第2話 この世界に魔法なんてないって魔女が言ってる
私立桜誠女学院に通う二年生、有淵カイカは、少しだけキスに憧れている、ただの女の子である。巷では〈ウィッチ〉などと呼ばれているが、本人の見解は以下の通りである。
――わたしは〈ウィッチ〉ではないし、この世界に魔法なんてものは、無い。
蝶が空を飛べるのも、ヒヨコが鶏になるのも、夜空で星が瞬くのも、日が昇るのも、お腹が空くのも、全部理由がある。
そんなことはみんなわかりきっているだろうに、と有淵カイカは思う。だけど、気付けば自分に〈ウィッチ〉なんて変なあだ名がついてしまっていることには閉口せざるを得ない。石にされちゃうだなんて、そんな馬鹿な。
確かに、カイカは自分を前にすると石のように硬直して動かなくなる女子生徒を何人も知っている。だが、そんな彼女達の胸や肩、頬がどんなに柔らかいままかを、カイカは当然知っている。加えて、ちゃんと呼吸もしているし、放っておいたら普通に動く。目の前にカイカがいるのに気付くと、悲鳴を上げたりもする。
だから、魔法なんてものは無いし、カイカは女子生徒をかどわかして家にコレクションもしていない。当たり前である。
有淵カイカは誰もいない廊下をかつかつと歩く。時刻はホームルーム寸前(午前八時二十七分)、この私立桜誠女学院において、時間にギリギリな生徒は稀である。静かなそこを早歩き。そして、自分の教室、2‐Aの扉を開く。その向こうには、魔法なんてものはないこの世界の、有淵カイカにとって『そうあるべき』現実が仕舞ってある。
――とはいえ、魔法がないのはそれとして、有淵カイカには二つの『悩み』があった。
『前髪が今日はイマイチ』
『学校に来たくなかった』
『早く放課後になんないかなー』
カイカの教室に詰まっているのは、総勢三十二名の女子生徒、と、それを超える大量の『真っ黒な人影』である。黒い外套を羽織り、老婆の仮面をつけた不気味な人影。女子生徒達の方は静かに口を閉じ、黙っているのだが、その人影達の方は違う。それらは喋るのだ。
『朝の電車、おっさん達の喧嘩のせいで五分も遅れたんだけど』
『昨日の地震は偽物で、トーキョーの地下で大蛇が目覚める予兆なんだって』
『今日午後から雨って本当?』
正直、うんざりする。カイカの口角が下がる。
――有淵カイカ、一つ目の悩み。それはこの人影=〈魔女〉だ。カイカはその、黒い外套を羽織り老婆の仮面をつけたそれらを、〈魔女〉と呼んでいる。当然、名付けたのは有淵カイカ。
カイカは教室を一瞬だけ見回した。瞬きしてみても、相も変わらず〈魔女〉は教室にぎっしりと詰まっていて、目障り。
「どうしたのカイカ?」
クラスメイトの一人がカイカの顔を不安そうに覗き込んでいる。挨拶もしないできょろきょろしているカイカを心配したのだろう。
「何かいた?」
次いで、カイカの目線が飛ぶ位置を追う。そして、首を傾げる。それもそのはず、この黒い人影=〈魔女〉だが、有淵カイカ以外の人間には見えていないのである。
「別に。大丈夫。おはよう」
カイカがそう言って微笑むと、対手は安心したように背を丸めた。カイカは規則正しく並べられた机の間を縫って歩き、自分の席に向かう。
その間にも、彼女の視線は自然と、誰かの席でもなければ生徒達でもないものに向いた。
『コーラを煮詰めるとコーヒーになる』
『猫にはわたし達が見える』
『わたしは誰にも理解されない』
〈魔女〉は、教室の生徒たち一人に対し、一人ずつ傍にいたり、いなかったり、或いは三人も四人も引き連れている人もいる。それらは静かな教室の中で、否、廊下にも、町にも、家にもいて、一方的にカイカに向けて囁き続けるのだ。
『ピザに放射線状の切り込みを最初に入れたのは日本人なんだって』
『アメリカ大統領は近々変わる』
『イヤホンのコードが絡まりすぎて棒になった』
そんなそれらが口にするのは、嘘か本当かわからない与太話や愚痴。
