あちら側に消えてしまう、そのまえに
あちら側に消えてしまう、そのまえに
雪乃(ゆきの)を誘って下校するのが、久しぶりのような気がした。
自転車置き場で自転車を取って、ちょっとした坂を下って……くだりきる前に左に折れる。幹線道路に出ずに、土手へと逸れる。そこで自転車を降りて……放課後の太陽に向かってふたりで歩く。
僕と雪乃が、中学生のころから続けている習慣で『かえり道』と言えば、この夕暮れの景色が思い浮かぶ。となりに歩く、雪乃と一緒に。
思い返せば雪乃の飼っているエリンという犬が脱走して、夜遅くに見つけたのも――この土手だった。ずっとずっと昔の出来事だけど。
山の稜線に従って淡い色に滲んでいく夕暮れは、ときどき鋭い光を放ったりするが……おおむね、穏やかな一日の終わりを告げる鐘の音のように見えた。
春夏秋冬を通して、ふたりで歩んできた土手道で僕は歩調を緩めて彼女に寄り添う。
「あ、あのさ……」
なにか喋ろうと思っても、気のいい言葉が出ない。
ちらと雪乃がこちらを見る。
日曜日に髪をばっさりと切って短くした彼女は、月曜日の朝に「似合ってるかな?」と聞いてきた。僕は頷いて「似合ってる。短い方もいいと思う」と答えた。
すると少しだけ悲しい顔をして。
「気分をね、変えたくって」
険悪な空気が濃くなって、うまく喋る機会を失って……その日はひとりで帰った。幹線道路をかっ飛ばすように自転車をこいだ。
火曜日、水曜日、そして木曜日と過ぎて――。
あっという間の金曜日になった。
インフルエンザで学校を休んだとき以来だ。こんなに雪乃と一緒に帰らなかったのは――。
「なんか、ごめん……」
重苦しくなった空気に耐えられなくて、僕は言った。
雪乃はちらと僕を見上げてから、また前をまっすぐに見据えて自転車を押す。
からからと自転車の車輪がまわる音が小さく響いて、ときどき小石を踏む音が混ざった。
「謝る事なんてないじゃん」
「そうかな」
「そうだよ。別にケンカしたわけでもないし」
雪乃の言葉に頷いていいのか、わからなかった。
僕と雪乃の関係は、幼稚園のころまでさかのぼる。
ご近所さんだった僕らは、同じ幼稚園に通っていた。
そのまま公立の小学校に上がる予定だったが、僕は父親の都合で北海道へ引っ越すことになった。そこで六年間を過ごし、中学一年生のときに東京へ移り住み、また父親の都合で、雪乃の近所に戻って来た。中学二年生の秋ごろで、微妙な空気のなかで、僕は公立の中学校に転校した。
母親は「ほおら、雪乃ちゃんって覚えてるでしょ? あの子がいるから平気よ」と軽く捉えていたが、僕は十中八九……いじめられると覚悟していた。
受験シーズンが近いということもあって、学校はぴりぴりしていた。
東京から転校生が来るということで、敵視するような奴もいた。たしかに僕は東京から転校してきたが、葛飾区に住んでいたのは中学一年生のときだけで、実際はずうっと帯広の街にいたのだ。まったく東京の都会人でもなんでもない。
そんな僕に、雪乃が「困ってるっぽい?」と声をかけてきた。
それが再会で、久しぶりに大人っぽくなった雪乃に対する……恋の始まりだった。
きっと雪乃も母親から「蕪木さんちの修(おさむ)くんが戻って来るから、仲良くしてやんなよ」とか言われたに違いない。
それをちゃんと守って、僕に声をかけてきてくれたのだから……まじめな子だ。
中学二年生の途中から一緒に受験シーズンに入って、同じ県立の高校へ進学を決めた。中学三年と高校一年の二年間は、お互いに意識をしあいながら過ごしていたと思う。それは惑星と衛星が互いに引きあったり離れたりしながら、この土手道という銀河の軌道を歩いていた。
そうして三か月前の、とある日に……僕は生まれて初めて、異性に「好きです」と告白した。
