第6話 自由と責任


日曜日の午後、私は再び「フィロソフィア」を訪れた。


雨はすでに止んでいたが、空にはまだ湿った雲が残り、石畳の道は薄い水膜をまとって光を反射していた。通りを歩く人々の足音は、濡れた地面に吸い込まれるように、静かで重たげに響いていた。


カフェの扉を開けると、深煎りのコーヒー豆から立ち昇る芳醇な香りが、私を柔らかく迎え入れた。かすかに流れるジャズの音色が、店内の静謐な空気に微かな揺らぎを与えている。


窓際の席に腰を下ろし、店内を見渡す。数人の常連客が、それぞれの世界に没頭するように静かに本を読んでいる。彼らの表情には、静寂の中にある集中の気配がうかがえた。


ふと、カウンターにいる井上さんに声をかけた。


「自由って、本当に自分の意志で選べることなんでしょうか?」


井上さんは、真鍮製のコーヒーミルを回す手を止め、穏やかな眼差しで私を見つめた。


「何か悩みでもあるのかい?」


私は昨日の出来事を思い出した。


会社では、納期直前の大型プロジェクトを抱えていた。本来なら休日であるはずの日曜日。同僚のミスをカバーするために出勤を余儀なくされた自分。


「手伝うか?」と上司に聞かれ、私は躊躇いもなく「はい」と答えていた。


その瞬間、選択の余地はないように感じられた。

本当に、これは自由な選択だったのだろうか?


井上さんは、丁寧にドリッパーにコーヒー粉を詰めながらゆっくりと語りかけた。


「自由とは、できることではなく、選択することの本質なんだよ」


私はその言葉を深く噛み締めた。


「選択の中にこそ、自由の意味がある。君は昨日、仕事を選んだ。その選択には、必ず責任が伴う」


「責任……?」


私は手元の白い磁器のカップを見つめた。カップの縁に浮かぶ淡い蒸気が、私の思考をぼんやりと包み込む。


「そう。責任とは、単に結果を引き受けることではない。その選択の意味を理解し、次にどう生かすかを考えることだ」


「でも、それは本当に私の意志だったのでしょうか?」


そのとき、カフェの扉が開いた。


「自由の概念は、単純ではないね」


店に入ってきたのは、中村弘樹。哲学の非常勤講師であり、鋭い知性と温かな人間性を併せ持つ、私の尊敬する友人だ。


彼は古典的な木製の椅子に身を沈め、興味深そうに私の顔を見つめた。


「どうしたんだい?」


私は昨日の出来事と、井上さんとの会話を詳細に説明した。中村さんは、少し物思いにふける表情で耳を傾けている。


「なるほど」


彼は薄く微笑みながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「サルトルは『人間は自由に呪われている』と言った。意味深長な言葉だろう?」


「呪われている?」


私は首を傾げた。


「そう。人間は常に選択を迫られる。選択しないことすら、一つの選択なのだ。そして、その選択には必ず責任が伴う」


私は、自分の内なる葛藤を正直に吐露した。


「でも、私の場合、選択の余地なんてなかったように感じます」


井上さんが優しく、しかし断固とした口調で割り込んだ。


「本当にそうかい? それは、選択肢がなかったのではない。君が選択の影響を冷静に分析し、最も合理的だと判断した結果なんだよ」


私は昨日の自分を客観的に振り返った。

確かに、拒否することも可能だった。

だが、その選択がもたらす影響――同僚への負担、プロジェクトの進行、チームダイナミクス、上司からの評価――を慎重に考慮した末の決断だった。


「つまり、責任のない自由なんてものは存在しない」


「その通り」


中村さんがゆっくりと頷いた。


「自由とは、好き勝手に振る舞うことではない。自らの選択の意味を理解し、その責任を引き受けること。それこそが、真の自由なんだ」


私は、さらに深く探求したくなった。


「でも、自由には限界があるんじゃないでしょうか?」


「限界というより、文脈だね」


中村さんは、コーヒーカップを手に取りながら思索に耽った。


「私たちの自由は、常に社会的、歴史的、個人的な文脈の中で発揮される。貧困の中で育った人と、恵まれた環境で育った人。彼らの『自由』は同質ではない」


「選択肢の幅が違う、ということですか?」


「そう。経済学者のアマルティア・センが提唱した『潜在能力アプローチ』を考えてみよう。彼は自由を単なる選択の問題ではなく、実際に選択できる『能力』の問題として捉えた」


「つまり、自由とは与えられるものではなく、獲得するもの?」


井上さんが温かな眼差しで微笑んだ。


「自由は生まれながらに持っているものではない。教育によって広がり、社会制度によっても大きく左右される。それは、絶えず更新され、鍛えられていくものなんだ」


私は、自分の仕事を新たな視点で見つめ直した。


情報の正確な伝達。

著者の繊細な意図の理解。

読者とのみえないな対話。


それらは、単なる職務を超えた、創造的な自由の現れではないか?


「自由には、常に責任が伴う」


井上さんの言葉が、私の内なる思考を静かに揺さぶった。


「責任とは、結果を受け入れることではない。その選択の意味を深く理解し、次の行動に活かすこと」


「では、本当の自由とは?」


私は静かに、しかし確かな声で尋ねた。


「自分の選択に意味を見出し、その結果に真摯に向き合う勇気かもしれない」


中村さんの言葉に、私は小さく、しかし力強く頷いた。


自由とは、すべてを思い通りにできることではない。

むしろ、選択の重みを理解し、その責任を引き受ける覚悟。

それが、私たちが生きる上での、繊細で力強い真実なのだ。


カフェを出ると、洗われたような街の風景が広がっていた。


空には虹がかかっていた。

その淡い七色の弧は、まるで人生の選択肢のように、互いに交わりながらも、それぞれの固有の色彩を保ち続けている。


自由とは、与えられるものではない。

自ら選び取るもの。

そして、その選択に真摯に向き合うこと。


深呼吸をして、私は一歩を踏み出した。

選択の重みを感じながらも、それでも前に進む。


それこそが、自由の本質なのだから。


微かな風が、私の背中を押すように感じられた。

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