マトマト! ~魔法にかかりたい少女達とキスがしたいわたしにだけ魔女がみえる~

杉林重工

まともなことだけ考えてまっとうに生きていればマトマト

第1話 魔女との遭遇

『……だって、魔法が始まっちゃうから』


 そう言った女の子の顔を、有淵カイカは思い出せない。唯一記憶に刻まれているのは、自分にそう言いつける唇の色形。そして、彼女は確かにそれの感触を知っている……

 

 ――有淵カイカは、そんな古い記憶を反芻していた。きっと、もう十年以上前の出来事だ。


 そんなことを有淵カイカが考え始めた理由は、目の前にあった。小さく震える唇がある。だが、記憶の相手とは別の少女のものだ。そして、それは子供ではあるものの、高校生のもの。リップも何もないのは『子供』と一緒だが、根本的に何かが違う、何が違うんだろう、と有淵カイカは凝視していた。


「ダメです、先輩。落ちちゃったんです……わたし、もうダメです。いけない子なんです」


 ついに視線に耐えられなくなった相手の、まるで消え入りそうな微かな声が、陰った廊下の隅に吸われていく。


「本当にそうかな。もっとわたしに見せて……君のいけないところ」


 囁くようにカイカは答えた。その吐息の湿り気に、相手の少女は思わず身震いした。


「いけません、先輩……これ以上は、わたし達は……」


「いいじゃん。女同士、でしょ? ちょっとしたスキンシップみたいなものだって」


「でも……」


 私立桜誠女学院第一校舎、西棟一階。時刻は朝八時十二分。季節は、五月中旬。本日はいたく晴天であるが、その強い日差しも西側のこの廊下には届かなかった。そんな薄暗い場所で今、一人の女子生徒が、有淵カイカなる上級生の手により、壁に追いやられて身を固くしている。


 こん、こん、こん、逃げられない少女の額に、有淵カイカは白いポーチの縁を軽く当てて挑発していた。


「でも、あ、有淵先輩は、〈魔法〉が使えるって」


「へえ、聞いてるんだ。試してみる?」


 追い詰められた彼女のセーラー服に結ばれたスカーフの色は、薄い桃色。一年生を示す。対してそんな彼女へ、そっと指を這わせる有淵カイカのスカーフの色は二年生を示す黄色。


「大丈夫、誰も見てないよ。わたし達だけの秘密だから」


 そう言って、ついに有淵カイカは、一年生のファスナーに手を伸ばす。彼女の口から漏れる、あ、というその声は、魂でも抜け出るような吐息であった。


 一方のカイカの顔は澄ましたまま。だけど、それが確実に一年生に迫っていく。有淵カイカの身長は百六十センチと少し、女子生徒にしてはやや高い身長の彼女が――年上の先輩が――わざわざ身を屈めて、下級生と距離を詰めていく。密着していく。それが、一年生にはたまらぬ背徳感となって全身をむず痒くさせた。


 ――睫毛長い。あと、ちょっとだけ目元にシャドー入れてる?


 場違いなことをついつい一年生は考えた。


 伝統ある私立桜誠女学院において、髪を染めるなどもってのほかだが、有淵カイカはそれに反発するように、毛先やインナーカラーとして赤を差している。その毛先が一年生に触れそうになる。つい数か月前まで中学生だった彼女には刺激の強い、知らぬシャンプー、或いはトリートメントの香りが鼻腔を突き、思考を停滞させていく。ああ、これが、と一年生は至る。この二年生は、有名人だから。


 ――先輩は〈ウィッチ〉だ。


 この学園に通う〈ウィッチ〉は、こんな風に人気のない校舎の隅で、魔女はまだ色を知らぬ女子生徒を染めていくのだ。


「いっ……」


 少女は喉を詰まらせるように最後の声を漏らす。後はもう、ファスナーが下りる、ちきちき、ちき、という音だけがゆっくりゆっくり過ぎていく。


 ――もっと早くていいのに。


 一年生の彼女は、そう思いながら、恐る恐る、魔女の手の甲、指の先に自身のそれを重ねた。


「もう、慌てちゃダメだよ」


「……はい」少女は慌てて両肘を曲げ、顔の横で手を握った。


 まるで魔法にかかったみたい。匂いか、態度か、それとも噂がそうさせるのか。もう、一年生に断るという選択肢はない。ふと、ウィッチと目が合う。一年生は気付く。カイカの視線は、自分の唇に注がれていることを。


 ――早く、奪って。


 まるで焦らすようなカイカの態度が、もどかしく感じる。一方で、自分はどうなってしまうのかという未知が背筋を震わす。早く、先を! と一年生は身を捩った。


 それでも、カイカは一向に行動を起こさない。まるで、躊躇っているようでもあった。否、あの〈ウィッチ〉に限って、そんなことはないだろうが。


 それでも、長い時間。


 ふと、カイカがごくり、と唾を飲んだのを下級生は認めた。まるでこれでは、先輩のほうが緊張しているようではないか、というありえない考えが一年生の頭に浮かぶ。


「あの、先輩。もしかして……」一年生が声を漏らす。


「ってコラー! お前達、何やってんだ! 下品厳禁! 綱紀粛正! 風紀向上!」


 その時、湿気込んだ廊下をぶち抜いて、窓を揺らす大声が迸った。二人は思わず顔を上げ、この廊下の隅と対極の位置を見る。そこには、『風紀委員』と刺繍された橙色の腕章が眩しい、黄色のスカーフの女子生徒が仁王立ちしていた。