僕の初めての告白を真正面から受け止めてくれた雪乃は「わたしでよければ」と交際を許可してくれた。
嬉しかった。
ずっとそばにいてくれたのに、こうして胸の内を受け止めてもらえたのは……すごくうれしかった。
付き合い始めて、なにか大きく変わったか。
たぶん、変わってない……と信じている。
土曜日に遊びに出かけたり、日曜日に一緒に勉強したり。
それまでの事柄が繰り返されるだけで……どちらかと言えば、お互いに「好きです」と本音を告白してしまったせいで、どこか空気が軋むような気がしているのは……なぜだろう。
友達でいたほうが、なにかとスムーズだったのではないかと思い始めたとき――僕は雪乃に肉体的な関係を迫ってみようと覚悟を決めた。
健全な男女としての交わりを求めたのは、きっと自然な事だと思いたい。
まわりの友達から「おまえ、もう彼女とシたの?」と聞かれることも増えた。
交際して三か月で、振り返ってみればキスもしてない。
けれども、それを赤裸々に伝えるわけにもいかないので「まあ、ぼちぼちかな」という玉虫色の返答を繰り返していた。
きっと雪乃だって女の子の友達から似たような話を振られているのだろう。
そうしたふたりだけの会話を、この土手道で歩きながら交わす。
雪乃は「修はしたいの?」と聞いてきた。
僕は「うん」と短く頷いて「でも雪乃が嫌なら、しない」と答えた。
そうした会話があった日の夜に「あした、遊びに来ない?」と雪乃からチャットをもらった。
僕はいよいよ、そうしたことが起こるのかもしれないとそわそわして、妙に寝付けなかった。
翌日は雪乃の家で過ごした。
結果として、僕らはそういう事柄に挑戦することになった。
初めて彼女とキスをして、女性の身体の柔らかさとか温かさを服の上から確かめることになった。
初めての経験はあっという間で覚えていない、という話を聞いたことがあるが、僕は忘れることなく覚えている。誰かの肌の質感とか、服の繊維が掌に残る感触とか。
そして――それらは散々な結果に終わったのだ。
まず、僕がうまくできなかった。
男性的な高まりを保つことが出来なくて、雪乃の女性的なプライドを傷つけてしまった。
しばらく時間をおいてから再挑戦しようとしたが、今度は雪乃がうまく僕を受け入れることが出来なくて、微妙な空気のなかで……お互いが不完全燃焼のままに終わった。
ときどきスマホに出てくる『そういう漫画』のバナー広告では、スムーズかつ円滑に行為が行われていくのに、どうして僕の場合はそうならなかったのだろうか。
雪乃が好きだ。
胸を張って言える。
なのに、うまく彼女にそれを伝えることができなかった。
そんな不完全燃焼の翌日に、彼女はバッサリと髪の毛を切ったのだ。
まるで僕に対するなんらかの強いメッセージと覚悟を示すように。
そうして彼女と下校しない一週間が始まったわけである――。
ちょっとした寒冷期を迎えた僕らは、再びの温暖を取り戻すべく……今日も土手を歩く。
奇妙な沈黙のなかをふたりは歩いた。
「今日のさ、休み時間になにを話してたの?」
ふと雪乃が質問をしてきて、僕は「えっ」と顔をあげた。
「休み時間って、いつの?」
「ほら、中嶋くんとかと。みんなで話してたじゃん」
彼女は前を向いたまま、こちらを見ずに問いかけてくる。
考えを少し巡らせて、合点がいくシーンが思い出された。
「あぁ……。あれは――」
「あれさ、聞こえてるから。結構ね」
「そ、そうだよね。変に盛り上がっちゃってたし……な」
怒ってるのかな。
それとも軽蔑されたのかな。
いろいろな不安が胸に渦巻いた。
雪乃は肩越しに僕へ振り返ってから。
「美紀はサイテーとか言ってたけど、麻衣はそんな感じでもなかった」
彼女はそう言ってから僕をじっと見据えて。
「修は、どう思ったの」