当然、〈魔女〉の姿は有淵カイカ以外には見えていないし、言葉も聞こえてはいない。でも、厄介なことに、彼らの言葉が実際の事件や、目の前にいる人々と関係していることがある。たまに周囲の人間と会話が成立しているように聞こえることもある。だから、それらを深く聞いていると、何が現実で何が虚構かもわからなくなり、カイカはいつも疲れる。
自分の席に着き、傍にいる〈魔女〉を見上げてみる。視線すら返さない。
そういうわけで、有淵カイカにだけは〈魔女〉が見える。聞こえる。これが彼女の一つ目の悩みだった。
ちなみに、見えるようになったのは、ごく最近。二年生に上がってすぐの出来事だった。カイカは最初、その〈魔女〉に対し、抗議の声を上げたこともあったが、聞こえていないのか無視されているのか、反応は一度もない。
また、こうなった理由もわからない。頭を打ったわけでも、変な薬を飲んだりしたわけでもない。夢を見ているわけでもない。
加えて〈魔女〉には触れることすらできない。逆に、〈魔女〉から触れてくることもないが、つまりカイカはそれらの姿を見て言葉を聞く以外には何もできない。本意としては、せめてなんとかしてくれと叫びたい。
――はあ。
でも、教室で奇声を上げるわけにもいかず、代わりに、カイカは溜息をついた。
「溜息えっろ」
一瞬、カイカはそれが〈魔女〉達の声かもわからなかった。隣の席のクラスメイト、エダがにやにやと下卑た笑みを浮かべていた。
「エダの鎖骨の方がエロいよ」やれやれ、とカイカは返事をしてあげる。すると、エダの体がびくり、と震えた。
「ちょっと!」
そして、首元を抑えて小さくなった。カイカはその様子がおかしくてふふ、と声を漏らした。ここのセーラー服の胸元はそこまで緩くはないのに。
『エダには彼氏がいる』
『今日エダの家に両親はいない』
『エダは今日、部活を休むつもりだ』
エダの後ろにいる〈魔女〉がぼそぼそと情報を並べた。
「エダ、今日帰りどっか寄らない?」
カイカはエダの机を指で弾き、声を掛ける。エダは一瞬だけ目を見開いた後、机の横に掛かったバトミントンのラケットケースを向く。
「えー? カイカに言われると行きたくなっちゃうけど、ごめん、試合近いから無理かなあ」
わたし、部長だし、と彼女は続ける。すると、どこか安心したようにカイカは頷いて答える。
「そう。残念だなあ」
そして、カイカはエダの背後を見る。エダについてあらぬ噂を口にした〈魔女〉はこちらを見ず、仮面の下もわからない。ただ、カイカがたまに〈魔女〉の噂を確認するのは、(気のせいかもしれないが)その内容が周囲の人間に影響を及ぼしていることがあるからだ。
「どうしたのカイカ? なんか髪についてた?」
エダは頭を振った。制汗剤の匂いがふわり、と広がった。朝練でもあったのだろうか。
「何でもない。いい匂い」
そう言って、カイカは小首を傾げるエダの、不思議そうにへの字に歪んだ唇を凝視した。すると、エダの頬に俄かに朱が差した。ほう、とそれをカイカが認めた瞬間、エダは顔を背けてしまった。唇を押さえている。
「やめてよ。わたしまで魔法にかかっちゃう」エダの表情は知れない。でも、耳が赤いのはわかる。
「エダまでそういうんだ」カイカは呆れ交じりに言う。でも、カイカの視線はエダの手の内側、潤んだ唇を求めて離れない。
そう、彼女の視線を奪うもの。そして先に『ある行為』こそが有淵カイカの二つ目の悩み。
『今朝の一年生のほうがかわいいと思うよ』
『あの娘とキスしちゃえばよかったのに』
『女の子同士のスキンシップだよ』
〈魔女〉達の言葉に対し、カイカは黙って唇を噛む。
『なんで、しなかったの?』
『キス』
『君ならできたよ』
カイカの手の内に、白いポーチがある。あの一年生のもの。うっかりしていて返し忘れてしまったもの。次に会ったら返さないといけないもの。それをカイカは無意識の内に開き、リップクリームを探していた――無い。そういえば、まだそういうのには疎そうな生徒だったと思い出す。
「……」
カイカは制服の胸元、スカーフをぐしゃり、と握る。勝手にポーチを開けてしまった罪悪感よりも先に、そういうものがないことへの落胆が彼女の胸に走っていた。次に来たのは自己嫌悪。次に、ごめんね。
『なんで、しなかったの?』
『キス』
『女の子同士でキスをしてはいけない』
舌打ちしたくなる気持ちを、カイカは奥歯を噛んで耐えた。駄目だ、とカイカはついに、両目をきつく閉じ、両手で耳を塞ぎ、体を丸めた。聞こえない、聞こえない、と胸の中で何度も唱える。うるさい、うるさいと心を閉じる。
――〈魔女〉にあれこれ言われなくてもわかっている。
『有淵カイカは、キスに興味がある。でも、できない』
その隙を作ることも、今朝の一年生の一件のように、彼女ならたやすい。でも、有淵カイカには、どうしてもそれができない。
それが、二つ目の悩みだった。即ち、有淵カイカは、キスができない。興味があるのに、できない。今朝見た、あの柔らかそうな下級生のそれに、迷わず自分の口を添えられたなら、そう思うのに。
理由は、やっぱりわからない。何か昔、手酷い目に遭ったのかもしれないが、さっぱり覚えていない。ただ、カイカには、相手とちゃんと了承しあった上でも、できないという漠然とした、しかして確信があった。
『無視するの?』
突然、〈魔女〉の声。カイカは無言で、耳を塞ぐ手をぎゅ、と結ぶ。能天気、なんて言われたりもするが、有淵カイカにも当然悩みがあって、嫌なこともたくさんある。
――この世界に、魔法なんてものは、無い!
――だけど、もしも魔法があったなら、だなんて。こんなことになれば、ついつい考えてしまう。
「おはようございます」
はっとして顔を上げる。教室にやっと先生が入ってくるところだった。日直が、起立、気を付け、礼、と号令をかけ、三十一人がそれに倣って立ち上がる。やや古臭いとカイカは思っているが、それもこの学校の良さ、だと思うことにしている。
「今日もいくつか伝達事項があるんだけど」
先生は出欠を取る前にまず、着席に勤しむクラス全体を見回してそういった。四十過ぎ、普段から背筋を伸ばしてやや高圧的な女教師である彼女が笑いを我慢できていない。そのことに気付いた数名の女子生徒達が、静かに沸き立つ。そんな彼女らは、教室の隅をちらちらと見ている。カイカもそちらを向くが、〈魔女〉の群れでよくわからない。
「まずは、一つ。今日は一か月遅れの転校生が来ました。みんな、拍手で迎えましょう」
先生に諭され、学級委員が率先して手を叩き、どっと拍手の波が起きる。それを破って、ゆっくりとドアが開き、一人の女子生徒が入ってきた――きれいな真っ黒の髪、透き通った白い肌。どこの学校かわからない紺のブレザー。もじもじしている指先の、その爪は、ネイルも、何も処理されていないが、とても丁寧に丸まっている。カイカは、瞼を引き上げ、息を呑んだ。
クラスの女子生徒達も、先生もまた、好奇の目でもって新しい仲間を迎える。そんな中、カイカだけが呟く。
「……知ってる」
彼女の名は、
「くろうず、むみ、です」「みんちゃん?」
教団の横に立つ、彼女と同時に、カイカの口からその名前が出た。
『黒渦 無明』黒板をチョークが叩く。
「家族の都合で転校してきました。よろしくお願いします」
拍手がやんでなお、やや聞き取りずらい、小さな彼女の声。クラスメイト達はその名前を黒板の文字で理解し、先生は名簿で確認していて、本人は当たり前だが自身の声でもって知っている。だが、たった一人。彼女のことを、古い記憶で有淵カイカは認識した。
――時間がまるで止まったよう。不思議と、あれだけ騒がしかった〈魔女〉の声も聞こえない。姿も目に入らなかった。
カイカの脳裏に走るのは、懐かしい思い出の群れ。
赤く焼けた公園、小学生の頃、幼い日、あの頃はどんなビルよりも高く感じた、遊具の上、砂の匂い、コンクリートの感触、鉄の味、二人きり。遠く懐かしい、なんでだろう、すっかり忘れていた記憶。
あの時の子供が、そのまま大きくなったような姿の少女がそこにいる。
――黒渦ムミを、わたしは知っている。
カイカは黙って、ゆっくりと唾を飲んだ。
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