「あ、委員長だ」


 カイカはさっと一年生から身を離した。一方の一年生は、ずるずると壁に背を擦りながら、床にへたり込む。どしゃ、と足元で彼女のだらしなく鞄が崩れる。


「有淵カイカ! お前は! またそうやって女子生徒にそうやって、なんかこう、なんかこう……わ、猥褻、を……」心なしか〈委員長〉の語気が弱まる。ふふ、と〈ウィッチ〉は笑った。


「猥褻だなんて委員長。わたしはまだ何もしてないよ」


 大股で寄ってくる〈委員長〉に向かい、〈ウィッチ〉はへらへらと両手を上げた。


「どこがだ、見ろ、もう顔が真っ赤だぞ」


「わたしは平気だけど」カイカは小首を傾げてみせる。


「お前じゃない!」


「わらしは、だいじょうぶれす。違うんです……」


 指された一年生は、茹ったような、蕩け切った表情で返事をした。彼女の胸は浅く何度も上下していて、必死で呼吸を整えようとしているのが見て取れる。〈委員長〉は溜息をつく。


「駄目だこれは。これは駄目だぞ、わかっているのか有淵カイカ!」


「さあ? 何がいけないのかさっぱり」


〈ウィッチ〉=有淵カイカは肩を竦めた。


「お前はいつもこうやって女子生徒を誑かして! おのれ、有淵カイカ! お前はちょっと二重で目がぱっちりしていて肌も白くて綺麗で唇もなんかぷっくりしてるし、総じて顔がよくて身長もあって、なんかいい匂いもするし口も上手くて運動もできるだけの女の癖に!」


 その言葉に、カイカは思わず苦笑いを浮かべた。それでもすぐさま、言葉を返す。


「委員長も、声がおっきくていつも元気で、ポニーテールも尻尾みたいでかわいいよ。風紀委員の仕事、いつもお疲れ様」


「なっ……くっ……」


 今度は委員長の顔が真っ赤になった。加えて、有淵カイカに頭まで撫でられてしまう始末。委員長のポニーテールがふりふりと揺れた。


「ってコラ! やめろ! わたしを懐柔するな! 賄賂だ! 猥褻だぞ!」


「撫でただけでしょ。それに、悪いのは、ついつい撫でたくなるぐらいかわいい委員長だよ」


「なっ、騙さないからな、有淵カイカ!」


〈委員長〉は跳ねるようにカイカから距離を取る。


「騙すも何もないのに。本当のことだよ」


「おのれ、慎ましく美しく、誠を示す伝統あるこの私立桜誠女学院にあるまじき〈ウィッチ〉め。お前のせいで何人の生徒が『石』に変えられたのか、わかっているのか!」


「さあ。なんのことやら」


「外を見ろ!」


 委員長は廊下の窓を勢い良く開けた。なんてことはない。この周辺、ハビタバニュータウン最古の女子高である私立桜誠女学院の中庭と、その向こうの旧校舎が見える。それらを囲むは、五月の気候に合わせ、緑の枝葉を気持ち良さそうに伸ばす木々。否、それだけではない。


「あっ、ばれた!」

「有淵先輩がこっち見た!」

「どうしよ石にされちゃう!」

「石でもなんにでもされていいや」

「わたし、コレクションされたい」


 総勢、十名以上。私立桜誠女学院の女子生徒達がそこに群れていた。


「石になんかしないよ! わたしはウィッチじゃないし! 魔法なんて噂だよ! みんな、今度また、一緒にお弁当食べようね!」


 呑気にカイカは窓の外からこちらを見つめる女子生徒たちに手を振る。黄色い悲鳴が空へ上がる。


「お前は! 今もこうして、ああいう生徒を増やしていたんだぞ」


「そういわれてもなあ」カイカは頭を掻いた。


「この、朝っぱらからこうして生徒を惑わして! 他に言うことはないのか!」


「惑わしてなんかいないって。そうだよね?」


「は、はひ……」


「どこがだ! もうお前の毒牙にかかって。着衣だって乱れて……」


「乱れてないよ」


〈委員長〉の視線がずぶり、と一年生に向けられる。そして、ぎぎぎ、と眉間に皺を寄せた。確かに、着衣に乱れはない。


「じゃあ、お前達はあんなに密着して、何をしていたんだ! まさか、そんな、もっともっと破廉恥なことを!」


「違う違う。落ちちゃったんだってさ」


「やっぱり! お前は破廉恥な!」〈委員長〉は床を踏み踏み叫ぶ。


「だから、話、最後まで聞いてよ、キリツちゃん」


 ぐい、とカイカは〈委員長〉=敷詰キリツの頬に右手をかけ、顔を寄せた。あ、とキリツの口から息が立つ。


「こ、れ」敷詰キリツの様子を無視して、カイカは自分の左手に持つものを押し付けた。


「こ、これは……」キリツは自身の右頬に押し付けられたそれへ、何とか瞳を寄せる。


「や、見せないで……」小さく一年生が言葉を漏らした。


 二人の様子にも顔色一つ変えず。有淵カイカは以下のように言った。


「この一年生の子、ポーチ、落としちゃったんだって。それをわたしが拾ったみたいなんだけど、本当にこの子のか、わからないでしょ? だから、ちゃんと中を見せてって言ったんだ」


「な、何をだ、中なんて、卑猥だ……」敷詰キリツの視線は、カイカの顔と、彼女が持つポーチの間を行き来した。


「鞄の中だよ。鞄の中を見せてもらってたの。全く、キリツちゃんは何を考えてたんだか」


 有淵カイカはす、とまるで突き放すようにキリツへ背中を向けた。遅れて、どんどんキリツの顔が赤くなる。一年生の傍、その床にはスクールバッグの口が一つ。大きくだらしなくファスナーを開いていた。


「だったら、もっとわかりやすくやれ! 紛らわしいんだ!」


 敷詰キリツは地団太を踏む。


「ん、っていうかさ、委員長、いつから見てたの?」ふと、カイカは振り返る。


「あ……違う、別についついお前達の淫靡な様子に見惚れていたわけではない! 現行犯逮捕だ!」


 その様子に、やれやれとカイカは首を振った。


「逮捕だってさ。じゃあその前に、これは一年生の君に返す。確かに鞄の中にポーチはないし、これはきっと君のだね。疑ってごめんね」


 ファスナーの開ききった鞄を確認すると、カイカは一年生の前に膝をついてポーチを差し出す。


「もう落としちゃダメだよ」


「……無理です」一年生はだらんと腕を垂らしたまま、ポーチを受け取ることができない。


「あー! もう、この犯罪者! 犯罪者は逮捕だ!」敷詰キリツが絶叫する。


「うるさいぞ、キリツ! そろそろホームルームじゃないか?」


 まるで彼女の叫びに呼応するように、もう一つ、今度は大人びた女の声が廊下を跳ねた。


「あ、ハナテ先生だ」


 寝ぐせの強烈な、垂れ目の印象的な、眠そうな女がふらり、と廊下に現れた。百七十センチ近くあるその身長故、まるでモデルのようにすら見える体形、を、ぐんにゃりと猫背にしている女。雑司ヶ谷ハナテ、この私立桜誠女学院の教師である。ふらふらと、しかして確実に、三人のもとに先生がやってきた。


「ハ……雑司ヶ谷先生! 違うんです、うるさいのはこの〈ウィッチ〉、有淵カイカです!」


 敷詰キリツは大声で主張する。


「ほう、そうかい。有淵、またお前か」


 雑司ヶ谷ハナテはじっとりとカイカを見据える。流石のカイカも教師を相手にするのは分が悪いようだった。


「自覚はないのですが」カイカは少し顔を強張らせて抵抗して見せた。すると、に、とハナテは微笑んだ。


「いいぞ、もっとやっちまえ、恥ずかしがってんじゃねえぞ! いけいけ、十七歳!」


 そう言って、ハナテは拳を突き上げる。


「いえい! 流石、先生は理解があります!」ハナテに合わせてカイカも拳を上げて見せる。そのままハイタッチまで。違うでしょ! とキリツだけが悲鳴を上げた。


 その、丁度二人のハイタッチが決まった時、チャイムが鳴った。


「おっと、時間みたい」


「あ、あの、先輩! わたし、行かなきゃ! ありがとうございました! それで、また今度……」


 一年生はすっくと立ちあがる。そんな彼女に、カイカは飛び切りの笑顔を向けた。


「そうだね、また今度。でも、今は遅刻に気を付けて」そういって、彼女の肩を優しく叩き、背中やスカートに埃がついていないか見回す。


「じゃあ、行ってらっしゃい」


「はい!」


 まるで弾かれた様に一年生は駆け出し、外も俄に慌ただしく足音がした。


「ほら、委員長も」


 憎々しげに歯噛みしているキリツへも、カイカは教室へ行くよう促した。


「おのれ、この能天気め! 覚えてろよ、人を誑かすことしか考えていない、お悩みゼロのお気楽天使のウィッチめ!」


 そう吠えて、キリツもまた廊下を大股で去っていく。その背中を、カイカはぼうっと見つめていた。先生はいつの間にかいなくなっていた。まるで幻のようだった。


「お悩みゼロ、お気楽天使、それからウィッチ、か」カイカはふと、自嘲気味に一人笑う。


 そして、あ、と声を漏らした。そう、彼女の手の中には肝心なものが握り締められたままだったことに、今気づいた。


「ポーチ、返し忘れちゃった。あーあ、わたしはまた、肝心なところで……」


 チャイムや先生のどさくさで、手渡すのを忘れてしまっていた。カイカの手の中に、一年生の忘れ物、白いポーチが残っていた。


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