「えっ……いや、僕は――」
「ちゃんと言って」
鋭く詰問されて返答に窮する。おまけに動かしていた足まで止まって、僕の自転車はぴたりと動きを止めた。母猫が子猫に振り返るみたいに雪乃は立ち止まって「ねえ!」と強く言葉を押し込んでくる。
そんな彼女に、僕は答える。
「そ、そりゃ、興味はあるさ。そういうもんだし」
「あれ、誰のスマホで見てたの」
「中嶋のだよ。なんか兄貴のアカウントもらったって言って、成人向けの動画を流し始めたんだ」
「で、みんなで見て、盛り上がっていた……と」
こくりと僕は頷く。
クラスでも中心にいる中嶋は、そうした男心のわかるやつだ。
ただ、時と場合を考えないことが多い。
「修は、それ見てどう思ったの。ただ、興奮しただけ? いいなーって」
そう言われると……うまく答えられない。
「実は、よくわからないんだ」
「……わかんないって、なに? なんで」
「昔は興奮するというか、釘付けになるっていうか……そう言う感じだった。でも、先週の事があってから、なんか違和感があるんだ。たしかに、男女のそういうことをしている動画に違いないけど、現実感がないっていうか、僕が知りたいことがのってないっていうか」
雪乃はむっつりと黙ったまま僕を見ている。
少し困惑して、怒っているようにも見える表情が、僕の知りたい『雪乃』という『女性』のリアルなのだ。
あの動画に現れた女性は、雪乃より大人で、性的な部分がより強調されたスタイルをしていた。学生服を着ていたけれども、僕らが着ているようなものではない……ひと昔前の、丈が短くてサイズがあってない感じのものだ。
僕は「違うんだよ、なにかが」と重ねてから。
「あの女の人は、たしかに綺麗だった。でも、綺麗すぎて『うそ』っぽく見えたんだ。学生服を着ているけど……絶対に高校生じゃない。そりゃそうだよね、高校生だったら問題だ。それに相手の男性はもっとひどい。完全にオジサンなのに、昭和みたいな黒い学生服を着てるんだ。そんなふたりが、よくわからない理由で絡み始めてさ」
記憶を辿りながら、うまく違和感を伝えようとしてみるが……どうにもうまくいかない。
僕は顔をぶんぶんと振って。
「――リアルじゃない。なんだか、すごく」
すると雪乃はポケットからスマホを取り出して、僕に差し出してきた。
「リアルじゃない。なんか、わかる気がする。たぶん、あれって見本であって……わたし達の現実とは直接つながっていないんじゃないかって思うの」
そう言って彼女は画面を起動させて、ロック画面を表示させる。
「わたし達ってさ、小さいころからスマホがあったじゃん? スマホってなんでも見せてくれて、画面のなかに現れるものが『すべて』のようなに錯覚しちゃう。たとえば料理とか。お庭に植えたガーベラの咲き具合とか、色味とか。スマホで見たものが、正しいカタチなんだって思っちゃうこと、ない?」
「あ、あると思う……」
サッカーのシュートの蹴り方とか、原付のおすすめマフラーの選び方とか……。
雪乃はくすくす笑ってから。
「検索して調べる。動画見たかったら、どこかのyoutuberが実践している動画が出てくる。それが『お手本』みたいに見える。でもさ、実際はそうじゃないんだよ」
そう言って彼女は漫画のアプリを立ち上げて、僕に見せつけてきた。
そこには女性が好みそうな絵柄の漫画が表示されていた。少女漫画ではない。肉体を重ねる成人向けの女性漫画だった。
雪乃は僕の目をじっと見て、見たよね、とアイコンタクトを送ったかと思ったら、スマホをポケットにしまった。
「あっ、雪乃……?」
「わたしも、うまくできると思ってた。だって、漫画も雑誌も、ぜんぶうまく行っててさ。失敗してるのなんて、見たことなかったから」
からからと彼女は自転車のタイヤを鳴らしながらゆっくりと歩き出す。
