第5話 知識と確信
「知識って、何だろう?」
会社の帰り道、私はふと足を止めた。
編集アシスタントとして働き始めて三年。日々の業務の大半は、書籍の内容をチェックし、著者とやりとりし、誤字脱字を修正することだ。確かな情報を読者に届けるために、裏付けを取るのも仕事の一環だった。
しかし、今日の出来事が、私の中に小さな疑問の種を植え付けた。
「この資料、確かめましたか?」
昼過ぎ、校正中の原稿に目を通していたとき、先輩の宮田さんにそう尋ねられた。
「はい、いくつかの文献を確認しました」
「その文献自体は信頼できる?」
「え?」
私は言葉に詰まった。確かに、文献の出典を確認することはあるが、その情報自体が本当に正しいのかを深く考えたことはなかった。学者が書いた本だから大丈夫だろう。論文に載っている情報だから信用できるだろう。そんなふうに無意識のうちに受け入れていた。
でも、本当に?
「私たちは、何かを知っているとき、それが確実であるとどうやって言えるんだろう?」
考え始めると、世界が少し不確かに見えた。
そのモヤモヤを抱えたまま、私は「フィロソフィア」の扉を開けた。
カフェの中は、いつもと同じように穏やかだった。木の温もりを感じるテーブル、棚に並ぶ哲学書、カウンターでゆっくりとコーヒーを淹れる店主の井上さん。
「今日はどんな疑問を抱えてるんだい?」
彼は私の顔を見て、にっこり笑った。まるで、私の心の内を見透かしているようだった。
「知識について、考えていたんです」
私はカウンターに腰を下ろしながら答えた。
「私たちは、何をもって『知っている』と言えるのか……」
「なるほど、エピステーメーの問題だな」
「エピステ……?」
「エピステーメー。ギリシャ語で『知識』を意味する言葉さ」
「知識……ですか」
「そう。哲学者たちは、ずっとその問いに向き合ってきた。何が本当の知識なのか、どうすれば確実に知ることができるのか。例えば、君は今、このカフェの椅子に座っていることを『知っている』と言えるかな?」
「はい。それは確実です」
「どうして?」
「えっと……実際に座っていますし、目で見て、触って、感覚としてわかります」
「そうか。では、夢の中で同じように椅子に座っていたとしても、それを知識だと言えるかな?」
私は言葉を詰まらせた。
「……夢なら、目覚めたときにそれが現実ではなかったと気づくはずです」
「でも、今が夢じゃないという確証は?」
私は無意識のうちに、自分の手をつねった。
「デカルトは、まさにその疑問から出発したんだ」
「デカルトは、疑い得るすべてのことを疑った。そして、最後に『私は考える、ゆえに私は存在する』という確実な原理にたどり着いたんだ」
「コギト・エルゴ・スム……ですね」
私は大学時代の哲学の授業を思い出した。
「そう。彼は、知識を得るためには、すべてを疑い尽くした上で、疑いようのないものを見つける必要があると考えた」
「でも……」
私は言った。
「私たちは、そこまで厳密に考えなくても、日常の中で『知っている』と判断していますよね?」
「そうだね。だからこそ、ジョン・ロックは別の視点を提示した。彼は、知識とは経験から得られるものだと考えた。私たちは生まれたときには白紙(タブラ・ラサ)で、そこに経験が積み重なっていくことで、知識を得るのだと」
「経験から得られる……」
「しかし、それだけでは不十分だと考えたのがカントだ」
井上さんは、カウンターの奥からカップを取り出しながら続けた。
「カントは、私たちの認識には生得的な枠組みがあると考えた。例えば、『時間』や『空間』の概念は、私たちが生まれながらに持っているものだとね」
「つまり、知識とは……経験だけでなく、私たちの認識の枠組みとも関係している?」
「そういうことさ。では、君が今日抱いた疑問に戻ろう。『知識は確実なのか?』」
私は黙った。
「確実な知識を求めるデカルト、経験から知識を積み上げるロック、認識の枠組みを考えたカント……どの立場をとるかによって、答えは変わる」
「そうですね……でも、絶対に確実な知識なんて、あるのでしょうか?」
「プラトンは、『知識とは、正当化された真なる信念である』と言った」
「正当化……?」
「ただ信じているだけでは、それは知識とは言えない。たとえば、君が『明日は晴れる』となんとなく思っていて、実際に晴れたとしても、それは単なる偶然だ。しかし、天気予報のデータを分析し、過去の気象パターンと照らし合わせて『明日は晴れる』と結論づけるなら、それは知識と言えるかもしれない」
「でも、その天気予報が間違っていたら?」
井上さんは微笑んだ。
「だからこそ、哲学は続いていくのさ」
帰り道、私はスマホで天気予報を確認した。
「明日は晴れ」
その情報を信じるかどうか——私たちは、日々そんな選択をしている。
「知識とは、何かを確実に知ることではなく、それをどう確かめるかの過程なのかもしれない」
曖昧な世界の中で、私たちは問い続けるしかないのだろう。
夜空を見上げた。星が輝いている。
「これは、本物の星だろうか? それとも……」
私はそっと目を閉じた。
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