに上司は、世間の評判通りに厳しい人だ。
泣いて慈悲を請う小さな会社との取引を打ち切ったのを見たのも一度や二度ではない。
だけどそれは会社のために必要なことだったと一緒に働いている私は知っている。
うちの会社に利益が出ないのに取引を続けることはできない。だからといって安い値段に値切ってダラダラと取引を続けていたら、相手の会社の借金が膨らむだけという状況を、隣で見てきた。
だからこんな落ち込んでいる日だからとはいえ、宮本上司に会うことは問題ない。
憂鬱なのは、普段から私に辛く当たってくる他部署の人たちに、これからますます私がフラれたことが広まっていくこと。
彼ら彼女らが先ほどのことをどう噂しているのか、どこまで話が広がっているのか想像しただけで、胃が重くなってしまう。
これまで蒼汰と住むマンションの家賃を払うため、居づらくても頑張って働いてきたけれど……。
第一いくら以前から私が行ってみたいと言っていたからといって、あんな話を人気のカフェのガーデンテラスでしてくれた蒼汰は、私にナイフで刺されても文句は言えないと思う。
しかも私は誕生日だったのに。
まあ実際は刺すどころか、水を掛けるくらいしかできなかったわけだけど。
――それだけ私のことを、心の底から恋愛対象外の、どうでもいい存在だと思っていたということよね。
ほんの少しだけでも気が回る男なら、6年間世話を焼いてくれた彼女の誕生日に別れ話をしようっていうのに、会社近くのガーデンテラスなど指定するはずがない。
心底どうでもよくて、本心から私がただの便利な女だと思っていたということだ。
蒼汰はこれからお医者さまになる。
しかもクリニックの院長の娘と結婚してマンションを買ってもらうと言っていた。
向こうは私がいなくなってもこの先困らないだろうことがまた悔しい。
――いけないいけない。さっさとあんなポンコツ男のことは忘れないと。もう1秒だって、あんな男の為に無駄な時間を割きたくないもの。
なんだかこめかみのあたりがズキズキと痛んだけれど、気合を入れて振り払う。
友人もなく、恋人にもフラれ、これ以上仕事まで失う訳にはいかない。
だからカラカラに干からびて、悲鳴を上げている心に気が付かないフリをする。
――ずっとそばにいたのに。
6年間も恋人と毎日一緒にいたはずなのに。私の心は砂漠のように干上がっていた。
机の上には、様々な部署から回されてきた書類が積まれている。
営業部が全国から集めてきた商品の情報を、精鋭の経営企画部が取り扱うか精査する。
それがうちの会社の強さの秘密だ。
鬼上司が読む前に、全ての書類に目を通し、問題なく取引継続できそうなもの、新たな取引で調査が必要なもの、却下と思われるものとその理由を簡単に書き添えて、緊急度順に整理しておかねければならない。
気を抜けば浮かんでくる先ほどの出来事を頭から追い払い、淹れたばかりのハーブティーの匂いを嗅ぎながら、早速書類に目を通し始めた。
ズキズキズキ
鈍い痛みを押し殺ししながら、書類に目を通す。今日は比較的書類の数が少なそうだ。良かった。
確か上司は、部長職以上のランチミーティングに出ているはず。
帰ってくる頃には仕訳ができるだろう。
『取引の継続……ここは問題なく許可がでそう。こっちの取引もオッケー。こちらの書類は、今期の売上報告。予想より微増。これまでの報告どおり。次は……』
次々と書類をめくっていたら、とある書類を見つけて胃がズドンと重くなる。
『内切工業との取引停止。品質の良さで人気だったが、流行の変化に対応できず。需要の減少の為単価が上がり、採算がとれず』
「……またか」
こういう気が重くなる案件の最終判断も、うちの部に委ねられる。
『宮本部長、また直接訪ねるのかな』
取引停止を決めた会社に、鬼と呼ばれる部長は必ず直接訪ねていく。
誰に……例え取締役にどうしてメール一本で終わらせないのか、経費の無駄だ、金と時間を使って怒鳴られに行くのかと言われても。
直接断りにいく宮本部長と、メール一本で済ませろと言う人たち。
「……どっちが鬼なんだろ」
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