僕も慌てて歩き出す。
雪乃は「ハァ……」とため息をついて。
「考えてみればさ。料理動画を見て夕食を作りました。見た目はうまくいったけど味がイマイチなの。スマホじゃ味まで確かめることができないから、これが正しくできたのかどうかって……判断できない。そういうとき、どうすればいいと思う?」
「どうすればって……?」
「お父さんとお母さんが『おいしかったよ』って言ってくれたら、成功。しょっぱ過ぎるとかおいしくないって言われたら失敗なんだよ」
彼女はそこまで言って。
「結局はわたし達なんだよね、決めるのは。スマホじゃない」
そう言って僕をじっと見上げてくる。
彼女は彼女なりにあの時の事を気にしていて、僕の事を気にかけてくれているのだろうか。
本当は僕がちゃんとフォローしてあげなくちゃいけないのに……。
「あ、あの……雪乃さ」
「エリンがね、そろそろダメかもしれないの」
「エリンが……?」
彼女の口から出たのは、思いがけない名前だった。
エリンは雪乃の家で飼っているマルチーズで、ずっと昔から元気に部屋を走り回っている印象だった。言われてみれば、もう相当な歳になるだろう。
「今週の火曜日ぐらいから、もう本格的にダメっぽくてさ」
「そ、そうだったんだ……」
彼女はそこで会話を切って、ポケットにしまったスマホを再び取り出した。
「たくさん写真を撮ってさ。昔の思い出とか、見返したの。そうしたらね、なんか……」
つうっと雪乃は涙を流す。
僕はその顔にハッとした。
「本当に大切なものも、いつかはスマホの画面の向こう側に行っちゃうのかなって、思ったの」
違うよ、と否定したかった。
否定したかったのに、雪乃の言葉が的を得ているようで言えなかった。
エリンは消えてしまう。遠くない未来に。
きっとその思い出は胸のなかにおぼろげな形で残るはずだ。でも、残酷なまでに明確なエリンの姿が『スマホの画面の向こう側』に残っている。データというカタチで。
雪乃は指で涙を拭ってから。
「スマホが怖いんだ。わたし達に模範的なものを見せてきてさ。それでいて、あんまりめくってほしくない記憶も、しっかりと覚えてるわけでしょ。ぜんぶ、わたし達の人生はスマホのなかに吸い込まれて、この画面が指示する方向にわたし達は顔を向けるの」
たとえば、中嶋がもってきたアダルト作品の動画とか。
頑張って作った『おいしい』のか『おいしくない』のかわからない料理動画とか。
楽しそうにはしゃいで動画を廻す名前も知らないユーチューバーとか。
「スマホがない時代の方が、もしかしたら幸せだったんじゃないかな」
雪乃の意見に僕は考えを巡らせる。
スマホがない時代は、どんな時代だったのだろうか。
神社の裏にスケベな雑誌が落ちていて、中嶋や友達とみんなで額を突き合わせて……落ちている雑誌を食い入るように見るのだろうか。でも『捨てられた』『落ちていた』雑誌だ。そんな不潔なものをみんなで血眼になって取り合うだろうか。
僕は顔を振って「わかんないな……」と今も昔も変わらない夕日の沈む朱色を眺めた。
それらを眺めながら、隣で涙を拭う雪乃に手を伸ばした。
彼女はびくりと肩を震わせたが、すぐに僕の指を握り返してくれる。
「雪乃はここにいてくれる。スマホのなかじゃない。地続きの現実に、いてくれる」
「いるよ。現実に。だって、生きてるんだもん」
うん、と僕は頷いて。
「落ち着いたら、また遊びに行こうよ。どこだっていい。雪乃の好きなところに行こう」
そう言って、僕は心に決める。
雪乃だって失われてしまうかもしれない。
だから、ちゃんとするんだ。
あちら側に消えてしまう、そのまえに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます